(5)
さっき階段を上って行ったはずなのに――。
湊斗の背がぞっと粟立つ。
女性は横向きに立っていて、長い髪がその横顔を隠していた。
ほつれた袖から伸びた土気色の手が、青黒い指先が、ぴくりと震える。ゆっくりと、ゆっくりと、足の向きが変わっていく。女性は湊斗の方へと向きを変えようとしていた。
――正面を見たらいけない。彼女の顔を見てはいけない。
湊斗は本能的に危険を感じ、身を翻した。
どこかに隠れなくてはと、近くにあった教室の中に飛び込み、鍵を掛ける。そのまま扉にもたれるようにしてしゃがみ込んだ。
誰もいない教室には、静寂が満ちている。
息を殺していると、ぺた、ぺた、と裸足の歩く音が聞こえてきた。ずず、ずずっと皮膚が廊下に擦れる音まで耳に届く。そのまま通り過ぎてくれと祈っていれば、足音は次第に遠ざかっていった。
ほっと息をつきかけた時だ。
『――湊斗君』
「っ!!」
握っていたスマホから、声が零れた。
そういえば電話を繋げたままだった。咄嗟にスマホの電源ボタンを押して通話を切ったが、すでに声は響いてしまったあとだ。
…… “あれ”に気づかれただろうか。
息を呑んで耳を澄ます。
どくどくと心臓が音を立てる。足音はどこに――
コンッ。
背後の扉が鳴った。
びくっと肩が跳ねる。
後ろを振り向きたくない。気のせいだと思いたかったが、カツン、カリッ……と扉に爪を立てる音が聞こえてきた。
……いる。
この扉の向こうに、あれがいる。
冷や汗が頬を伝った。振り向くことはおろか、動くこともできない。固まったままの湊斗の耳に、コンッ、カツン、と断続的な音が届く。
鍵を掛けているせいか、音がするだけで入ってくる様子はない。このままやり過ごすことができるか――と思ったのは早計だった。
ぺた。
床に貼りつく粘ついた音。
ずるっ。
乾いた皮膚を摺る音。
少しずつ音が遠ざかる。音が向かうのは、湊斗がいる教室の後方。後ろには、前方と同じように扉がある。
ずるっ、ぺた、ずるっ、ぺた、ずっ――!
音が途切れた。
かと思えば、内開きの扉が、きぃ、と錆びた音を立てる。離れた所で、ぺたりと裸足の音がした。
扉の上方にあるガラス窓の向こうに、長い黒髪の横顔が映った。
……入ってきた。
どくんっ、と心臓の音が耳から溢れそうなくらいに大きくなる。逃げなければと思うのに、視線が逸らせない。
ゆっくりと、“あれ”がこちらを向く。髪の隙間から見える乾いた唇が動いて、何かの言葉を紡いでいるのが、やけにはっきりと見えた。
ひゅ、と掠れた息音が喉から零れ出る。音にならない悲鳴を上げかけた時――
テレッテッテレテレッテ、と場違いなほど明るいメロディが流れた。
スマホの着信音だ。買った時から設定を変えていないから馴染みがある。……着信?
硬直していた身体が嘘のように動いた。握りしめていたスマホを見ると、先ほどの番号が光る画面を流れていた。急いで通話ボタンを押すと、声が響く。
『湊斗君! ねえ、大丈夫?』
「……」
水宮の声に、不覚にもほっとしかけてしまった。
だが、今は安心している場合じゃない。立ち上がり、極力“あれ”から顔を背けて扉を開けて廊下に出る。
一歩目はよろけたが二歩目で堪えて、転げそうな勢いのまま駆け出した。
手に持ったスマホからは、まだ水宮の声がしている。湊斗はスマホを耳に当てて声を返した。
「――水宮」
『あ、出た』
心配したよー、と本当かどうかわからない声音を聞き流して、湊斗は尋ねる。
「水宮、今どこだ?」
『え? 工学棟にもうすぐ……着いたよ。中央の入口のとこ』
「じゃあ、そこにいてくれ。電話は繋いだままで!」
繋がりがあれば、現実に戻りやすい。相手のいるところまで近づけば、可能性は高くなる。二階に着いて、さらに階段を降りようとしたとき、踊り場に人影が見えた。あの女性かと思ったが、違う。
……子供だ。
小さい。まだ十歳前後だろうか。淡い茶色の髪をしている。
人間じゃないと思ってしまったのは、大学にこんな小さな子供がいることがおかしいと思ったからか。あるいは、その子供が人間離れした綺麗な顔をしていたからか。
長い睫毛の下の青い目が瞬いて、ゆっくりと湊斗を見上げてきた。
ぎょっとしたが、子供はただ見つめるだけで何もしてこない。少しも表情を変えぬ子供は、まるで人形のようだった。どこかで見たような顔だと思うのだが、思い出せない。
足を止めた湊斗の耳に、ぺたっ、と音が届いた。
視線を上げると、上の踊り場の方にスカートの裾が揺れるのが見えた。
立ち止まっている場合ではない。どっちに逃げるか迷ったのは一瞬で、湊斗は下へと降りる。
見た目で判断するわけじゃないが、子供の方が怖くない。何となく、感じる気配も恐ろしいものではなかった。
「おいお前、早く逃げるぞ!」
子供の腕を掴み、一緒に階段を駆け下りる。子供は何も言わず、大人しくついてきた。手にはかすかな体温が伝わってきて、彼が生きている人間だとわかる。
少し安堵しながらも、子供を引っ張ったまま、一階の廊下に足を付けた時だった。
「――でさー、昨日先輩がホントしつこくってー」
「わりぃ、今日バイトなんだわ。また今度誘ってくれ」
「あー、知ってる! 駅前に新しくできたんでしょ、タピオカ! あたしも行きたーい!」
「ねえ、高分子の講義のノート見せてもらっていい? 途中寝ちゃってさぁ――」
どっと、耳に音が、声が飛び込んできた。
溢れる人の気配。静寂が唐突に消え失せて、湊斗は現実へと戻っていた。




