逃げるという選択
夜の気配が、王宮にゆっくりと降りていた。
昼間の熱はまだ石床に残っているのに、風だけがどこか冷たい。窓の外には、薄く雲のかかった月が浮かんでいる。
落ち着かない。
理由は分かっている。
──見られている。
あの観測の感覚が、消えない。
「お嬢様、本日はもうお休みになられますか?」
ノエルが静かに声をかけてくる。
「……いいえ。少し考えたいことがあるの」
「承知いたしました。では、お茶をお淹れいたします」
いつも通りの穏やかなやり取り。
それなのに、胸の奥はざわついたままだった。
ダニエルの言葉が離れない。
『終わり方を選べ』
あれは脅しではない。警告でもない。
ただの事実だった。
「……選べって、何を」
思わず小さく呟く。
その瞬間。
扉が叩かれた。
コン、コン。
規則正しい音。
ノエルがすぐに反応する。
「どなたでしょうか。この時間に」
「……開けて」
「ですが──」
「いいから」
短く言い切ると、ノエルは一礼し、扉へ向かった。
慎重に開かれた扉の向こうに立っていたのは──
「皇太子殿下……」
ノエルがわずかに目を見開く。
そこにいたのは、クリストフだった。
白銀の髪が月光を受けて淡く輝き、蒼い瞳はいつも以上に鋭く、そしてどこか焦りを含んでいる。
「入るぞ」
有無を言わせぬ声音。
だが、その奥に迷いがあるのが分かった。
彼は室内へ足を踏み入れ、扉が閉じられる。
「ノエル、少し外してくれ」
「……お嬢様」
確認するような視線。
「大丈夫よ」
そう告げると、ノエルは深く一礼した。
「何かございましたら、すぐにお呼びください」
静かに部屋を出ていく。
扉が閉まる音が、やけに重く響いた。
部屋に残されたのは、私とクリストフだけ。
数秒の沈黙。
先に口を開いたのは、彼だった。
「時間がない」
単刀直入だった。
「何が起きているか、理解しているか」
「……全部じゃないけど、少しは」
「なら話が早い」
彼は一歩近づく。
その動きに迷いはない。
「君の身柄を保護する」
「保護……?」
「王宮の地下に、外部から完全に隔離された区画がある」
淡々とした説明。
だがその内容は──
「そこに移動してもらう」
「それって」
「拘束だ」
はっきりと言い切った。
「だが、必要な措置だ」
視線がまっすぐ向けられる。
「このままでは、君は確実に回収される」
胸が強く脈打つ。
「回収って……」
「人ではない存在によってだ」
あの異形の影が脳裏に浮かぶ。
「……それを防ぐために、閉じ込めるの?」
「そうだ」
迷いのない答え。
「安全を確保するためには、それが最善だ」
その言葉に、胸の奥がわずかに冷える。
「それで……私はどうなるの?」
「……」
一瞬だけ、彼が言葉を詰まらせた。
だがすぐに、いつもの冷静な表情に戻る。
「状況が安定するまで、待機だ」
「安定したら?」
問いかけると、彼はほんのわずかに目を逸らした。
「……その時に判断する」
──嘘だ。
直感で分かる。
これは守るためだけの提案じゃない。
その先に、何かがある。
「断るわ」
静かに、言った。
クリストフの瞳がわずかに揺れる。
「……理由を聞こう」
「閉じ込められて、何も知らないまま終わるのは嫌」
それは本音だった。
「私は、自分で選びたい」
「選ぶ、だと?」
「ええ」
まっすぐに見返す。
「何が起きているのかも分からないまま、誰かに決められるのは──もう嫌なの」
その瞬間。
部屋の空気が変わった。
窓の外で、風が強く吹き荒れる。
違う。
これは風じゃない。
何かが、近づいている。
「……来たか」
クリストフが低く呟く。
「何が?」
「時間切れだ」
彼が振り返った瞬間。
窓が砕けた。
ガラスが散る音とともに、風が吹き込む。
その中心に立っていたのは──
「ようやく見つけた」
低く笑う声。
夜の闇を纏ったような男。
アルベルトだった。
「……アルベルト」
思わず名前が漏れる。
彼は楽しそうに目を細めた。
「その顔、いいな。ちゃんと覚えてる」
「何しに来た」
クリストフの声は冷たい。
「決まってるだろ」
アルベルトは肩をすくめる。
「迎えに来たんだよ」
そう言って、こちらへ手を差し出した。
「来い」
その言葉は、命令でも提案でもない。
ただの当然のように響く。
「ここにいたら死ぬぞ」
クリストフが一歩前に出る。
「信用するな。こいつは──」
「お前は安全だとでも言えるのか?」
アルベルトが遮る。
「檻に閉じ込めて、終わりだろ」
「違う」
「同じだ」
二人の視線がぶつかる。
空気が張り詰める。
どちらの言葉も、嘘ではない。
だからこそ──選べない。
「マルール」
クリストフが呼ぶ。
「こちらへ来い」
「無視しろ」
アルベルトが笑う。
「こっちだ」
二つの手。
二つの選択。
どちらかを選べば、どちらかを捨てる。
胸が苦しい。
けれど。
──違う。
違う。
これは、違う。
「……行かない」
気づけば、そう言っていた。
二人が同時に目を見開く。
「どっちにも」
はっきりと、言い切る。
「私は、私で決める」
差し出された手を、取らない。
自分の足で、一歩後ろへ下がる。
「ここから逃げるにしても、捕まるにしても」
呼吸が震える。
それでも、止めない。
「誰かに決められるのは、もう嫌」
その瞬間。
何かが、はっきりと変わった。
空気が歪む。
世界が揺れる。
「……はは」
アルベルトが楽しそうに笑った。
「いいな、それ」
クリストフは、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに口を開く。
「……そうか」
その声には、わずかな──安堵が混じっていた。
「ならば」
彼は剣に手をかける。
「ここから先は、守るだけだ」
アルベルトもまた、口元を歪めた。
「好きにしろ。ただし──」
その瞳が細くなる。
「死ぬなよ」
その言葉と同時に。
空間が裂けた。
何かが、こちらへ手を伸ばす。
──回収。
その言葉が脳裏に響く。
けれど。
私は、逃げない。
足を踏み出す。
自分の意思で。
その瞬間──
物語が、大きく動き出した。
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