触れてはいけない力
空間が裂ける。
その光景を、私はただ見ているしかなかった。
音はない。
なのに、頭の奥で何かが軋む。
視界の中心──空気そのものが歪み、黒い裂け目がゆっくりと広がっていく。
そこから伸びてくるのは、手だった。
人の形をしているのに、指の数が合わない。
関節の位置も、長さも、どこかおかしい。
けれど何より──
存在してはいけないものだと、本能が理解していた。
「下がれ!」
クリストフの声が鋭く響く。
同時に、剣が抜かれる音。
銀の刃が月光を反射し、一直線にその手へ振り下ろされた。
だが。
──触れた、はずなのに。
斬れない。
刃は確かにそこを通った。なのに手応えがない。
水を切ったような、いや、それ以上に何もない。
「ちっ……!」
舌打ち。
「物理が通らないか」
「当たり前だろ」
アルベルトが低く笑う。
彼は壁にもたれたまま、動かない。
だがその目だけは鋭く、それを観察している。
「それは現象だ。生き物じゃない」
「分かっている」
クリストフは構えを崩さない。
「だが、通すわけにはいかない」
その間にも、手はゆっくりとこちらへ伸びてくる。
狙いは──
私。
「……っ」
一歩、後ろへ下がる。
心臓の音がうるさい。
逃げろと、本能が叫ぶ。
けれど、足が止まる。
(逃げない。絶対に……!)
そう決めたばかりだ。
「マルール様!」
ノエルの声が廊下の向こうから響いた。
扉が開かれる気配。
だめだ。
来てはいけない。
「来ないで!」
思わず叫ぶ。
その瞬間。
手が加速した。
一気に距離を詰めてくる。
「っ!」
避けきれない。
そう思った瞬間──
視界が、白く弾けた。
──触れた。
確かに、触れられた。
冷たいとか、熱いとか、そういう感覚じゃない。
存在を掴まれるような感覚。
頭の奥に、何かが流れ込んでくる。
知らないはずの光景。
崩れる空。
裂ける大地。
燃え尽きる王宮。
そして──
私が、立っている。
すべてが終わった世界の中心で。
「────やめて」
声が漏れる。
これは違う。
これは、未来じゃない。
見せられているだけだ。
そう、分かるのに。
心が引きずられる。
「マルール!!」
強い衝撃。
視界が戻る。
アルベルトが、私の腕を引き寄せていた。
「目を閉じろ」
「……っ」
「いいから閉じろ!」
怒鳴られて、反射的に目を閉じる。
「呼吸を合わせろ。乱すな」
低く、落ち着いた声。
さっきまでの軽薄さはない。
「そいつはお前の中を引きずり出してくる」
「中……」
「見せられたものを信じるな」
その言葉が、強く響く。
「全部、途中の可能性だ」
可能性。
未来ではない。
「いいか、マルール」
アルベルトの声が、すぐ近くで聞こえる。
「お前がそれを選ばなければ、現実にはならない」
その言葉で、意識が繋ぎ止められる。
選ばなければいい。
それだけだ。
「……分かった」
小さく答える。
「よし」
その瞬間、手が離された。
「開けろ」
ゆっくりと目を開ける。
目の前では、クリストフが手を押し返していた。
いや、正確には──
押しとどめている。
剣は効かない。
だが、彼自身の何かで空間ごと抑え込んでいる。
足元の石床がひび割れていた。
「長くは持たない!」
彼が叫ぶ。
「早く──!」
その言葉の続きを、理解する前に。
再び、それが動いた。
今度は、手だけじゃない。
裂け目そのものが、広がる。
中から、無数の影が蠢く。
「……嘘でしょ」
息が詰まる。
これが、回収。
これに触れられたら、終わる。
そう、本能が理解していた。
「マルール様」
ノエルの声。
いつの間にか、すぐ後ろに立っていた。
「ご無事で何よりです」
その声は、いつも通り落ち着いている。
だが。
彼の手が、震えているのが分かった。
「ノエル……」
「お嬢様」
彼は、まっすぐにこちらを見た。
「ご命令を」
その一言。
胸の奥が、強く打たれる。
命令。
選ぶのは、私。
「……逃げる」
自然と、言葉が出た。
「ここから離れる」
クリストフも、アルベルトも、一瞬だけこちらを見る。
「正解だ」
アルベルトが笑う。
「ようやくまともな判断したな」
「ならば急げ!」
クリストフが押さえ込みながら叫ぶ。
「私が抑えている間に──!」
だが。
その瞬間。
それが、こちらを見た。
目はない。
顔もない。
なのに、確かに──
認識された。
「……っ」
体が、動かない。
逃げると決めたのに。
足が、凍りつく。
そのとき。
──声がした。
『逃げるの?』
どこからか、囁くような声。
優しくて、冷たい。
『それで、また同じになるのに』
心臓が止まりそうになる。
この声は──
「聞くな!」
アルベルトの声が叩きつけられる。
「それはお前じゃない!」
はっとする。
違う。
これは、私じゃない。
選ばされているだけだ。
「……違う」
小さく呟く。
足に力を入れる。
「違う……!」
一歩、踏み出す。
その瞬間。
空気が、弾けた。
見えない何かが、私を中心に広がる。
「……は?」
アルベルトが、初めて驚いた声を出す。
クリストフの抑えていたそれが、わずかに後退した。
まるで、拒絶されたかのように。
「今のは……」
ノエルが息を呑む。
自分でも分からない。
ただ──
拒んだ。
それだけだ。
「行くわ」
振り返る。
「今のうちに」
ノエルがすぐに頷く。
「承知いたしました」
「待て」
クリストフの声。
「どこへ行く」
その問いに、私は迷わなかった。
「逃げるって言ったでしょ」
一瞬だけ、息を吸う。
「でも、ただ逃げるんじゃない」
胸の奥が、熱を帯びる。
「全部、終わらせるために動く」
その言葉に。
アルベルトが、ゆっくりと笑った。
「いいじゃねえか」
クリストフもまた、静かに頷く。
「ならば──」
彼の声は、強かった。
「必ず、生き延びろ」
背後で、それが再び動き出す。
時間はない。
私は、ノエルと共に走り出した。
王宮の奥へ。
すべての始まりへ。
触れてしまった力の意味を、まだ知らないまま。
ブックマーク・評価お待ちしております。
よろしくお願いいたします。




