第二十一キュン 水瀬がコートの上だと別人です
その週末、俺は特に予定もなく、寮の掃除を早めに済ませていた。
「今日、水瀬先輩の試合ですよね」
台所で洗い物をしていると、すずがふと声をかけてきた。
「そういえば、そうだったな」
「応援、行かないんですか」
「いや、まあ、別に行かなくても」
言いながら、自分でもその返事がどこか歯切れの悪いものだと感じていた。
「私、絵の資料集め、学校の図書室でやるから、ついでに寄ってみようかな」
奏がのんびりとそう言うのを聞いて、俺はふと思い立った。
「……俺も、行ってみるか」
「あら、珍しい」
「別に、暇だっただけだ」
奏はにやにやしながら、それ以上は突っ込んでこなかった。
練習試合の会場になっている別校のテニスコートは、寮から自転車で十五分ほどの距離にあった。
昼下がりの日差しが、コートのフェンスにじりじりと照りつけている。試合はすでに始まっていて、金属フェンスの向こうから、ラケットがボールを打つ乾いた音が、規則正しく響いていた。
俺はフェンスの外側、木陰になった場所に立って、コートを見渡した。
しばらく選手を探していると、すぐに水瀬の姿を見つけた。
――一瞬、それが本当に水瀬なのか、少し疑った。
コートの中の水瀬は、寮で見る水瀬とは、まるで別人だった。
サーブの構えに入る瞬間、表情から余計な力みが消えて、代わりに鋭い集中の色が浮かぶ。低く踏み込んだ足の動きは無駄がなく、打球の瞬間、短く鋭い声が漏れる。
「っし!」
サービスエースが決まった瞬間、水瀬はガッツポーズも見せず、ただ小さく頷いて、すぐに次のポイントへ意識を切り替えていた。
「……水瀬って、こんな顔するんだな」
思わず声が漏れた。
いつも寮では、発電がどうとか、照れたり怒ったり、忙しなく感情を表に出している水瀬しか見たことがなかった。
だが今、コートの上の水瀬には、そういう浮つきが一切なかった。ただ純粋に、目の前のボールと相手の動きだけを見ている。
ラリーが続く中、水瀬は何度も体勢を崩されながらも、粘り強く食らいついていた。
汗が額から顎へと伝い落ちる。息が上がっているのが、フェンス越しにも分かった。
それでも、水瀬の目には、諦めの色が一切見えなかった。
第一セットを落とした。
普段の水瀬なら、多少不貞腐れたような態度を見せてもおかしくない。しかし水瀬は、コートチェンジの合間、タオルで汗を拭きながら、パートナーらしき部員と何やら短く言葉を交わし、また淡々と次のセットに向かっていった。
その姿には、感情に振り回されない、確かな強さがあった。
「意外と、様になってるでしょ」
いつの間にか隣に来ていた奏が、木陰から一緒にコートを覗き込んでいた。
「先輩、いつからここに」
「さっきから。亮太郎くんが真剣に見てたから、声かけそびれちゃった」
「そんな真剣に見てたつもりは」
「見てたよ、すごく」
奏はいたずらっぽく笑いながら、コートに視線を戻した。
第二セットに入ると、水瀬のチームは徐々にペースを取り戻していった。
鋭いリターン、粘り強いラリー、味方が崩れた時のフォロー。
どのプレーにも、寮では見せない、水瀬の別の一面が滲んでいた。
試合終盤、際どいポイントで、相手のミスジャッジと思われる判定があった。
審判の判定に、周囲の観客からどよめきが漏れる。
水瀬は一瞬、明らかに不満そうな表情を見せたが、それも一瞬のことだった。すぐに小さく息を吐き、何事もなかったかのように次のポイントに向き直った。
「文句、言わないんだな」
俺が思わず呟くと、奏が答えた。
「あの子、そういうところ、ちゃんとしてるよね」
試合は、僅差で水瀬たちのペアが勝利した。
勝敗が決まった瞬間、水瀬は大げさにガッツポーズをすることもなく、ただネット越しに相手選手と握手を交わし、丁寧に一礼していた。
その姿を見て、俺は妙に胸を突かれるような感覚を覚えた。
試合終了後、部員たちが道具を片付け始める中、水瀬は年下らしい部員に何やら声をかけていた。
「今のバックハンド、悪くなかったよ。あとは、もう少し早めに構えられたら完璧」
「は、はい! ありがとうございます!」
後輩らしき部員が、嬉しそうに頷いている。
水瀬は普段見せる強気な調子とは違う、穏やかな声色でそう言っていた。
片付けを終えた水瀬が、ふとフェンスの外に目を向けた瞬間、俺と目が合った。
「……え」
水瀬の表情が、一瞬で固まる。
「なんでいるの?」
驚いたように駆け寄ってきた水瀬に、俺は素直に答えた。
「応援しに来た」
「誰を?」
「水瀬以外に誰がいるんだよ」
その一言に、水瀬の顔が、見る間に赤くなっていった。
「……ちょっと、待って、なんで急にそんな」
「急にって、試合あるって聞いてたから、来ただけだけど」
「言ったのは、その、事実として言っただけで、来てほしいとか、そういう意味じゃ」
「知ってる。勝手に来ただけだ」
俺がそう言うと、水瀬はしばらく言葉に詰まったまま、視線を泳がせていた。
「試合、良かったな。特に、後半」
「見てたの、最初から?」
「ああ」
「……恥ずかしいんだけど」
水瀬は、汗の滲んだ前髪をかき上げながら、少し俯いた。
「コートの上の水瀬、寮とは全然違うんだな」
「そう、かな」
「なんか、真剣な顔してて、驚いた」
俺が素直にそう言うと、水瀬は一瞬、意外そうな表情を見せてから、少し照れたように笑った。
「テニスの時は、そりゃ、真剣にやるよ」
「ジャッジ、おかしかった場面あっただろ。あれ、文句言わないんだな」
「言っても仕方ないし。そこで揉めたら、部員たちの空気まで悪くなるから」
「そういうところ、ちゃんとしてるんだな」
「なにその、上から目線の感想」
「褒めてるんだよ」
水瀬は少し照れくさそうに、荷物をまとめる作業に戻った。
「あの、後輩に声かけてたのも、良かったと思う」
「ああ、あの子? まだ一年生で、緊張しやすいタイプだから」
「面倒見いいんだな」
「先輩だから、当然でしょ」
軽く言葉を交わしながらも、これまで寮で見てきた水瀬とは、どこか違う手触りの会話だった気がした。
☆
帰り道、自転車を押しながら並んで歩く道すがら、水瀬がふと尋ねてきた。
「有馬先輩も来てたよね」
「ああ、途中から一緒に見てた」
「二人して、こっそり見に来るとか、なんか恥ずかしいんだけど」
「こっそりってわけじゃないだろ」
「じゃあ、堂々と応援しに来たってこと?」
「まあ、そうなるのか」
「……変なの」
水瀬はそう呟きながらも、その口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。
寮に着く頃には、夕方の光が道の端まで長く伸びていた。
「今日は、ありがとう」
水瀬が玄関先でふと立ち止まって言った。
「べつに、たいしたことしてないけど」
「見に来てくれたの、単純に、嬉しかったから」
その瞬間だった。
――ピコン。
水瀬のスマートフォンが、微かな音を立てた。
水瀬が慌てて画面を確認すると、通知欄にこう表示されていた。
『感情エネルギーを検出しました。四・〇キュン』
「うわ、また……」
水瀬が顔を覆いかける。
しかし俺の頭にあったのは、その数字のことよりも別のことだった。
「……試合中より、今の方が心臓に悪い」
思わず漏れた本音に、水瀬が驚いたように顔を上げた。
「な、なにそれ」
「いや、その、コートの上の水瀬見てる時は、変にドキドキしなかったんだけど。今の方が、なんか、こう」
自分でも、うまく言葉にできなかった。
「……よく分かんないけど、悪い気はしない」
水瀬は、しばらく黙ったまま俺の顔を見つめていたが、やがて視線を逸らしながら、小さく呟いた。
「そういうの、不意打ちでやめてよ」
「不意打ちって、普通に思ったこと言っただけだけど」
「それが不意打ちなの!」
☆
その夜、ふと思い出したのは、四・〇キュンの数字ではなかった。
コートの上で、まっすぐボールを追っていた水瀬の横顔だった。
次に試合があったら、また見に行こう。
そう思った自分を、今度はべつに否定しなかった。




