監視される日常
夏の名残が、王宮の石壁にじっとりと張り付いていた。
日差しはまだ強いはずなのに、どこか光が鈍い。中庭の噴水は変わらず水を湛えているのに、その音だけが妙に遠く感じられた。
(静かすぎる)
そう思った瞬間、違和感は確信へと変わる。
「……ノエル」
「はい、お嬢様」
隣を歩く従者は、いつも通り柔らかな声で応じた。しかし、その歩幅はわずかに狭い。周囲を警戒している証だ。
「人が、少なくない?」
「ええ」
ノエルは一瞬だけ視線を巡らせ、すぐに前へ戻した。
「正確には、減っているのではなく……配置が変わっております」
「配置?」
「はい。本来この時間帯であれば、侍女が三名、巡回騎士が二名通るはずの区画ですが──現在は視線だけがございます」
視線だけ。
その言葉に、ぞくりと背筋が粟立った。
意識してみれば確かにそうだった。廊下の角、柱の陰、開け放たれた窓の向こうに誰かがいる気配はある。だが、姿は見えない。
まるで、見られていることだけが存在しているような感覚。
「……気味が悪いわ」
「同感です」
ノエルの声は穏やかだが、指先はわずかに強張っていた。
「お嬢様、本日はお部屋へお戻りになられることをお勧めします」
「嫌よ」
即座に遮る。
「部屋に戻ったら、余計に囲まれる気がするもの」
「……確かに」
わずかに苦笑を含んだ返答。しかし次の瞬間、彼の表情は引き締まった。
「ですが、お一人での行動はお控えください。何が起こるか──」
その言葉が終わる前に。
廊下の奥から、音が消えた。
足音も、風の揺れも、すべて。
時間そのものが、切り取られたように。
「……え?」
思わず足を止める。
ノエルも同時に動きを止め、周囲を見渡した。
「今のは、」
言いかけて、言葉が途切れる。
違和感ではない。これは明確な異常だ。
空気が、重い。
呼吸がしづらい。
けれどそれ以上に──
世界がこちらを見ている。
そんな感覚が、確かにあった。
「……来たか」
低く、静かな声が背後から落ちる。
振り返ると、そこにいたのはダニエルだった。
月白の髪が、光を受けて淡く揺れる。だが周囲の空気は、まるで彼だけが別の場所にいるかのように静止していた。
「ダニエル……これは何?」
「見ての通りだよ」
彼は肩をすくめる。
「観測が始まった」
「観測……?」
「君をだ」
さらりと言われたその言葉が、やけに重く落ちた。
「……誰が?」
「誰、か」
ダニエルは少しだけ考える素振りを見せてから、薄く笑う。
「強いて言うなら──世界、かな」
冗談にしては、あまりにも現実味があった。
「ふざけないで」
「ふざけてないさ」
即答だった。
その目は、冗談を言う色ではない。
「ここから先は、君の選択がすべてになる」
「選択って……何を」
「終わり方を」
その言葉に、息が詰まる。
「……どういう意味?」
「そのままの意味だよ」
ダニエルは一歩近づいた。
時間が止まっているはずなのに、彼だけが動けることに違和感すら覚えなくなる。
「君はこれまで何度も同じ場所に立っている」
「……何度も?」
「そうだ」
彼の声は、ひどく静かだった。
「そしてそのたびに、同じ結末を選んできた」
理解が追いつかない。
だが、なぜか心の奥で知っている気がした。
「私は……そんな記憶、ない」
「当然だ。覚えていたら、意味がない」
彼は少しだけ目を伏せる。
「だが今回は違う」
「何が違うの?」
問いかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。
その瞳に、わずかな感情が宿る。
「君が違和感に気づいている」
胸の奥がざわつく。
「それだけで、分岐になる」
「分岐……」
「世界はいつも通り、君を正しい結末へ導こうとする」
その言葉は、ひどく冷たかった。
「だが君がそれを拒めば──」
一瞬の沈黙。
「物語は壊れる」
ぞくりと、背筋に寒気が走る。
「壊れたら、どうなるの」
「さあ」
ダニエルはあっさりと答えた。
「誰も知らない。だから面白い」
「……面白い、って」
「少なくとも、私は見てみたい」
その声には、確かに期待があった。
「君が選ばない結末を」
その言葉が、胸の奥に深く刺さる。
選ばない。
これまで、ずっと何かに選ばされてきたような感覚があった。
けれど──
「……私」
口を開く。
何を言うべきかは、まだ分からない。
それでも。
「まだ、何も決めてない」
「それでいい」
ダニエルは微かに笑った。
「決めるのは、これからだ」
その瞬間。
世界が、戻った。
風が吹き、遠くで足音が響く。
侍女の笑い声が、何事もなかったかのように廊下を満たす。
「……っ」
思わずよろめくと、ノエルがすぐに支えた。
「お嬢様、大丈夫でございますか?」
「今の……見えた?」
「いえ。何かございましたか?」
やはり、彼には見えていない。
さっきの時間は、切り取られていた。
「……なんでもないわ」
そう言いながらも、胸の鼓動は収まらない。
観測。
選択。
終わり方。
すべてが、繋がり始めている。
「ノエル」
「はい」
「少し……調べたいことがあるの」
「承知いたしました」
迷いのない返答。
「お嬢様が望まれるのであれば、どこまでもお供いたします」
その言葉に、少しだけ救われる。
けれど同時に、思ってしまった。
(この先に進めば、彼も巻き込む)
それでも。
足を止めるという選択は、もうなかった。
王宮の奥へと続く廊下を見つめる。
そこは、これまでと同じ場所のはずなのに
もう、同じ世界ではない。
私はゆっくりと一歩を踏み出した。
その瞬間、どこか遠くで
何かが、確かに動き出した気がした。
ブックマーク・評価してくださると嬉しいです。
よろしくお願いいたします。




