第一話 ✤ 鹿祓い
牡鹿が角で樹皮を剥ぐ乾いた音。
耳障りなその音を捉えた瞬間、飛車は杖を離し、利き手はすでに背中の琵琶に伸びていた。
鹿の通り道を塞ぐようにして地べたに座り込み、片膝を立て小ぶりの琵琶を乗せる。
飛車は深呼吸をした。
息を吐くたび、口元の霧がふっと押し広げられ、またすぐに白い帳が閉じていく。
細身の撥で四本の弦を弾く。
地面に落ちた実をついばんでいた鹿達が一斉に顔を上げ、外側に向けていた耳をくるっと後ろに回す。
絹糸でできた弦は湿気を吸って緩み、普段より響きが悪いが、今更演奏を止めるわけにもいかず。
鹿を追うための読誦——地神経を低く落とした声で読み上げていく。
雷のような地を這う音が群れを襲うと、彼女の狙い通り、たちまち彼らは瓦門の奥へ逃げ入る。角持ちを除いて。
他の鹿とは明らかに違う、太い息遣いが風に乗って伝ってくる。
若い幹をこそぐ牡鹿の芯の据わった呼吸を、飛車は肌先で拾い上げた。
これほどの牡鹿には久しく出会っていなかったのだ。
肩から背中にかけて、さぞ立派な肩甲骨を隠しているに違いない。
和尚の求める「上物」に違いないと確信を持つ。
村唯一の琵琶弾きである飛車は、牡鹿が簡単には怯まないことも身をもって知っている。
古から続く村行事に必要な鹿を選別し、和尚に引き渡すのが彼女の役目だから。
「この音、嫌い!」
舌足らずな罵声が琵琶の音と読誦の谷間に落とされ、飛車は肩を震わせた。
笠の反った石灯籠に身を隠していた影が、竹藪の中から飛び出す。
貧相な体をめがけて、背後から体当たりしてきた。
衝撃は軽いもので、琵琶を抱える腕の隙間に、突進してきた相手の頭がすっぽりと収まる。
脇腹でぱたぱたと動く生暖かい耳に飛車は驚き、演奏を中断して立ち上がった。
匂いがせず、触れた時の大きさ的に、生まれて間もない子鹿だと推測した。
「ぷはっ! あれ? 皆は?」
周囲に他の鹿達の気配はなく、取り残された一頭が独り言を口にしながら騒いでいる。
よちよちと周りを歩くと転がる杖に当たって、また騒ぐ。
弾かれた弦のように飛車の脈拍が揺れ始め、震える腕で琵琶を抱きかかえた。
「妖の類いの者か?」
「ぶっぶー! 全然妖しくないよ。人間も僕のお尻を見て可愛いって言うもん」
相手は流暢に言葉を操り、ふわふわの臀部を振ってみせた。
妙な人懐っこさを披露する子鹿に気が緩み、そんなに可愛いなら見てみたかったと口が滑る。
すると相手は麻のような感触の頭を傾げて、
「…………お姉さんもしかして、目が見えてないの?」
子鹿の声が嬉しそうに上擦るが、傷つき慣れた大人はこれを聞き流す。
「どうやって人の言葉を? 誰かに教わったのか?」
怪異に深入りするなど正気を疑われそうだが、飛車の好奇心は子供の頃のまま衰えていなかった。
「ええっと、お母さんのお腹の中に居た時? 別に普通だよ」
「その母鹿は何処に消えたんだ?」
「お姉さんが追っ払ったんじゃん! 日没までに戻ってくるといいけど……」
鹿の群れが走り去った道は、孔雀茶屋へと続く。
今は淡い霞みに溶けてひっそりとしているが、時折鳥のさえずりが聴こえた。
それとは別に、村の方から何かが走ってくる。
二人の前に現れたのは、村の畑を荒すと噂の野犬だった。
流石に子鹿も逃げるかと思いきや、あろうことか不安定な足取りで天敵に寄っていく。
間近で吠えられ、自慢のお尻を地面に打ちつけ派手に転んだ。
飛車は一度放り投げた杖を掴み、子鹿の前に出て牽制する。
人間が怖いのか野犬は急に大人しくなり、横を通り過ぎ走り去っていった。
「お姉さん追っ払ってくれたの?」
凄い凄い! と子鹿は興奮して跳ねる。
「これのおかげ?」
杖を咥えて遊び出す子鹿に、気を良くした飛車はそのまま貸すことにした。
だが、自由になった杖の先端が飛車の脛に直撃し、彼女は悲鳴を飲み込んで蹲った。
油断していた自分を恨みながら、着物の上から痛む箇所を両手で抑え、「草薙の剣だ」と涙声で答えた。
「クサナギノツルギダ?」
「冗談だ。こうやって枝に当てれば、木の実も取れる」
白肌の杖を受け取り、道端の低木に向かって伸ばす。
木の葉を左右に揺すれば、赤い実がぽろぽろと地面に落ちた。
「わ!? 何?」
頭の上から降ってきた贈り物に、子鹿は鼻を近づける。
飛車が耳をそばだてると咀嚼音が聞こえてきて、胸を撫で下ろした。
「野犬がいたのに何故逃げなかったんだ?」
琵琶を弾く自分に向かってきた時といい、危機感が薄いことが気になって訊く。
子鹿は少しの間黙って、おずおずと言葉を紡いだ。
「僕も目が開きづらくて、ぼんやりとしか見えてないんだ」
お喋りな子鹿が自分と同じく目が見えていないとは思いもせず、飛車は言葉を失った。
彼女が目を閉じた者と出会ったのは、生涯で二人目だった。
一人目は捨て子だった飛車の育ての親、蝉丸という男だ。
琵琶の名手であった彼は、六年前に何者かによって命を奪われ帰らぬ人となった。
そして今度は人語を喋る子鹿ときた。
牛は牛連れ馬は馬連れか、と懐かしくも悲しい気持ちになった。
「見えない分、音を拾うのに集中してるから煩くしないでほしいんだ」
子鹿の訴えは至極真っ当であった。
視覚以外を頼りにして生きている飛車も、聴覚が使い物にならない状況に陥れば困るどころの騒ぎではない。
「掟を破ってお姉さんに話しかけたけど、誰にも言わないでね」
「掟? 人と話すのは初めてなのか?」
「あっ」と短い言葉をあげて再び黙り込む。
「私が真実を話しても狐に化かされたと、からかわれるだけだ」
「お姉さん嫌われてるの?」
遠慮のない物言いが新鮮で、飛車は口角を上げた。
鹿の社会では目が見えぬとも大切にされるのだろうか。
この時、飛車は初めて鹿に対して興味を抱いた。
そろそろ村へ戻るかと琵琶を背負い直した頃、遠くで野犬の遠吠えが響いた。
天敵の声に子鹿は顔を上げ、動きを止めた。
ひとりじゃ食べ切れないや……と暗い声を出し、食事を諦める。
「……来るか?」
「え?」
「不安なら一晩くらい家に来てくれても構わない」
野生動物とはいえ、目の不自由な子鹿を置いていくには忍びなく、飛車は声を掛けた。
思いがけない提案に子鹿は戸惑いながら、着物の袖を甘噛みした。
「お姉さんのお家は美味しい草ある?」
飛車は三本目の足である杖を地面に這わせて、美味しいかどうかはわからないと正直に答えた。
目の見えない二人が歩き出すと、空気の冷たさがわずかに和らいだ。
朝日が昇り始めているのだろう。
竹林に光の矢が幾筋も駆けてゆき、子鹿の輪郭が金色に浮かぶ。
その光景は飛車には届かず、足を止めることはなかった。
二人の足が止まるのは、何度も互いの体をぶつけて進めないからだ。
道を譲り合いながら、時間をかけて村へ降りていった。




