第三話 ✤ 孔雀茶屋(上)
風が吹くと竹がしなり、竹の乾いた匂いに紛れ甘やかな香りが鼻を掠めると二人は顔を上げた。
「桃の匂いがするね」
孔雀茶屋へと向かう道中、潤の言葉に杖がぴたりと止まる。
甘い匂いはするが、飛車の鼻には金木犀のようにも感じられ小首を傾げた。
竹林に桃とは何とも不思議な組み合わせである。
背丈の高い竹は周囲の日差しを遮るため、日当たりを好む桃の木を竹の近くに植えるのは適さないと聞く。
そもそも鹿に桃の香りが分かるのだろうか。
薄っすら疑う気持ちを抱きつつ、顎を上げて四方を嗅ぐ。
今度は確かに熟した桃の香りを拾った。
「本当だな。潤は桃を知ってるのか、好物か?」
「お母さんと食べたことあるよ! すっごく甘くて口の中が蕩けちゃうんだ。飛車も食べてみた方がいいよ」
得意げに話す子鹿は、「今度落ちてるのを見つけたら飛車にも教えてあげる」と嬉しそうにいった。
何故か桃を食べた経験が無いことにされ、飛車は苦笑した。
よくよく考えてみれば、舌は桃の味を記憶しているのに、最後に桃を口にしたのは何年前だったか思い出せない。
潤と新鮮な桃を味わって過ごす時間を思い描き頬が緩んだが、勘付かれる前に口元を引き締めた。
子鹿相手に手玉に取られまいと、いつもの落ち着いた口調で「楽しみにしている」といって話を合わせた。
涼しげな水のせせらぎが、二人を奥道へ招き入れる。
杖の拾う音が硬く跳ね返るようになり、いつの間にか石が積まれた塀が竹の群生と交代して、道に沿って続いていく。
茶屋に近付いたのか、空気中の匂いが変化したことに二人は気付いた。
獣臭が鼻腔を刺し、爽やかな茶葉の香りが後に続く。
しかしそれは一瞬で消え去り、獣特有の匂いだけが圧倒的な強さで鼻の奥に残る。
道を進むにつれ飛車の顔付きは険しくなり、眉間の皺が両目を覆う布にくい込んだ。
「ここか」
長い塀が途切れ、石造りの橋を渡る。
ほんのりと檜の匂いが漂う檜皮葺きの外門が二人を出迎えた。
杖の先が敷地の内側と外側を隔てる段差に当たり、隅に寄せられていた落ち葉の山を崩す。
柱と柱に挟まれた門の中央には、茶屋の暖簾が掛けられており、飛車は暖簾の端をそっと握った。
暖簾の向こうから、竹箒が地面を擦る音がする。
「ねぇ、飛車」
暖簾をくぐろうとした飛車を幼い声が引き止める。
「もしも茶屋にお母さんや仲間が居なくて、他の子とも仲良くなれなかったら飛車のお家に戻ってもいい?」
飛車の反応を窺うように、潤はもじもじしながら訊いてきた。
仮に潤を再び家に連れ帰ったなら、夫も彼是いいながらも、この愛らしい子鹿を受け入れる様子が容易に想像できる。
そう分かっていても、飛車は頷けなかった。
近いうちに潤の仲間である牡鹿を捕えなければならないのだ。
それに潤が口走っていた、鹿の掟。
人の言葉を話すくせに人間と話してはならない理由は分からないが、潤が普通の鹿ではないことくらい飛車にも理解できた。
このまま人間の側に居続ければ、群れに戻れなくなる可能性が出てくる。
必要のない孤独を潤に味わわせることになるのではないかと、飛車の胸に不安が押し寄せた。
気持ちを切り替えるように、杖で段差を叩く。
「とりあえず中に入ろう」
返事を濁したまま飛車は暖簾を手の甲で除け、潤に道を譲る。
子鹿がとことこ歩く後ろに続いて茶屋へ踏み入ると、門の近くで落ち葉を払う音が止み、敷地内にいた者と鉢合わせた。
相手は両目に布を巻いた飛車の姿を見て、短い悲鳴を上げた。
若い女の声だった。
叫び声とほぼ同時に、無数の花を束ねたような、長い羽のようなものが飛車達の足元を掠める。
得体の知れないものに脚を撫でられ、潤は飛び跳ねた。
「ピーッ!」
高音の鳴き声を上げ、入り口の左側から大きな水音が弾ける。
飛沫が頬にかかり、飛車は潤の名を呼んだ。
駆け寄ろうとした腕に若い女がしがみつく。
「蛇が! 危ない!」
しゅるしゅると素早く地面を移動する奇妙な音が聴こえて、どぷんっと水の中に何かが落ちる。
池の魚も突然現れた侵入者に騒ぎ出す。
二人がかりで潤を引き上げたあと、飛車は池の縁に屈み、杖を水面に差し入れた。
「あ、あの」
「静かに」
耳をそばだて、水中に潜った蛇を探す。
魚の跳ねる音とは別の微細な振動と共に、杖の側面に柔らかいものが触れた。
慣れた手つきで蛇の腹を杖に引っかける。
杖に巻き付いた蛇を持ち上げると、二度目の悲鳴が鼓膜を貫いた。
「こいつは茂みに逃がしても?」
「お、お願いしますっ! できれば遠くへ!」
その横で潤がくしゃみをした。
鹿もくしゃみをするんだなと思いながら、蛇が巻き付く杖を手に立ち上がった、その時。
飛車の頭上で、バサバサバサッと羽が大きく擦れる音がした。
✤
「大丈夫か?」
「は、はい。孔雀が蛇を……いえ、見なかった、見なかったことにします」
地面に転がったままの竹箒を手渡すと、若い女は泣きそうな声で受け取った。
「あの、お客さんですよね? もしかして、その子鹿は迷子ですか?」
ぎこちない笑顔で女が話題を子鹿に移すと、潤は飛車の後ろに隠れた。
無邪気な潤が人見知りをするなんて意外だった。
「母鹿を捜しているんだ」
「そうだったんですね。保護してくださってありがとうございます。茶屋には鹿のお友達が沢山いるから、もう安心ですよ」
茶屋の看板娘は飛車に頭を下げ、子鹿に優しく話しかける。
二人を中庭の床几に案内すると申し出た彼女は目の見えない飛車を気遣い、「私の肩か腕を掴んでください」と体を少し傾けてきた。
飛車は驚きのあまり固まった。
目の見えない自分に、何の下心もなく手を貸そうとするのは夫くらいだった。
まして赤の他人からこんな丁重な扱いを受けたこともなく、頭の中が真っ白になる。
「え、あ、」
声が引き攣り、戸惑う。
飛車の異常を察知した潤は、彼女が持つ杖を後ろ足で蹴った。
蹴られた振動で飛車は我に返り、焦って肩を借りる。
みっともなく動じたことを恥じたが、相手は気にした様子もなく「こちらへどうぞ」といって、ゆっくりと歩き出した。




