第二話 ✤ 木の芳香を放つ男
「まさか子鹿に触れたのか?」
駒師の黒緋は、目の見えない妻が連れ帰った子鹿を見るやいなや、手にしていた印刀を膝に落としかけた。
彫りかけの将棋駒を机に寄せ、腕についた木屑を払う。
「触れたというか、ぶつかったというか。この子が飛び込んできたんだ」
「飛び込んでってまだ人慣れしてないくらいだろ。子鹿に選ばれたみたいな言い方はよせ」
「いや、事実なんだが」
飛車の後ろから居間に上がってきた子鹿を、色の入った眼鏡越しに見た。
栗の渋皮のような色地に白い斑点模様。
瞼が僅かに落ちていて、畳が軋むと蹄を浮かせてよろめいた。
黒緋は胡座をかいたまま、肩に手を回して首を数回鳴らした。
「子鹿が可愛いからって勝手に連れて帰ったら駄目だろ。元の場所に返してきなさい」
可愛いという言葉に、子鹿の耳がぴくっと反応した。
一方の飛車は、子供を窘めるような夫の叱り方に苦笑を浮かべた。
そうじゃないんだよ、黒緋。
同居する夫には丁寧に説明した方が良さそうだと判断し、着物の襟に手を添えた。
「私のせいで群れからはぐれたんだ。それに野犬も近くにいたから放っておけなくてね。せめて一日だけでも、安全な場所で休ませてあげたいんだ」
「一日だけとか言って、ズルズルなし崩しに飼い始めるんだろ」
妻の思惑をさらりとかわして、黒緋は呆れたように小言をいった。
「それに和尚さんの依頼は断れって口を酸っぱくして言い続けてるのに、何で人の話を聞かないかね」
「皆が嫌がるような仕事でなければ、私のような者に働き口はないからな」
今の仕事は亡き師から引き継いだもので、最初は乗る気ではなかった飛車も、背に腹はかえられぬと引き受けることにした。
「子鹿を泊めるのは一日だけと約束する。明日、母鹿を探しに行くよ」
「そう簡単に見つかるのか?」
「探さないわけにもいかないだろう」
けどなぁ……と言い淀む夫の前を通り、琵琶架を縁側まで運び、背負っていた琵琶を立て掛けた。
縁側に立つと、草花の爽やかな匂いが風に乗って鼻先をくすぐる。
子鹿もその匂いを感じ取ったのか、縁側からポーンと庭に跳び出した。
庭の草を嗅ぎ、一口。
舌で味わい鼻を動かしながら周辺を探索する。
「待て待て待てっ! そっちは駄目だ!」
黒緋が急に焦った声を出し、沓脱石から庭先に降りた。
どうやら子鹿は、小さな区画の家庭菜園に足を踏み入れたようだ。
「言うこと聞けって……! ぐあっ、土を蹴るな!」
黒緋の慌てた声に飛車は心配して駆け寄ろうとしたが、庭に降りるのを止められた。
「沐浴の準備をしてくるよ」
「た、頼む」
黒緋の脇に抱えられた子鹿がピーピーと鳴いた。
✤
飛車はまずぬるま湯を用意した。
家に風呂はないため、たらいに湯を張り二人がかりで子鹿を洗った。
湯気が立つ子鹿の胴体を、手ぬぐいで優しく拭く。
黒緋は今近くにいないことを伝えると、子鹿は上機嫌に話しかけてきた。
「お兄さんにバレてないか、ドキドキする!」
楽しそうな声に飛車の頬が緩み、大きな声で話すと気づかれるぞと注意した。
「黒緋は面倒見がいいからな。あまり迷惑をかけるなよ」
「うん、わかった。ありがとう、お姉さん」
「お姉さんではなく、飛車だ。お前に名はあるのか?」
名前がないなら何かつけたほうがいいかと考えを巡らせていると、子鹿ははっきりと答えた。
「潤だよ、僕の名前」
子鹿の名前があることに、飛車はひっそりと肩を落とした。
「潤か……。親から貰った名前か?」
「僕達の名前はね、仲間がつけてくれるんだ。名前呼ばれるの好きだから、あの優しいお兄さんにも呼んでもらいたいな」
声を潜めて会話をしていると、毎日嗅ぎ慣れた木の香りが居間に入ってくる。
「そんな至近距離で何やってんだ?」
荒れた畑を元の姿に戻し終えた黒緋が、仲睦まじい二人の様子を見て首をひねった。
そんなに近かったかと、飛車は膝立ちのまま後ろに下がり距離を空けた。
「人間の匂いがついたままじゃ群れには返せないし、かといって湯屋にも連れていけないから助かったよ」
「それは別に構わねぇけどよ」
感謝を伝えると、眼鏡を上げる金属音が鳴った。
「この子、畑の土を踏むどころか庭の水瓶に頭を突っ込みそうになってよ。目は開いてるけど、見えてないんじゃないか? 体も異様に汚れてたし、育児放棄されてたとか……」
鋭い洞察に飛車は心の中で夫を褒めた。
「でも大切に育てられていたらしい」
「らしいって何だよ。直接聞いたのか?」
「どうだったかな」
飛車が言葉を濁すと、潤は慌てて彼女の着物を噛んだ。
その素直な反応に飛車は潤の頭を撫でたくなったが、ぐっと堪えた。
「まだ小さいから、時間が経てば見えるようになるだろうか?」
「原因がわからないからな。鹿専門の医者は聞いたことがないし、馬医に診てもらうなりしねぇと」
勝手なことを話す夫婦に、潤は仕返しとばかりに激しく全身を振った。
子鹿の体に残っていた水滴が周囲に飛び散り、飛車は思わず息を呑んだ。
水滴を顔面に受けた妻の顔を、黒緋は手ぬぐいで強めに拭く。
「おいおい、まさか医者が怖いのか? 飛車の目の布も濡れちまってるぞ」
「怒らせたな。二人でからかって悪かったよ」
飛車は立ち上がり、両目を覆っていた布をくるくると回して外した。
その間に黒緋は箪笥から新しい布を取り出し戻ってくると、慣れた手つきで妻の目に巻き直した。
黒緋の肩についていた小さな木屑が、飛車の息に吹かれてひらひらと飛んでいく。
「ほれ、一丁上がり」
「ありがとう。黒緋」
足を畳んでそっぽを向く子鹿を見下ろし、同じ境遇ねぇ……と黒緋がぽろっと零した。
「母鹿を見つけられなかったら孔雀茶屋にでも寄ってみ。隣の家も茶屋から鹿を貰ってきたらしいし、もしかしたら預かってもらえるかもな」
「孔雀茶屋か……」
養蚕業を営む隣人とは、この平屋を借りて以来、五年の付き合いになる。
琵琶の弦に使う絹糸も安く譲って貰うなど、日頃から随分と世話になっていた。
そんな付き合いのある隣人が鹿を飼いだしたという話は、飛車にとっては初耳であった。
「蚕のために猫を飼うと言ってなかったか?」
「猫は高いからな。鹿で我慢したんじゃないか。孔雀茶屋も今や鹿に占領されて、鹿茶屋なんて揶揄されてる位だしな」
珍しい孔雀を眺めながらお茶が飲める場所。
孔雀茶屋のことはそれ以外よく知らない。
だが鹿が集まっているなら、行ってみる価値はありそうだと、飛車は畳の上で不貞腐れている潤に声をかけようとした。
その時、夫に肝心なことを伝え忘れていたことを思い出し、黒緋の方へ顔を上げた。
「そうだ、黒緋。この子は潤というんだ。名前で呼んでやってほしい」
「やっぱり飼う気じゃねぇか」




