第十一キュン 実家に帰った先輩に会いに行くことになりました
連休最終日の朝、奏は俺たちより一足先に寮を出た。
「じゃあ、先に帰ってるね。駅からの道、迷わないように」
「そんな分かりにくいところなんですか」
「大丈夫。たぶん」
「その『たぶん』が不安なんですけど」
奏は楽しそうに笑って、そのまま実家のある隣町へ向かっていった。
☆
それから少し遅れて、俺たちも電車に乗った。
「有馬先輩の実家、行ってみたいかも」
水瀬が興味深そうに窓の外を見る。
「私も、少し気になります」
すずも控えめに頷いた。
「有馬先輩の実家、どんなところなんでしょうね」
「絵の具の匂いがしそうだな、なんとなく」
「それ、偏見じゃない?」
水瀬が軽く突っ込むが、その予想は、あながち間違っていなかった。
☆
駅を降りると、奏が改札の前で待っていた。
「みんな、ちゃんと来てくれたんだ」
「呼んでおいて、疑ってたんですか」
「ちょっとだけね」
奏はいつも通りの飄々とした笑みで、俺たちを案内し始めた。
☆
奏の実家は、駅から少し歩いた住宅街の中にある、古い一軒家だった。
「お邪魔します」
玄関をくぐると、絵の具の匂いが、うっすらと家中に漂っている。
「やっぱり匂いますね」
「言ったでしょ」
水瀬が小声で言うと、奏が笑いながら振り返った。
「うち、両親も絵描きだから、しょうがないんだよね」
☆
リビングに通されると、壁一面に大小さまざまな絵が飾られていた。
「これ、全部先輩のご家族の作品ですか?」
「半分くらいは。あとは、私が昔描いたやつも混じってる」
すずが興味深そうに一枚一枚を見て回る。
「先輩の昔の絵、見てみたいです」
「見せるの、ちょっと恥ずかしいんだけどな」
奏がアルバムを取り出すと、幼い頃の作品がいくつも出てきた。
「これ、先輩が小学生の頃の絵ですか」
「そう。今見ると、下手くそだけどね」
「いえ、その、すごく自由な感じがして、素敵だと思います」
すずの素直な感想に、奏は少し照れたように笑った。
そのとき、玄関の方から声がした。
「奏、お客さん来てるの?」
顔を出したのは、奏と同じくらいの年頃の女性だった。肩までの黒髪をゆるく結び、柔らかな目元が印象的だった。
「あ、幼馴染の子が来ちゃった」
奏がそう説明すると、女性はにこやかに部屋に入ってきた。
「初めまして。奏の幼馴染の、桐生です」
「桐生さんも、絵、描くんですか?」
俺が尋ねると、桐生さんは首を振った。
「私は全然。奏の絵、昔からずっと見てきただけ」
「昔から、っていうと」
「幼稚園の頃からの付き合いだから、かれこれ十二年以上かな」
桐生さんの言葉に、リビングの空気が少しだけ和んだ。
「奏、最近寮でどんな感じなの?」
桐生さんが興味深そうに尋ねると、奏は寮での日常をかいつまんで話し始めた。
「へえ、賑やかそうで楽しそうじゃない」
「まあ、賑やかすぎるくらいだけどね」
奏がそう言って笑うと、桐生さんも釣られるように笑った。
その様子を、少し離れた場所から見ていた水瀬が、なんとなく落ち着かない表情をしていることに、俺は気づいた。
「水瀬、どうした」
「え、べつに、何も」
「なんか、そわそわしてるけど」
「そんなことないし」
言葉とは裏腹に、水瀬の視線は、奏と桐生さんの会話に何度も向けられていた。
「亮太郎くんも、桐生さんと話してみたら?」
奏がそう提案すると、桐生さんも興味深そうにこちらを見た。
「私でよければ、いくらでも話しますよ」
「じゃあ、少しだけ」
俺は軽い気持ちで、桐生さんの隣に腰を下ろした。
「有馬先輩、昔からあんな感じだったんですか?」
「そうそう、マイペースで、絵のこと以外は結構抜けてるところあってね」
桐生さんが、懐かしそうに昔の思い出を語り始める。
俺も自然と話に引き込まれ、しばらくの間、奏の子ども時代のエピソードに耳を傾けていた。
その一方で、水瀬は少し離れた場所で、その様子をじっと見つめていた。
「なんか、寺坂、楽しそうに話してるね」
小さな呟きが、すずの耳にだけ届いていた。
「そうですね。桐生さん、話しやすい方みたいですし」
「うん……」
水瀬の返事は、いつもより短かった。
しばらくして、奏がお茶を淹れて戻ってくると、リビング全体の空気が改めて和やかになった。
「みんな、お茶どうぞ」
「ありがとうございます」
すずが丁寧に受け取る横で、水瀬は少し上の空のまま、お茶に口をつけていた。
「水瀬先輩、なんか元気ないですか」
すずが心配そうに小声で尋ねると、水瀬は慌てて笑顔を作った。
「元気だよ、全然」
「そう、ですか」
すずは納得していない様子だったが、それ以上は追及しなかった。
その後、桐生さんを交えて、リビングでしばらく雑談が続いた。
「亮太郎くん、奏のこと、大事にしてあげてね」
桐生さんが何気なく言った一言に、俺は少し戸惑った。
「大事にって、俺はべつに、そういう」
「あ、変な意味じゃなくて。寮の一員として、って意味」
「ああ、そういうことですか」
安堵したように答えると、桐生さんはいたずらっぽく笑った。
その様子を見ていた水瀬が、思わず立ち上がった。
「私、ちょっとお手洗い借りてきます」
早口でそう言うと、水瀬はそそくさとリビングを出て行ってしまった。
「水瀬先輩、大丈夫でしょうか」
すずが心配そうに、水瀬の後を追いかけていく。
廊下で、すずは水瀬に追いついた。
「水瀬先輩、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫だって。ちょっと、疲れただけ」
水瀬はそう言いながらも、どこか落ち着かない様子だった。
「もしかして、管理人さんが、桐生さんと楽しそうに話してるの、気になってます?」
すずの直球な問いに、水瀬は一瞬、言葉に詰まった。
「……べつに、そういうんじゃないから」
「でも、さっきからずっと、そっちの方見てました」
「……そんなに、分かりやすかった?」
水瀬が小さく呟くと、すずは優しく頷いた。
「はい、少しだけ」
「はあ……」
水瀬は廊下の壁にもたれかかりながら、大きくため息をついた。
「自分でも、なんでこんなに気になるのか、よく分かんない」
「水瀬先輩は、管理人さんのことが、大切なんだと思います」
すずの控えめな言葉に、水瀬は驚いたように顔を上げた。
「すずちゃんまで、そんなこと言うの」
「私、最近、みんなのこと見てて、なんとなく分かるようになってきました」
いつもより落ち着いた口調で、すずはそう続けた。
☆
二人がリビングに戻ると、奏がちょうど、俺たちを庭に案内しようとしているところだった。
「せっかくだし、庭も見ていってよ。母が育ててる花、綺麗に咲いてるから」
庭に出ると、色とりどりの花が、初夏の日差しの中で咲き誇っていた。
「わ、綺麗ですね」
すずが目を輝かせる。
「亮太郎くん、こっち見て」
奏がスマートフォンを構え、俺たちを写真に収めようとする。
「急に何ですか」
「記念だよ、記念。せっかくみんなで来てくれたんだから」
水瀬、すず、俺、奏の四人で、庭を背景に写真を撮ることになった。
「水瀬、もうちょっと近くに寄って」
俺が声をかけると、水瀬は少し戸惑った様子を見せながらも、隣に近づいてきた。
「……こう?」
「うん、それくらいでいい」
肩が触れそうな距離で、写真が撮られる。
――ピコン。
遠く離れた寮の装置から通知が届き、水瀬のスマートフォンが小さく鳴った。
「あ」
水瀬が慌てて画面を隠す。
「今の、また鳴ったのか」
「な、なんでもない」
夕方近く、俺たちは桐生さんや奏の家族に見送られながら、駅へと向かった。
「今日はありがとうございました」
「また遊びにおいでね」
桐生さんの言葉に、みんなで頷きながら手を振った。
☆
帰りの電車の中、水瀬は窓の外を見つめながら、少し静かだった。
「今日、楽しかったか?」
俺が尋ねると、水瀬は小さく頷いた。
「うん。有馬先輩の実家、面白かった」
「よかった」
「……あと」
水瀬は少し言葉を選ぶように、続けた。
「桐生さんと話してる時の寺坂、なんか、楽しそうだった」
「そうか?」
「ちょっとだけ、羨ましかった」
小さな呟きだったが、俺の耳にはっきりと届いた。
「羨ましいって、何が」
「べつに、深い意味はないから」
水瀬はそう言って、また窓の外に視線を戻した。
その横顔には、これまでとは少し違う、静かな感情の揺れが見えた気がした。
☆
寮に戻る頃には、空はすっかり夕焼けに染まっていた。
「今日一日、色々あったな」
「うん」
水瀬の返事は短かったが、その声には、これまでにない柔らかさが混じっていた。
☆
その夜、俺はリビングで、今日の出来事を振り返っていた。
奏の実家での、いつもとは違う一日。
そこで見えた、水瀬の新しい一面。
「羨ましかった、か」
その言葉の意味を、俺はまだ完全には理解できていなかった。




