第十六キュン 相合傘は高効率発電設備ではありません
五月半ばのある日、朝は晴れていたのに、午後になって空模様が急変した。
「噓でしょ、傘持ってきてないんだけど」
放課後、下駄箱で靴を履き替えていると、水瀬が空を見上げて呟いた。ぽつぽつと降り始めた雨が、あっという間に本降りになっていく。
「俺は持ってきてる」
「よかった。貸して」
「一本しかないんだけど」
水瀬が固まった。
「……相合傘ってこと?」
「いや、他に選択肢ある?」
水瀬はしばらく黙り込んでから、諦めたように肩を落とした。
「仕方ないか。じゃあ、失礼して」
傘を開いて、二人並んで歩き出す。雨粒が傘の表面を叩く音が、思っていたより大きく響いた。
傘の下は思ったより狭かった。肩が触れないように距離を取ろうとすると、どちらかの肩が濡れてしまう。
「もうちょっと寄って。濡れてるよ、水瀬」
「い、いや、これくらい平気」
平気と言いながら、水瀬の右肩はすでに雨で濡れ始めていた。制服のブレザーに、じわじわと色の濃い染みが広がっていく。
「無理するなよ」
俺は傘を少し傾けて、水瀬の側を守るようにした。
その拍子に、二人の距離が自然と縮まる。
「……」
水瀬は何も言わず、少しだけ俺のほうに寄ってきた。雨音に紛れて、水瀬の呼吸の音が、いつもより近くに聞こえた気がした。
一分ほど無言で歩いていると、道の水たまりを避けようとした水瀬がよろけて、俺の腕に軽くぶつかった。
「あ、ごめん」
「大丈夫か」
支えるように手を添えると、水瀬の顔が耳まで赤くなっているのが見えた。
――ピコン。
『感情エネルギーを検出しました。三・一キュン』
「うわ、今、スマホ鳴った」
水瀬が慌ててポケットからスマホを取り出し、画面を見て絶望的な顔をする。
「お願いだから今は測定止めて!」
「無理だろ、そんな機能」
「知らない、なんとかして!」
水瀬が半泣きで訴えるが、俺にどうにかできる話ではなかった。雨脚は次第に強まり、アスファルトを打つ音が、二人の会話をかき消すほど大きくなっていた。
☆
さらに一分ほど歩いたところで、聞き覚えのある声がした。
「あれ、ひよりちゃんと亮太郎くんじゃない」
振り返ると、奏がコンビニの軒下で雨宿りをしていた。手には大きめの鞄を大事そうに抱えている。
「有馬先輩も、傘持ってないんですね」
「うん、忘れちゃった。店出た途端に急に降り始めて」
「その鞄、ずいぶん大事そうですね」
「画材入ってるから。これは濡らせないの」
「そこは死守するんですね」
「これがないと本気で困るから。しばらく止みそうにないし、私も入れてもらおうかな」
「え、いや、それは」
止める間もなく、奏は当然のように傘の下に入ってきた。三人で一本の傘というのは、さすがに窮屈だった。
「ちょっと詰めてよ、亮太郎くん」
「これ以上詰めたら傘の意味なくなりますって」
押し合いへし合いしているうちに、また別の声がした。
「――あら、みんな揃ってるのね」
理央が、傘も差さずに濡れながら歩いてくるところだった。髪が雨で額に張り付き、いつもの涼しい表情が、珍しく崩れていた。
「白峯も持ってなかったのか」
「うん、天気予報を信じすぎた結果ね」
「なんで理数特進科がそんな凡ミスするんだよ」
「予測不能な気象現象は、統計的にも一定の確率で起こるものよ」
「言い訳長いな」
結局、理央も傘に入ることになり、一本の傘に四人がひしめき合う羽目になった。傘の骨組みがぎしぎしと嫌な音を立てている。
「もう無理、絶対入りきらない」
水瀬が悲鳴に近い声を上げる。
「肩、押さないでよ理央」
「押してないわ、物理的に空間がないだけよ」
「有馬先輩、画材そんな抱えてたら余計狭いです」
「これは死守案件だから」
四人で身を寄せ合いながら歩く様子は、傍から見ればかなり間抜けな光景だったに違いない。
傘の骨組みがぎしぎしと軋み、はみ出た部分から次々と雨が入り込んでくる。制服の袖が、じわじわと重くなっていくのが分かった。
「これ、絶対無理だって」
俺がそう言った瞬間、突風が吹いて傘が大きく傾いた。
「きゃっ」
「わ!」
バランスを崩した拍子に、傘が完全にひっくり返ってしまう。
「あー、もう!」
水瀬が叫び声を上げる頃には、四人とも頭からずぶ濡れになっていた。
傘の骨が無残に反り返ったまま、路上で情けなく風に煽られている。誰かが慌てて拾おうとしたが、風の勢いに押されてなかなか手に取れなかった。
「最悪……」
水瀬が濡れた前髪をかき上げながら、恨めしそうに空を見上げる。雨粒がまつげに絡みつき、瞬きのたびに小さく揺れていた。
「でも、なんか面白かったね」
奏はずぶ濡れになりながらも、いつも通りの調子で笑っていた。
「先輩、その画材、大丈夫ですか?」
「ちゃんと鞄でガードしてたから平気。私自身は全滅だけど」
「本末転倒ですよ、それ」
理央は濡れた髪を絞りながら、冷静にモニターの画面を確認していた。
「今の一連の流れで、発電量は合計八・二キュン。悪くない数値ね」
「こんなびしょ濡れの惨事で喜べるのすごいな」
「データに感情は挟まないの」
全員が笑いながら、ずぶ濡れのまま寮までの道を歩いていく。歩くたびに靴の中で水音が鳴り、それすらもなんだかおかしく感じられた。
「今度からちゃんと折り畳み傘、持ち歩こうよ」
水瀬が提案すると、全員が神妙な顔で頷いた。
「賛成」
「私も、次からは持ち歩くようにするわ」
珍しく満場一致の意見に、俺は思わず苦笑した。
☆
寮に着く頃には、雨は少し弱まっていた。
「何このタイミング。傘いらないくらいの小雨になったし。あとたった五分くらい待てば、こんな思いせずに済んだのに」
俺は苦笑いで呟いた。
玄関先で濡れた靴を脱ぎながら、水瀬がふと俺の方を見た。
「さっきの傘の中、狭かったけど」
「だな」
「意外と、悪くなかったかも」
小さな声で呟いた言葉に、俺は何と返せばいいか分からなかった。
「なんだよ急に」
「な、なんでもない!」
水瀬は逃げるように寮の中へ駆けていく。
「照れ隠しね」
「今日のことは、貴重なデータとして使えそう」
奏と理央も後に続く。
残された俺は、濡れた制服の袖を絞りながら、玄関先で少しの間立ち尽くしていた。
「みんな早くお風呂入って! 風邪ひくから!」
寮の中から、秋月先生の声が飛んできた。
俺は濡れた鞄を肩から下ろしながら、もう一度空を見上げた。
びしょ濡れの一日も、悪くない一日だったのかもしれない。
またすぐに本降りになった。少しだけ救われた気がした。
☆
寮の中に入ると、すでにタオルを配り始めていたすずが、俺に一枚差し出してくれた。
「私は降り出す少し前に帰れたので助かりました。寺坂先輩も、これお使いください」
「ありがとう」
受け取ったタオルで頭を拭きながら、俺はリビングに満ちる賑やかな声に、しばらく耳を傾けていた。




