第二十三キュン 先輩、卒業後の話をすると停電します
翌日の夕方。研究資料を届けに来た秋月先生も、そのまま寮で夕食を取ることになった。
「近くの川でホタルが見られるらしいよ。今夜、行ってみない?」
「ホタルって、こんな街中でも見られるんですね」
すずが驚いたように顔を上げた。
「学園の裏手にある小川、意外と綺麗なんだよ。毎年この時期だけ、少し光るんだって」
秋月先生の言葉に、水瀬が真っ先に反応した。
「行きたい。見たことないかも、実物のホタル」
「私も、賛成」
奏がのんびりと頷く。
☆
夕食を終えると、寮生全員で懐中電灯を片手に、夜の道を歩き始めた。
街灯の少ない裏道に入ると、周囲は次第に暗さを増していく。
「なんか、探検みたいですね」
すずが、少し弾んだ声で言った。
「危ないから、足元気をつけろよ」
俺がそう声をかけると、すずは小さく頷いて、俺のすぐ後ろについてきた。
☆
川沿いの小道に着くと、秋月先生が懐中電灯を消すよう指示した。
「灯り消して、少し待ってみよう」
全員が懐中電灯を消すと、あたりは一気に闇に包まれた。
最初は何も見えなかった川面の暗がりに、やがてぽつり、ぽつりと、淡い光が浮かび始めた。
「あ……」
すずが小さく息を呑む声が聞こえた。
一つ、また一つと、ホタルの光が草むらの間を漂い始める。橙色でも白色でもない、淡い緑がかった光が、まるで呼吸するように強くなったり弱くなったりしながら、闇の中をゆっくりと移動していた。
「綺麗……」
水瀬が、隣で小さく呟いた。
「思ったより多いね」
奏が、川面を見つめながら言う。その横顔が、ホタルの淡い光にぼんやりと照らされていた。
「毎年、この時期だけなんだ」
秋月先生の説明に、理央が頷いた。
「短命な発光現象ね。成虫の寿命自体、二週間程度しかないと言われているわ」
「理央、そういう豆知識、こういう時くらい言わないでもよくない?」
水瀬が小さく笑いながら突っ込む。
しばらくの間、誰も何も言わず、ただ光の群れを眺めていた。
風が吹くたびに、草の匂いが強くなったり弱くなったりする。遠くで、川のせせらぎがかすかに聞こえていた。
その静けさの中、ホタルの光だけが、ゆっくりと明滅を繰り返している。
「なんか、この光も、感情エネルギーみたいですね」
すずが、ふと呟いた。
「どういう意味だ?」
「その、短い時間しか光らないのに、それでも一生懸命光ってるっていうか」
すずの言葉に、俺は思わずホタルの光を見つめ直した。
「そうね」
理央が珍しく、感傷的な口調で頷いた。
「限られた時間の中でしか輝けないものだからこそ、価値があるのかもしれない」
「白峯がそういうこと言うの、珍しいな」
「今日だけの気まぐれよ」
理央はそう言いながらも、しばらくホタルの光から目を離さなかった。
少し離れた場所で、奏は一人、じっと川面を見つめていた。
「有馬先輩、どうかしましたか?」
俺が声をかけると、奏はゆっくりとこちらを振り返った。
「ううん、なんでもない。ただ、この光見てたら、なんとなく、色々考えちゃって」
奏の声には、いつもの飄々とした調子とは少し違う、静かな翳りがあった。
「考えちゃうって、何をですか?」
「うーん、まだうまく言葉にできないんだけど」
奏は小さく笑って、それ以上は続けなかった。
☆
三十分ほど眺めた後、寮生たちは名残惜しそうに帰路についた。
「また来年も、みんなで見に来たいですね」
すずが、歩きながら小さく呟く。
「……来年は、有馬先輩いないけどね」
水瀬がぽつりと言った。
「でも、卒業しても、誘ってくれたら来るよ」
奏は少しだけ寂しそうに笑った。
「絶対誘います」
すずはそう答えながら、少しだけ寂しそうに奏を見た。
☆
六月上旬、寮のリビングにいつもと違う空気が流れていた。
「有馬先輩、最近スケッチブック持ち歩かなくなりましたね」
すずがふと気づいたように呟いた。
「あー、うん。ちょっとね」
奏はいつものんびりした調子だが、答え方がどこか歯切れ悪い。
「進路調査票、まだ出してないですよね」
理央が容赦なく核心を突く。
「理央ちゃん、そういうとこ本当に容赦ないよね」
「事実を確認しているだけよ」
☆
その夜、俺は廊下を通りかかった際、奏の部屋の前で足を止めた。
ドアの隙間から、進路資料らしきパンフレットが床に散らばっているのが見えた。
「先輩、ちょっといいですか」
声をかけると、少し間があってから返事があった。
「あ、亮太郎くん。どうぞ」
部屋に入ると、大学の資料が机の上に何冊も積まれている。
「これ、全部美大の資料ですか」
「うん。まあ、進路のこと、そろそろ決めないとって言われてて」
「有馬先輩、美大目指してたんですね」
「目指してた、っていうか」
奏は資料の一冊を手に取って、しばらく眺めてから机に戻した。
「正直、まだ迷ってる」
「先輩なら、実力的にも問題ないんじゃないですか」
「実力の話じゃないんだよね」
奏は珍しく、いつもの余裕のある笑みを見せなかった。
「絵を仕事にするのって、思ってたより怖いことだなって、最近思うようになって」
「怖いって」
「今は好きなように描いてるだけでいいけど、仕事にした瞬間、評価されるものになるでしょ。それが、その」
言葉を選ぶように、奏は少し間を置いた。
「上手くいかなかったとき、好きだったものまで嫌いになりそうで、怖い」
いつもの飄々とした口調とは違う、素の弱さが滲んでいた。
「先輩がそんな風に思ってるの、初めて知りました」
「あんまり、こういう話しないようにしてるからね」
奏は苦笑いを浮かべる。
「余裕あるふりしてる方が、楽なこともあるから。それに、三年生が不安そうにしてたら、みんなまで不安になるでしょ」
「でも」
俺は少し考えてから続けた。
「怖いって思うのは、それだけ本気で向き合ってるってことなんじゃないですか」
「……そうかな」
「適当にやってたら、怖いなんて思わないと思います。俺は絵のことよくわかんないですけど、それくらいは分かります」
奏はしばらく黙って俺を見つめていた。
「亮太郎くんって、たまにこういう、変に真面目なこと言うよね」
「悪いですか」
「ううん。悪くない」
奏は小さく笑って、机の上の資料をまとめ直した。
「もう少し、ちゃんと考えてみようかな」
「それがいいと思います」
その瞬間だった。
――ピコン。
『感情エネルギーを検出しました。四・一キュン』
「あ」
部屋の壁際にある小型モニターが光った。
「今の、久しぶりに大きい数字ね」
奏は驚いたように自分の手元を見て、それから少し照れたように笑った。
「亮太郎くんに励まされて発電するの、なんか変な感じ」
「変な感じでいいですよ、べつに」
「うん」
奏はいつもの調子に戻りつつも、どこか柔らかい表情のままだった。
☆
部屋を出ようとしたところで、奏が呼び止めた。
「亮太郎くん」
「なんですか」
「今日の話、あんまり大袈裟に扱わないでほしいな。理央ちゃんとか、絶対データにしそうだから」
「それは、まあ、分かります」
「でも、聞いてくれてありがとう」
その言葉には、いつもの軽さとは違う、確かな重みがあった。
☆
リビングに戻ると、理央がタブレット片手に待ち構えていた。
「今の発電、何があったの?」
「べつに、たいしたことじゃない」
「四・一キュンはたいしたことよ」
「先輩のプライベートなことだから、言わない」
「発電データの原因分析に必要なんだけど」
「本人が嫌がってるなら駄目だろ」
「珍しく口が堅いのね」
理央は少し不満げな顔をしたが、それ以上は追及してこなかった。
「まあ、いいわ。数値だけ記録しておく」
「それは好きにしろよ」
☆
その夜、寝る前になっても、有馬先輩のことが少し気になっていた。
普段は余裕そうに笑っている先輩にも、ちゃんと迷いや不安がある。
「有馬先輩、大丈夫かな」
誰にともなく呟いて、俺は部屋の明かりを消した。




