礎
夜会は中断された。
音楽は止み、灯りだけが静かに揺れている。
先ほどまでの華やかさは消え失せ、広間には重苦しい沈黙が落ちていた。
床には血の跡。
そして運び出された暗殺者の亡骸。
その現実が、すべてを物語っている。
──これは事故ではない。
マルール・ディジュワールを狙った、明確な殺意だった。
彼女は広間の隅に移され、静かに立っていた。
ノエルがすぐ後ろに控えている。
「お嬢様、お怪我はございませんか」
「ええ、大丈夫よ」
声は落ち着いていた。
だが、心の奥は静かに揺れている。
──礎を消せ。
暗殺者の最後の言葉。
それが頭から離れない。
そのときだった。
「マルール」
低い声が呼ぶ。
振り向くと、白銀の髪の青年が立っていた。
その蒼い瞳は、普段よりもさらに鋭くなっている。
「殿下」
マルールが頭を下げる。
しかしクリストフはそれを制した。
「形式はいい」
短く言う。
そして一歩近づいた。
「何か思い当たることはあるか」
問いは直接的だった。
マルールは一瞬、言葉を探す。
「……ありません」
それは嘘ではない。
だが、完全な真実でもなかった。
胸の奥にある違和感。
それを言葉にできないだけだ。
クリストフはしばらく彼女を見つめていた。
やがて、低く言った。
「そうか」
その声には、わずかな苛立ちが混じっていた。
そのとき。
「失礼いたします」
穏やかな声が割り込んだ。
振り向くと、ジョルジュが立っている。
彼は軽く一礼した。
「少しよろしいでしょうか」
クリストフが目を細める。
「何だ」
「今回の件について、確認したいことがございます」
ジョルジュの視線は、まっすぐマルールに向いていた。
観察。
分析。
まるで実験対象を見るような目。
クリストフが言った。
「ここでやる必要はない」
「ですが」
「後にしろ」
冷たい声。
命令だった。
ジョルジュは少しだけ考えるように沈黙したあと、微笑んだ。
「……承知しました」
だがその目はまだ興味を失っていない。
むしろ、深まっている。
そのときだった。
重い足音が近づいてくる。
振り向くと、大柄な騎士が立っていた。
ベルナールだ。
「殿下」
丁寧に頭を下げる。
「暗殺者の件ですが」
「報告しろ」
「はい」
ベルナールは淡々と告げた。
「身元は不明、所持品も最低限、典型的な捨て駒です」
クリストフの表情がさらに冷たくなる。
「毒も仕込まれていました」
「……だろうな」
「はい」
そして一瞬だけ、ベルナールはマルールを見た。
「ですが、一点だけ不可解な点がございます」
「何だ」
「最期の言葉です」
沈黙。
クリストフが低く言う。
「……礎」
「はい」
ベルナールは頷いた。
「そのように発言したと、複数の証言が一致しております」
その言葉に、空気が重くなる。
マルールの指先がわずかに冷えた。
クリストフが言う。
「意味は分かるか」
「いいえ」
ベルナールは首を振る。
「ただし」
少しだけ声を落とした。
「明確にディジュワール公爵令嬢を狙っていたことは間違いありません」
その言葉に、ノエルが一歩前に出た。
「当然です」
静かながらも強い声。
「お嬢様に危害を加える者は、私が許しません」
その姿に、ベルナールはわずかに目を細めた。
「頼もしい限りです」
丁寧に言う。
だがその空気の奥には、同じ覚悟があった。
そのとき。
「……やはり」
小さな声が聞こえた。
ジョルジュだった。
彼は一歩前に出る。
「仮説が一つ、立ちました」
クリストフが睨む。
「言ってみろ」
ジョルジュは静かに言った。
「マルール様は、狙われているのではなく」
一瞬、言葉を区切る。
そして。
「維持されている存在なのではないでしょうか」
その言葉に。
全員が一瞬、理解できなかった。
「どういう意味だ」
クリストフが問う。
ジョルジュは淡々と続ける。
「普通の暗殺であれば、もっと確実な方法を取ります」
「……」
「しかし今回は、幻惑の花による前段階」
「そして正面からの襲撃」
彼は眼鏡を押し上げた。
「まるで試しているようです」
マルールの胸が強く脈打つ。
ジョルジュはさらに言った。
「そして最後の言葉」
「礎」
静かな声。
「これは単なる比喩ではありません」
そして。
まっすぐマルールを見る。
「あなたは、何かの基盤として扱われている可能性がある」
沈黙。
重い沈黙。
そのときだった。
「──くだらない」
低い声が響いた。
クリストフだった。
「推測で人を不安にさせるな」
ジョルジュは軽く肩をすくめる。
「失礼しました」
だがその目は笑っていない。
そのとき。
マルールは気づいた。
広間の遠く。
柱の影。
そこに、誰かが立っている。
暗い場所で、表情は見えない。
だが確かに。
その人物は、こちらを見ていた。
じっと。
動かずに。
その視線に、言いようのない寒気が走る。
瞬きをした瞬間。
その姿は消えていた。
まるで最初から存在しなかったかのように。
マルールは小さく息を吸う。
胸の奥で、確信が生まれる。
これは終わりではない。
むしろ──
始まりなのだと。




