↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/5

第一話 ✤ 鹿祓い


 牡鹿(おじか)が角(つの)で樹皮を剥(は)ぐ乾いた音。

 

 耳障(みみざわ)りなその音を捉えた瞬間、飛車(ひしゃ)は杖を離し、利き手はすでに背中の琵琶(びわ)に伸びていた。

 

 鹿の通り道を塞ぐようにして地べたに座り込み、片膝(かたひざ)を立て小ぶりの琵琶を乗せる。

  

 飛車は深呼吸をした。

 息を吐くたび、口元の霧がふっと押し広げられ、またすぐに白い帳(とばり)が閉じていく。


 細身の撥(ばち)で四本の弦を弾(はじ)く。

 

 地面に落ちた実をついばんでいた鹿達が一斉に顔を上げ、外側に向けていた耳をくるっと後ろに回す。

 

 絹糸でできた弦は湿気を吸って緩み、普段より響きが悪いが、今更演奏を止めるわけにもいかず。

 

 鹿を追うための読誦(どくじゅ)——地神経(じしんきょう)を低く落とした声で読み上げていく。


 雷のような地を這(は)う音が群れを襲うと、彼女の狙い通り、たちまち彼らは瓦門(かわらもん)の奥へ逃げ入る。角持ちを除いて。


 他の鹿とは明らかに違う、太い息遣いが風に乗って伝ってくる。

 

 若い幹をこそぐ牡鹿の芯の据(すわ)わった呼吸を、飛車は肌先で拾い上げた。

 

 これほどの牡鹿には久(ひさ)しく出会っていなかったのだ。

 

 肩から背中にかけて、さぞ立派な肩甲骨(けんこうこつ)を隠しているに違いない。

 

 和尚(おしょう)の求める「上物(じょうもの)」に違いないと確信を持つ。

 

 村唯一の琵琶弾きである飛車は、牡鹿が簡単には怯(ひる)まないことも身をもって知っている。

 

 古から続く村行事に必要な鹿を選別し、和尚に引き渡すのが彼女の役目だから。

 


「この音、嫌い!」


 舌足らずな罵声(ばせい)が琵琶の音と読誦の谷間に落とされ、飛車は肩を震わせた。


 笠の反(そ)った石灯籠(いしとうろう)に身を隠していた影が、竹藪(たけやぶ)の中から飛び出す。

 貧相(ひんそう)な体をめがけて、背後から体当たりしてきた。

 

 衝撃は軽いもので、琵琶を抱える腕の隙間(すきま)に、突進してきた相手の頭がすっぽりと収まる。


 脇腹でぱたぱたと動く生暖かい耳に飛車は驚き、演奏を中断して立ち上がった。


 匂いがせず、触れた時の大きさ的に、生まれて間もない子鹿だと推測した。


「ぷはっ! あれ? 皆は?」


 周囲に他の鹿達の気配はなく、取り残された一頭が独り言を口にしながら騒いでいる。

 よちよちと周りを歩くと転がる杖に当たって、また騒ぐ。

 

 弾かれた弦のように飛車の脈拍が揺れ始め、震える腕で琵琶を抱きかかえた。

 

「妖(あやかし)の類(たぐ)いの者か?」


「ぶっぶー! 全然妖(あや)しくないよ。人間も僕のお尻を見て可愛いって言うもん」


 相手は流暢(りゅうちょう)に言葉を操り、ふわふわの臀部(でんぶ)を振ってみせた。


 妙な人懐っこさを披露(ひろう)する子鹿に気が緩み、そんなに可愛いなら見てみたかったと口が滑る。

 

 すると相手は麻のような感触の頭を傾(かし)げて、

 

「…………お姉さんもしかして、目が見えてないの?」


 子鹿の声が嬉しそうに上擦(うわず)るが、傷つき慣れた大人はこれを聞き流す。


「どうやって人の言葉を? 誰かに教わったのか?」


 怪異(かいい)に深入りするなど正気を疑われそうだが、飛車の好奇心は子供の頃のまま衰えていなかった。

 

「ええっと、お母さんのお腹の中に居た時? 別に普通だよ」

 

「その母鹿(ははじか)は何処に消えたんだ?」

 

「お姉さんが追っ払ったんじゃん! 日没までに戻ってくるといいけど……」


 鹿の群れが走り去った道は、孔雀(くじゃく)茶屋へと続く。

 

 今は淡い霞(かす)みに溶けてひっそりとしているが、時折鳥のさえずりが聴こえた。


 

 それとは別に、村の方から何かが走ってくる。

 

 二人の前に現れたのは、村の畑を荒すと噂(うわさ)の野犬だった。

 

 流石に子鹿も逃げるかと思いきや、あろうことか不安定な足取りで天敵に寄っていく。

 

 間近で吠えられ、自慢のお尻を地面に打ちつけ派手に転んだ。

 

 飛車は一度放り投げた杖を掴み、子鹿の前に出て牽制(けんせい)する。

 

 人間が怖いのか野犬は急に大人しくなり、横を通り過ぎ走り去っていった。

 

「お姉さん追っ払ってくれたの?」

 

 凄い凄い! と子鹿は興奮して跳ねる。

 

「これのおかげ?」


 杖を咥(くわ)えて遊び出す子鹿に、気を良くした飛車はそのまま貸すことにした。

 

 だが、自由になった杖の先端が飛車の脛(すね)に直撃し、彼女は悲鳴を飲み込んで蹲(うずくま)った。


 油断していた自分を恨みながら、着物の上から痛む箇所を両手で抑え、「草薙(くさなぎ)の剣だ」と涙声で答えた。

 

「クサナギノツルギダ?」

 

「冗談だ。こうやって枝に当てれば、木の実も取れる」


 白肌の杖を受け取り、道端の低木に向かって伸ばす。

 木の葉を左右に揺すれば、赤い実がぽろぽろと地面に落ちた。


「わ!? 何?」

 

 頭の上から降ってきた贈り物に、子鹿は鼻を近づける。

 

 飛車が耳をそばだてると咀嚼音(そしゃくおん)が聞こえてきて、胸を撫で下ろした。


「野犬がいたのに何故逃げなかったんだ?」


 琵琶を弾く自分に向かってきた時といい、危機感が薄いことが気になって訊(き)く。

 

 子鹿は少しの間黙って、おずおずと言葉を紡(つむ)いだ。


「僕も目が開きづらくて、ぼんやりとしか見えてないんだ」


 お喋りな子鹿が自分と同じく目が見えていないとは思いもせず、飛車は言葉を失った。


 

 彼女が目を閉じた者と出会ったのは、生涯(しょうがい)で二人目だった。

 

 一人目は捨て子だった飛車の育ての親、蝉丸(せみまる)という男だ。

 

 琵琶の名手であった彼は、六年前に何者かによって命を奪われ帰らぬ人となった。


 そして今度は人語を喋る子鹿ときた。

 

 牛は牛連れ馬は馬連れか、と懐かしくも悲しい気持ちになった。


 

「見えない分、音を拾うのに集中してるから煩(うるさ)くしないでほしいんだ」

 

 子鹿の訴えは至極(しごく)真っ当であった。

 

 視覚以外を頼りにして生きている飛車も、聴覚が使い物にならない状況に陥(おちい)れば困るどころの騒ぎではない。

 

「掟(おきて)を破ってお姉さんに話しかけたけど、誰にも言わないでね」

 

「掟? 人と話すのは初めてなのか?」

 

「あっ」と短い言葉をあげて再び黙り込む。

 

「私が真実を話しても狐に化(ば)かされたと、からかわれるだけだ」


「お姉さん嫌われてるの?」


 遠慮(えんりょ)のない物言いが新鮮で、飛車は口角を上げた。


 鹿の社会では目が見えぬとも大切にされるのだろうか。

 

 この時、飛車は初めて鹿に対して興味を抱いた。



 そろそろ村へ戻るかと琵琶を背負い直した頃、遠くで野犬の遠吠えが響いた。

 

 天敵の声に子鹿は顔を上げ、動きを止めた。

 

 ひとりじゃ食べ切れないや……と暗い声を出し、食事を諦める。

  

「……来るか?」

 

「え?」


「不安なら一晩くらい家に来てくれても構わない」


 野生動物とはいえ、目の不自由な子鹿を置いていくには忍びなく、飛車は声を掛けた。

 

 思いがけない提案に子鹿は戸惑いながら、着物の袖を甘噛みした。

 

 「お姉さんのお家は美味しい草ある?」

 

 飛車は三本目の足である杖を地面に這わせて、美味しいかどうかはわからないと正直に答えた。

 

 目の見えない二人が歩き出すと、空気の冷たさがわずかに和らいだ。

 

 朝日が昇り始めているのだろう。

 

 竹林に光の矢が幾筋も駆けてゆき、子鹿の輪郭(りんかく)が金色に浮かぶ。

 

 その光景は飛車には届かず、足を止めることはなかった。

 

 二人の足が止まるのは、何度も互いの体をぶつけて進めないからだ。

 

 道を譲り合いながら、時間をかけて村へ降りていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
やっぱり独特の世界観。描写がかっこいいです。飛車と子鹿は通じ合うものがあるんだな…
鹿さんかわいいです! ふりふりのおしり。 目の見えない飛車さんもとても魅力的なキャラクターですね。世界観に惹き込まれます。 素敵な物語が始まりそうで、続きも楽しみです!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。