第五話 ✤ 太占の鹿
和尚が激しく咳き込むと、小鳥は空へ羽ばたいていった。
「風邪か?」
「先週、都を離れてから調子が優れぬのじゃ。何か良くないものを連れてきたのかもしれん」
掠れた声を出し、禿頭をぱちんと叩く。また一羽、山から去る。
和尚の声も普段より聞き取りづらく、旅の疲れが出ているのだろうと飛車は思った。
「それなら寺に籠っていればいいだろう」
山に来る前に寺へ赴くと、和尚が珍しく鹿狩りに同行すると言い出した。
当然、飛車は眉を顰め、「同行するのは構わないが、数珠をがちゃがちゃ鳴らしながら歩くのは止めてくれ」と釘を刺す。
「おお、そうじゃな。数珠は経机に置いて……ああ、山へ向かうなら金剛杖が必要じゃ」
数珠を仕舞った手で、大きな鈴を括りつけた金剛杖を持ち出してきた老爺の行動に、飛車は気が遠くなった。
縄と仕込み杖と腰鉈。
万全の準備を整えていたが、今日の収穫は期待できそうにないなと、夫に借りた羽織りの襟を整えた。
✤
「こちらにも幹を擦ったような痕がある。昨日、仕掛けた罠の方角だ」
腰の高さ辺りで不自然に削られた樹皮を撫でる。
不均等に抉られた傷は鹿の角研ぎの特徴で、飛車の知る限りではかなりの大物だ。
ほかに鹿の形跡がないか草鞋の裏で探っていると、背負っていた琵琶に向かって和尚が話しかけた。
「琵琶は必要じゃろうが、その羽織りはどうにかならんのか。山登りには不便じゃろう」
「牡鹿から見つけやすいだろう」
「そういうものかのぉ。まぁしかし、太占に最適な牡鹿が見つかったと知らせを受けた時は、お天道様に向かって手を合わせずにはおれんかった。お前さんの師匠も、あの世でさぞ喜んでいることじゃろう」
「悔しくて今夜にも化けてでるかもな」
和尚は豪快に笑い、途中で咳き込んだ。
「近頃は太占の儀を残酷だという者もおるが、村人は神事をありがたがるからのぉ」
農作物の豊凶を占う太占の儀。
年に数頭捕らえた中から、一番の上物を和尚が選ぶのが通例だった。
「嫌な思いをすることも多いじゃろうが、皆心の中ではお前さんに感謝しておるのだ。だから何があっても辛抱するのじゃよ」
「勘違いするな。私は感謝されたいから、鹿を追うわけではない」
夫との質素だが穏やかな生活を守るためだ。
冷たく言い放つと、和尚は頬を掻き「そうか」と一言零した。
「ここは外れじゃな」
山の斜面の獣道に張った罠には、短い角を生やした鹿がかかっていた。
飛車は杖を地面に突き刺し、暴れる鹿の胴体を跨ぐ。
頚椎を圧迫し、前脚に絡まる縄を腰鉈で切る。
解放された鹿はすぐに立ち上がり、飛車達の前から走り去った。
「去年生まれたくらいの若造か。群れが近くにおればの」
「待て、もう何頭かいる」
和尚は飛車を見た。息を殺す。
まだ遠い。枝が次々と折れていく音が、確実にこちらへ向かっているのを飛車の耳は鮮明に拾う。
「な、何じゃあれは」
和尚の喉がごくりと鳴った。
曲がった背筋が僅かに伸びて、前のめりになる。
「見事な牡鹿じゃ。三叉、いや四叉五尖か? 見たことのない角の形をしておる」
舌を噛みそうになりながら、牡鹿の特徴を興奮気味に説明する和尚の隣で、飛車は手の湿り気を杖に擦りつけていた。
草や木の葉を揺らす太い息遣いは、竹林で対峙した牡鹿のものとよく似ている。
「お、お前さんに後は任せるとしようかのぉ。儂は具合が悪いから先に戻っておる」
一方的に言い捨てると和尚は呆れた飛車を置いて、そそくさと山を降りていった。
その間、殺気に近い気配が肌を刺した。
杖を振りかざし、槍鞘が外れた尖端を獲物のいるであろう位置に向けた。
息を吸った瞬間、牡鹿は頭を下げ突進した。
枝分かれした角と槍の柄が激しくぶつかる。
乱暴に頭を振る牡鹿の凄まじい力に、槍ごと引き摺られそうになった。
後退りするが、槍が角に挟まり上手く外れない。
焦った飛車の手から柄が滑った。
槍を乗せた角が脾腹を打ち、飛車は背後の木に肩甲骨辺りを強打した。
琵琶の弦が切れる音が、山中を飛び跳ねるように木霊する。
痛みに耐えながら、迫り来る角を掴んだ。
羽織りの袖口が破れたが構わず、力づくで槍を引き抜く。
研磨された尖端で相手の背中を突くと周囲の草木に血が飛び散り、肉の裂ける感触が飛車にも伝わった。
それでも牡鹿は退かなかった。
落ち葉を巻き上げながら方向を変えた脚が、もう一つの罠の踏み板を踏んだ。
びゅんっと成獣の太い脚に縄が絡み、締め上げる。
獲物が体勢を崩したのを物音から読み取った飛車は、輪を作った縄を角にそれぞれ投げかけて、縄の端を木に括りつけた。
完全ではないが一時的に動きを封じ、飛車はやっと息をつく。
捕殺のあとは血抜きだ。
荒い息遣いを整えつつ、間近に寄って筋肉質な体に触れてみる。
あれほど血気盛んだった牡鹿は、生きているのか疑いそうになるほど大人しい。
「何故、抵抗しない?」
潤と出会い、一部の鹿は会話ができるという認識を持ってしまった飛車は、自然と疑問を投げかけていた。
「……。掟があるから話せないのか」
牡鹿の横に寝た瞳孔が縦に回転した。
大きな体が身動ぐたび、その下で潰れていた草の青々とした香りが開く。
「我々が人語を話さぬと決めたのは人間達のためだ」
牡鹿はその巨体に似合わず、天から響き渡るような透き通った声で応えた。
「あろうことか憎き琵琶弾きに、我が子を連れ去られようとは」
深い息を顔に吹きつけられ、髪が靡く。
飛車は牡鹿の言葉をなぞり「我が子……」と呟いた。
「かの場所では潤は生き長らえないであろう。壺菫が許さぬはずだ」
不意に潤の名前を聴き、飛車の心臓が強く脈打った。
心が静まらず、打ち身ができた肩をきつく押さえて耐え忍ぶ。
そうやって誤魔化さなければ、感情に身を委ねた言葉しか出てこなくなりそうだった。
「鹿の口から茶屋の者の名が出るとは思わなかった」
牡鹿がふっと笑ったような気がした。
「琵琶弾きと並び、悪名高き者よ」
孔雀茶屋は鹿も大勢いる、安全な場所。
それは人間の思い込みだったのだろうか。
「あの匂い……我々は近づくことができぬ。微かにだが、おぬしの羽織りからも同じ匂いがする」
飛車は自身の腕を鼻の下に持ってくる。匂いは感じない。
羽織りの持ち主である黒緋から茶屋の内情について教わることはあったが、彼が茶屋を訪れたという話は訊いたことがなかった。
「人間の世が優勢のうちは好きにすればよかろう」
再び狩られる側に戻ろうとする牡鹿は、潤を迎えに行くつもりはなさそうで、飛車は薄っすら落胆した。
母鹿のことも含め、知りたいことは山程ある。
だが、それ以上に気がかりは潤のこと。
また潤から大切な家族を奪うのか。
心がざわめく理由を直視すれば観念するしかなかった。
「情がないなんて、よく言えたものだ」
腰鉈を鞘に収め、牡鹿を縛る縄を手で解いた。
「……よいのか?」
「ああ」
潤が話しかけてきた時点で、こうなることは決まっていたのかもしれない。
立ち尽くす彼女を牡鹿は真っ直ぐな目で見つめる。
「仲間を助けてくれたことは礼を言う」
飛車は早く行けと手で追い払った。
山の麓で待機していた和尚は、山道から降りてきた飛車を呼び止めようとしたができなかった。
彼女の羽織りは袖口を中心に大きく破れており、背中の琵琶の弦が何本も飛び出している。
杖の柄には血の垂れた痕跡も見える。
痛ましい姿を見て言葉を失う和尚に気づき、飛車は首を横に振った。
「牡鹿に隙をつかれ、逃げられた」と嘘をついて。




