第四話 ✤ 孔雀茶屋(下)
「私、千草と申します。孔雀茶屋は壺菫さんと二人でやってるんです」
千草と名乗る娘は小柄で、飛車が隣に並ぶと頭一つ分ほど低い位置から声が聞こえた。
茶屋で飼育している孔雀は鹿と遊ぶのが好きで、孔雀用の大きな檻を掃除している時に、よく脱走するのだと千草は話す。
それを聞いた潤は飛車に体を寄せた。
茶屋の鹿は日中、思い思いの場所で休んでいるらしく、飛車の耳に届いた鹿の足音は数えるほどしかない。
孔雀の長い上尾筒が土を引き摺る音だけに集中してみると、孔雀が転々と寄っていく各所に鹿がいることが分かった。
千草に案内されたのは、竹で組まれた檻の正面を陣取る床几が幾つか並んだ場所だった。
寺にあるような奥座敷とは異なり、壁のない柱と屋根だけの、鹿も簡単に出入りできる簡素な造りの茶席である。
檻に近い床几を選び、野点傘が作る影に腰掛けると、千草は奥に引っ込み湯呑みを乗せたお盆を手にして戻ってきた。
同時に鹿達が落ち葉を踏みながら、ぞろぞろと集まり始める。
潤が彼らの匂いを嗅ぎに行こうか迷っている間に、数頭の鹿が寄ってきた。
しかし挨拶もそこそこに潤は座り込んだまま、動こうとしない。
「あらら、内気な子なんですね」
暫く様子を見守っていたが離れた場所から千草を呼ぶ声がして、「ちょっと失礼しますね」と断ってから彼女は席を外した。
その隙に飛車は顔を膝まで下げ、潤に話しかける。
「なぁ、潤。あそこに居る鹿達に、体格のいい牡鹿がいないか聞いてくれないか?」
「なんで?」
「秋の鯖と同じで、秋の鹿はふくよかだろう? 冷え込む日は鍋にするのもいいかと思ってな、」
「絶対聞かない!」
ぷりぷりと怒る潤に、鹿を鍋に入れるとは言っていないぞと心の中で呟いた。
人間に嫌気がさせば多少なりとも気持ちが変わるだろうと考えたが、見込みが甘かったらしい。
茶屋の中で居場所を作ろうと努力してくれればと願うが、上手くいかないなと飛車は湯呑みを手に取った。
「ねぇ」
「? 何だ?」
「僕が頑張ってあの子達と仲良くなったら、飛車も人間と仲良くする?」
「は?」
突然何を言い出すのかと、素っ頓狂な声が出た。
子鹿の鼻先が飛車の膝を探しあて、小さな顔をちょこんと乗せる。
「だって飛車、嫌われてるんでしょ? 僕だけ頑張るのは不公平だよ」
「やめてください! その子を離して!」
千草の焦る声と尻尾を踏まれた犬のような鹿の鳴き声が聞こえて、飛車は湯呑みを置いた。
「嫌がってますから!」
「こんなに多けりゃ世話もままならんだろ。二、三頭貰ってやるから」
「勝手な事を言わないでくださいっ」
潤や他の鹿達の間に緊張感が走る。
接客は大変だなと千草に同情し、飛車は潤にここから動かないように伝え、杖を手にして席を立った。
「大体、鹿が嫌がってるなんて何でわかるんだ。一丁前な面して適当なこといいやがる」
「そ、そんな」
「聞こえない声を拾おうとするのは、立派な行為だろう」
飛車は声を荒らげ合う二人の間に割り込むようにして千草の前に回り込み、男と対面する。
鳴く鹿を抱きかかえ、もう一頭の鹿の角を片手で握っているようだ。
鹿の動きを抑えることに必死な男は飛車の顔を一瞥した瞬間、「ひっ!」と情けない声を上げた。
腕の力が緩み、二頭の鹿は体を捻って男の拘束から逃げ出す。
背中にいる千草が安堵の息をついたことで、鹿が無事に抜け出せたのだと、飛車も現状を知ることができた。
訝しげな視線が両目を覆う布から杖に流れ、
「あんた琵琶弾きか」
小馬鹿にしたように鼻で笑い、飛車の杖に唾を吐いたのだ。
安っぽい挑発に微動だにせずにいると、その圧に男は怯みはじめ、片足を後ろに引いた。
どうやってこの人迷惑な男を追い払おうか考え始めたとき、目の前の男が消えた。
孔雀の飛び蹴りが入り、彼は地面に吹っ飛んだのだ。
男は盛大な音を立てて倒れ込み、大勢の鹿に囲まれると逃げるようにして茶屋を後にした。
「あの男が壺菫?」
「まさか。壺菫さんはあんなこと言いません」
苦笑いをする千草は飛車と、助けてくれた孔雀や鹿にも律儀にお礼を述べていった。
疲れを表に出さない様子に感心した飛車は千草を労り、床几に座って一旦休むよう勧める。
「茶は出せないが」
残念がるように飛車が呟くと、千草は笑みを零し隣に座った。
「最近、鹿を求めて訪ねてこられるお客さんが多いんです。愛玩用にとか、手が回らなくなったお庭の雑草刈りに鹿を飼いたいとかはまだ良いほうで。酷い場合は犬の餌にするなんて仰る方もいて」
「さっきの客もそうなのか」
「ええ。それに和尚さんまで村行事に協力するようにって、牡鹿を探しにいらして」
そこまで話して千草は口元を手で塞いだ。
恐らく彼女も牡鹿を追う琵琶弾きをよく思っていないのだろうと悟り、飛車は唇を結んだ。
「太占は村の大事な行事ですから、一応理解はしてます。それにこうして子鹿を保護してくださったから。悪い人ばかりじゃないんだなって」
飛車はかぶりを振った。
鹿の立場に立ってみれば、村のために仲間を狩ることを良しとしている村人全員が悪い人間である。
子鹿を助けたくらいで帳消しになるなど思うのは、図々しい話だと否定する。
「私も潤と出会うまで鹿を可愛いなんて思わなかった」
正直に話すと千草は柔らかい声で笑った。
「さっき立派だって庇ってくださって嬉しかったです」
「そうか。仕事の邪魔をしたのではなかったなら良かった」
落ち着きを取り戻した茶屋で、潤は少し離れた鹿達の輪の中をうろうろしている。
茶屋の鹿はおおらかなのか、あまり気にしていない様子で、時折潤の顔を舐めていると千草が教えてくれた。
「僕、頑張るよ」と潤の声が聞こえるようだった。
「潤を、子鹿の世話を頼めるだろうか?」
飛車の鼻は茶屋の匂いに慣れ、鼻をつまみたくなるような、あの獣臭ささえ恐ろしいことに何も感じなくなっていた。
「でも貴方にとても懐いてるようでしたけど」
「私といるより、ここに居た方がいい」
自分と同じような目の見えない相手に親近感を覚えただけで、大した情も無いのだ。
より良い環境があるのなら、潤と離れるのは仕方がないことだと飛車は自分に言い聞かせた。
少し間があった。
千草は頷き、お預かりしますと答えた。
予想していた通りの返事に、胸を撫で下ろす。
孔雀茶屋に潤を預けた後も、仕事の合間に母鹿を捜そう。そう決意した。
ひらひらと落ちてきた葉っぱに、深く吐いた飛車の息が触れて何処かへ流れていった。
潤に別れも告げず、飛車はひとりで茶屋を出た。
一度も振り返らず竹林の小径に戻る頃には、杖の振れ幅が大きく雑なものとなり、倒木に勢いよく打ち当たった。
茶屋を訪れた時にはなかった倒木を前に、放心したように立ち尽くす。
ぶつけた反動で痺れた指先を揉みほぐし、手の痛みを和らげていると、足元から甘い香りがのぼってくる。
まさかと思い、根元からぽっきりと折れた低木の葉を掻き分け、産毛が立った実に触れると飛車の表情が崩れた。
竹がざわつき、過剰な集音器となった耳の淵がひりつく。
両目を覆う布が濡れる前に桃を一つもぎ取り、家に持ち帰った。




