↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/5

第五話 ✤ 太占の鹿


 和尚(おしょう)が激しく咳(せ)き込むと、小鳥は空へ羽(は)ばたいていった。


「風邪(かぜ)か?」


「先週、都を離れてから調子が優れぬのじゃ。何か良くないものを連れてきたのかもしれん」


 掠(かす)れた声を出し、禿頭(はげあたま)をぱちんと叩(たた)く。また一羽、山から去る。

 

 和尚の声も普段より聞き取りづらく、旅の疲れが出ているのだろうと飛車(ひしゃ)は思った。

 

「それなら寺に籠(こも)っていればいいだろう」

 

 山(ここ)に来る前に寺へ赴(おもむ)くと、和尚が珍しく鹿狩りに同行(どうこう)すると言い出した。

 

 当然、飛車は眉を顰(ひそ)め、「同行するのは構わないが、数珠(じゅず)をがちゃがちゃ鳴らしながら歩くのは止めてくれ」と釘(くぎ)を刺す。

 

「おお、そうじゃな。数珠は経机(ここ)に置いて……ああ、山へ向かうなら金剛杖(こんごうづえ)が必要じゃ」

 

 数珠を仕舞(しま)った手で、大きな鈴を括(くく)りつけた金剛杖を持ち出してきた老爺(ろうや)の行動に、飛車は気が遠くなった。

 

 縄(なわ)と仕込み杖と腰鉈(こしなた)。

 万全の準備を整えていたが、今日の収穫は期待できそうにないなと、夫に借りた羽織りの襟(えり)を整えた。



 ✤



「こちらにも幹を擦(こす)ったような痕(あと)がある。昨日、仕掛けた罠(わな)の方角だ」

 

 腰の高さ辺りで不自然に削(けず)られた樹皮(じゅひ)を撫(な)でる。

 

 不均等に抉(えぐ)られた傷は鹿の角(つの)研(と)ぎの特徴で、飛車の知る限りではかなりの大物だ。

 

 ほかに鹿の形跡がないか草鞋(わらじ)の裏で探(さぐ)っていると、背負っていた琵琶(びわ)に向かって和尚が話しかけた。

 

「琵琶は必要じゃろうが、その羽織りはどうにかならんのか。山登りには不便じゃろう」

 

「牡鹿から見つけやすいだろう」

 

「そういうものかのぉ。まぁしかし、太占(ふとまに)に最適な牡鹿(おじか)が見つかったと知らせを受けた時は、お天道様に向かって手を合わせずにはおれんかった。お前さんの師匠も、あの世でさぞ喜んでいることじゃろう」


「悔(くや)しくて今夜にも化(ば)けてでるかもな」


 和尚は豪快(ごうかい)に笑い、途中で咳(せ)き込んだ。

 

「近頃は太占の儀を残酷(ざんこく)だという者もおるが、村人は神事(しんじ)をありがたがるからのぉ」


 農作物の豊凶(ほうきょう)を占う太占の儀。

 年に数頭捕らえた中から、一番の上物を和尚が選ぶのが通例だった。


「嫌な思いをすることも多いじゃろうが、皆(みな)心の中ではお前さんに感謝しておるのだ。だから何があっても辛抱(しんぼう)するのじゃよ」


「勘違いするな。私は感謝されたいから、鹿を追うわけではない」


 夫との質素(しっそ)だが穏(おだ)やかな生活を守るためだ。

 

 冷たく言い放つと、和尚は頬(ほほ)を掻き「そうか」と一言零(こぼ)した。

 


 

「ここは外(はず)れじゃな」


 山の斜面の獣道に張った罠には、短い角を生(は)やした鹿がかかっていた。

 

 飛車は杖を地面に突き刺し、暴れる鹿の胴体を跨(また)ぐ。

 頚椎(けいつい)を圧迫し、前脚に絡(から)まる縄を腰鉈で切る。

 

 解放された鹿はすぐに立ち上がり、飛車達の前から走り去った。

 

「去年生まれたくらいの若造か。群れが近くにおればの」


「待て、もう何頭かいる」


 和尚は飛車を見た。息を殺す。

 

 まだ遠い。枝が次々と折れていく音が、確実にこちらへ向かっているのを飛車の耳は鮮明に拾う。


「な、何じゃあれは」

 

 和尚の喉(のど)がごくりと鳴った。

 

 曲がった背筋が僅(わず)かに伸びて、前のめりになる。

 

「見事な牡鹿じゃ。三叉(さんさ)、いや四叉五尖(よんさごせん)か? 見たことのない角(つの)の形をしておる」


 舌を噛みそうになりながら、牡鹿の特徴を興奮気味に説明する和尚の隣で、飛車は手の湿り気を杖に擦りつけていた。

 

 草や木の葉を揺らす太い息遣いは、竹林で対峙(たいじ)した牡鹿のものとよく似ている。

 

「お、お前さんに後は任せるとしようかのぉ。儂(わし)は具合が悪いから先に戻っておる」


 一方的に言い捨てると和尚は呆(あき)れた飛車を置いて、そそくさと山を降りていった。

 

 その間、殺気に近い気配が肌を刺した。

 杖を振りかざし、槍鞘が外れた尖端を獲物のいるであろう位置に向けた。


 息を吸った瞬間、牡鹿は頭を下げ突進した。

 

 枝分かれした角と槍の柄が激しくぶつかる。

 

 乱暴に頭を振る牡鹿の凄(すさ)まじい力に、槍ごと引き摺(ず)られそうになった。

 後退(あとずさ)りするが、槍が角に挟まり上手く外(はず)れない。


 焦った飛車の手から柄が滑った。

 

 槍を乗せた角が脾腹(ひばら)を打ち、飛車は背後の木に肩甲骨辺りを強打した。

 

 琵琶の弦が切れる音が、山中を飛び跳ねるように木霊(こだま)する。


 痛みに耐えながら、迫り来る角を掴(つか)んだ。

 羽織りの袖口が破れたが構わず、力づくで槍を引き抜く。

 

 研磨された尖端で相手の背中を突くと周囲の草木に血が飛び散り、肉の裂ける感触が飛車にも伝わった。

 

 それでも牡鹿は退(ひ)かなかった。

 

 落ち葉を巻き上げながら方向を変えた脚が、もう一つの罠の踏み板を踏んだ。


 びゅんっと成獣の太い脚に縄が絡み、締め上げる。

 

 獲物が体勢を崩したのを物音から読み取った飛車は、輪を作った縄を角にそれぞれ投げかけて、縄の端を木に括りつけた。

 

 完全ではないが一時的に動きを封じ、飛車はやっと息をつく。

 

 捕殺(ほさつ)のあとは血抜きだ。

 荒い息遣いを整えつつ、間近に寄って筋肉質な体に触れてみる。


 あれほど血気盛んだった牡鹿は、生きているのか疑(うたが)いそうになるほど大人しい。

 

 

「何故、抵抗しない?」


 潤と出会い、一部の鹿は会話ができるという認識を持ってしまった飛車は、自然と疑問を投げかけていた。


「……。掟(おきて)があるから話せないのか」

  

 牡鹿の横に寝た瞳孔(どうこう)が縦に回転した。

 

 大きな体が身動(みじろ)ぐたび、その下で潰れていた草の青々とした香りが開く。


 

「我々が人語を話さぬと決めたのは人間達のためだ」


 牡鹿はその巨体に似合わず、天から響き渡るような透き通った声で応えた。

 

「あろうことか憎き琵琶弾きに、我が子を連れ去られようとは」


 深い息を顔に吹きつけられ、髪が靡(なび)く。

 飛車は牡鹿の言葉をなぞり「我が子……」と呟いた。


「かの場所では潤(うるみ)は生き長らえないであろう。壺(つぼ)菫(すみれ)が許さぬはずだ」


 不意に潤の名前を聴き、飛車の心臓が強く脈打った。

 

 心が静まらず、打ち身ができた肩をきつく押さえて耐(た)え忍ぶ。

 

 そうやって誤魔化(ごまか)さなければ、感情に身を委(ゆだ)ねた言葉しか出てこなくなりそうだった。

 

「鹿の口から茶屋の者の名が出るとは思わなかった」

 

 牡鹿がふっと笑ったような気がした。

 

「琵琶弾きと並び、悪名高き者よ」


 孔雀(くじゃく)茶屋は鹿も大勢いる、安全な場所。

 それは人間の思い込みだったのだろうか。

 

「あの匂い……我々は近づくことができぬ。微(かす)かにだが、おぬしの羽織りからも同じ匂いがする」


 飛車は自身の腕を鼻の下に持ってくる。匂いは感じない。


 羽織りの持ち主である黒緋(くろあけ)から茶屋の内情について教わることはあったが、彼が茶屋を訪れたという話は訊(き)いたことがなかった。


「人間の世が優勢のうちは好きにすればよかろう」


 再び狩られる側に戻ろうとする牡鹿は、潤を迎えに行くつもりはなさそうで、飛車は薄(う)っすら落胆(らくたん)した。

 

 母鹿のことも含め、知りたいことは山程ある。

 だが、それ以上に気がかりは潤のこと。

 

 また潤から大切な家族を奪うのか。

 

 心がざわめく理由を直視すれば観念するしかなかった。

 

「情がないなんて、よく言えたものだ」


 腰鉈を鞘に収め、牡鹿を縛る縄を手で解いた。


「……よいのか?」

 

「ああ」


 潤が話しかけてきた時点で、こうなることは決まっていたのかもしれない。


 立ち尽くす彼女を牡鹿は真っ直ぐな目で見つめる。

 

「仲間を助けてくれたことは礼を言う」


 飛車は早く行けと手で追い払った。



 

 山の麓(ふもと)で待機(たいき)していた和尚は、山道から降りてきた飛車を呼び止めようとしたができなかった。

 

 彼女の羽織りは袖口を中心に大きく破れており、背中の琵琶の弦が何本も飛び出している。

 杖の柄には血の垂(た)れた痕跡(こんせき)も見える。

 

 痛ましい姿を見て言葉を失う和尚に気づき、飛車は首を横に振った。

 

「牡鹿に隙(すき)をつかれ、逃げられた」と嘘をついて。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
息を呑む戦い、魅入ってしまいました。 飛車さんと鹿たちの関係、これからどうなっていくのか……。 続きがすごく気になります!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。