(6)
「っ、は……?」
目の前を行き過ぎる学生の姿に、湊斗はぽかんと口を開ける。
現実に戻ってきたはずなのに、実感が湧かない。立ち止まったままでいると、階段を下りてきた学生数人が湊斗の横をぎりぎりで通り過ぎた。
邪魔だと言いたげな視線に、湊斗は戸惑いながらも階段の下からどいた。近くの壁に寄りかかって、大きく息を吐く。
普段はうるさく感じる喧騒が、こんなに安心するものだとは思わなかった。汗で冷えた首筋を手で押さえたときに、ふと気づく。
「あの子っ……」
慌てて辺りを見回すが、それらしい人影はない。
だいたい、あんな子供がいれば目立つはずだ。学生も迷子かと思って声を掛け、少しは人だかりができるはずだが、目の前を流れる学生たちはいつも通りだった。
腕を掴んで一緒に階段を下りたはずなのに、どこに行ったのだろう。
……まさか、子供は異界に残ったままなのか。
さあっと血の気が引く。あの女性に捕まってはいないか、と不安が過ぎる。
そもそも、子供は本当に人間だったのだろうか。
細い腕を握った感触は確かにあった。体温もあるように思えた。でも、なぜ子供は一人で異界をさ迷っていたのか。いつから異界にいるのか。今まで幾度か湊斗も異界に入り込んだことはあるが、自分以外の人間に(あの不気味な女性を除けば)会うのは初めてだった。
疑問は抱くが、すでに現実世界に戻ってきた今の湊斗にはどうしようもない。
脱出する方法ならともかく、異界へと自在に渡る方法を知っているわけじゃない。子供を助けに戻ることは無理だった。
無事に現実に戻ってこられたことに安堵する一方で、謎の子供を残してきた後悔で胸の奥にもやもやが残る。空いた掌を見下ろした湊斗は、小さく唇を噛んだ。
結局自分は、視ることしかできない。それ以上のことはできない。
……否、したくないのだ。
怖いものに立ち向かうのが嫌だから。誰かを助ける強さなどなく、逃げて自分の身を守るだけで手一杯だ。
だからこそ、今まで『視るだけ』と割り切るようにしていた。祓うのは叔父や祖母に任せっきりだった。
異界の中で誰にも頼れない状況になったことで、己の弱さをまざまざと突き付けられたようだった。少しは対処できる、子供のころとは違うと思っていたが、結局ほとんど変わっていない。
視界に入り込む影や、他の皆には聞こえぬ声。
関わらないようにと願っても、関わらざるを得ない自分の目。視るだけと割り切っていたのに、こういう時に歯痒さを感じる。
……水宮のような力があれば、簡単に祓えるのだろうか。
ちらりとそんなことを考えてしまって、湊斗は急いで頭を振った。人と比べたところでどうにもならない。
溜息を飲み込み、湊斗は壁から背を離した。
現実に戻ってきた今、湊斗ができることはいつも通りの生活に戻ることだ。異界のことばかり考えて、自らあちらに引っ張られる隙を作るのもよくない。
よし、と切り替えて歩き出す。
その時、再び辺りがしんと静まり返った。
まさかまた異界に入り込んだのか。こんな短時間に二回も――と湊斗が身構えた時、肩をポンと叩かれる。
「っ!」
振り向くと、そこには水宮がいた。
湊斗はぽかんと彼を見上げる。
「……え? 何でいんの?」
「うわ、ひどいな。あんな電話掛けてくるから、心配して探してたのに」
水宮は苦笑して、手に持ったスマホを掲げてみせた。画面には『湊斗くん』の文字がある。
「あ……」
そういえばつい先ほどまで、水宮と電話を繋いでいたのだったと思い出す。自分のスマホを見ると通話中のままになっていたので、急いで切った。
まさか本当に工学棟まで来ているとは。電話一本で駆け付けてくるなんて奇特な奴だと思う一方、わざわざ来てくれたことに妙な戸惑いも生まれる。今まで祖母や叔父以外に誰かに頼ることもなかったから、こういう時になんと言えばいいのかわからず、とりあえず謝罪を口にする。
「わりぃ……」
「別にいいよ。大丈夫? 顔色悪いよ」
水宮は気にした様子もなく、ひょいと顔を覗き込んでくる。
「やっぱり何かあったんでしょ。幽霊関係? 工学棟に出るんだ? お祓いした方がいいのかな――」
水宮はぐいぐいと尋ねてくる。
現役大学生イケメンモデルで有名人の水宮と、オカルトオタクの守銭奴で一部では有名人の湊斗が一緒にいる組み合わせに、周囲の学生達がざわめいていた。
「なんであの二人が……」「そういえば、この間呼び出してたよね?」「まさか水宮君もオカルトオタク?」とひそひそ話が聞こえてくる。
注目を浴びるのに慣れていない湊斗は、水宮の腕を掴んで非常階段の方へと向かった。人気のない所まで来て、湊斗は水宮を振り返る。
「お前な、ああいうこと人前で言うなよ! 目立つだろ!」
「僕は別に気にしないけど」
「俺が気にするんだよ。お前まで変な目で見られるぞ」
湊斗が言うと、水宮はぱちりと目を瞬かせた後で、「ああ、うん」と妙な表情を浮かべる。
「……君って本当に……」
口元を押さえてはいるが、水宮の目元が完全に笑っている。
「何だよ」
「ううん、何でも。……ところで本当にどうしたの? 顔色は悪いし、電話掛けてくるなんてよっぽどのことがあったんでしょ? それに、電話から妙な雑音みたいなの聞こえてきたし」
「あー……」
下手に誤魔化したところで追及されるのは目に見えている。
湊斗は頭を掻きながら答えた。あの奇妙な女性や子供の事は隠して。
「たまにあるんだよ。異界……この世のあの世の狭間っていうか、同じ場所のはずなのに誰もいない場所みたいな、そういう奇妙な世界に入り込んでしまっていることが」
「……それ、本当?」
水宮の顔からすっと表情が消える。
彼は意外にも真剣な顔でこちらを見つめていた。青みがかった灰色の目に見据えられて、湊斗の背が粟立つ。
「なっ……どうしたんだよ」
少しの違和感を覚えて湊斗は尋ねたが、瞬きの後には水宮はいつもの笑顔を浮かべていた。
「ううん、何でもないよ。大変だったね、湊斗君」
「あ、ああ……」
「ちゃんと戻ってこれてよかったよ。……もしかして電話を繋いだままでって言ってたの、何か関係している?」
「……お前に電話繋がったから、現実に引っ張られて現実に戻りやすくなったってのもある」
「そっか。役に立てたのならよかったよ」
にこにこと水宮は笑う。湊斗は言うべきか迷ったが、借りを作ったままにしたくなくて口を開いた。
「……助かった。ありがとう」
「ええー、そんないいよー、お礼なんて」
水宮は謙虚に言うが、その笑顔は完全に貸しを作ったと言わんばかりであった。
このままじゃまた面倒なことに突き合わされそうだと、今までの経験から学んだ湊斗はがしっと水宮の服の袖を掴んだ。
「おっ……礼に、なんか奢る……」
「え? お金あるの湊斗君?」
「ぐっ……」
痛い所をついてくる。社長子息のうえモデルで荒稼ぎの水宮に、貧乏学生の湊斗が奢れる額などたかが知れている。
「……学食、奢るから」
おふくろさん食堂なら千円もあれば足りる……はずだ。
財布の入ったボディバッグを見下ろしながら湊斗が算段していると、水宮が吹き出した。
「じゃあ、カツ丼大盛りでいいよ」
カツ丼大盛りなら五百円だ。
「おう……わかった」
ほっと胸を撫で下ろした湊斗を、水宮は目を細めて眺める。
君を選んでよかった――。呟かれた言葉は湊斗には届かず、微笑む水宮の口の中で消えた。
これにて第四話終了です。
次話までしばしお待ちを。




