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前金三万じゃ足りません。 ~鏑木湊斗の不器用な霊視商法~  作者: 黒崎リク
第四話 誰もいない教室 ~お礼は五百円でお願いします~
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(5)

 さっき階段を上って行ったはずなのに――。

 

 湊斗の背がぞっと粟立つ。

 女性は横向きに立っていて、長い髪がその横顔を隠していた。

 ほつれた袖から伸びた土気色の手が、青黒い指先が、ぴくりと震える。ゆっくりと、ゆっくりと、足の向きが変わっていく。女性は湊斗の方へと向きを変えようとしていた。


 ――正面を見たらいけない。彼女の顔を見てはいけない。


 湊斗は本能的に危険を感じ、身を翻した。

 どこかに隠れなくてはと、近くにあった教室の中に飛び込み、鍵を掛ける。そのまま扉にもたれるようにしてしゃがみ込んだ。

 誰もいない教室には、静寂が満ちている。

 息を殺していると、ぺた、ぺた、と裸足の歩く音が聞こえてきた。ずず、ずずっと皮膚が廊下に擦れる音まで耳に届く。そのまま通り過ぎてくれと祈っていれば、足音は次第に遠ざかっていった。

 ほっと息をつきかけた時だ。


『――湊斗君』

「っ!!」


 握っていたスマホから、声が零れた。

 そういえば電話を繋げたままだった。咄嗟にスマホの電源ボタンを押して通話を切ったが、すでに声は響いてしまったあとだ。


 …… “あれ”に気づかれただろうか。


 息を呑んで耳を澄ます。

 どくどくと心臓が音を立てる。足音はどこに――


 コンッ。


 背後の扉が鳴った。

 びくっと肩が跳ねる。

 後ろを振り向きたくない。気のせいだと思いたかったが、カツン、カリッ……と扉に爪を立てる音が聞こえてきた。


 ……いる。

 この扉の向こうに、あれがいる。


 冷や汗が頬を伝った。振り向くことはおろか、動くこともできない。固まったままの湊斗の耳に、コンッ、カツン、と断続的な音が届く。

 鍵を掛けているせいか、音がするだけで入ってくる様子はない。このままやり過ごすことができるか――と思ったのは早計だった。


 ぺた。


 床に貼りつく粘ついた音。


 ずるっ。


 乾いた皮膚を摺る音。


 少しずつ音が遠ざかる。音が向かうのは、湊斗がいる教室の後方。後ろには、前方と同じように扉がある。


 ずるっ、ぺた、ずるっ、ぺた、ずっ――!


 音が途切れた。

 かと思えば、内開きの扉が、きぃ、と錆びた音を立てる。離れた所で、ぺたりと裸足の音がした。

 扉の上方にあるガラス窓の向こうに、長い黒髪の横顔が映った。


 ……入ってきた。


 どくんっ、と心臓の音が耳から溢れそうなくらいに大きくなる。逃げなければと思うのに、視線が逸らせない。

 ゆっくりと、“あれ”がこちらを向く。髪の隙間から見える乾いた唇が動いて、何かの言葉を紡いでいるのが、やけにはっきりと見えた。

 ひゅ、と掠れた息音が喉から零れ出る。音にならない悲鳴を上げかけた時――


 テレッテッテレテレッテ、と場違いなほど明るいメロディが流れた。


 スマホの着信音だ。買った時から設定を変えていないから馴染みがある。……着信?

 硬直していた身体が嘘のように動いた。握りしめていたスマホを見ると、先ほどの番号が光る画面を流れていた。急いで通話ボタンを押すと、声が響く。


『湊斗君! ねえ、大丈夫?』

「……」


 水宮の声に、不覚にもほっとしかけてしまった。

 だが、今は安心している場合じゃない。立ち上がり、極力“あれ”から顔を背けて扉を開けて廊下に出る。

 一歩目はよろけたが二歩目で堪えて、転げそうな勢いのまま駆け出した。

 手に持ったスマホからは、まだ水宮の声がしている。湊斗はスマホを耳に当てて声を返した。


「――水宮」

『あ、出た』


 心配したよー、と本当かどうかわからない声音を聞き流して、湊斗は尋ねる。


「水宮、今どこだ?」

『え? 工学棟にもうすぐ……着いたよ。中央の入口のとこ』

「じゃあ、そこにいてくれ。電話は繋いだままで!」


 繋がりがあれば、現実に戻りやすい。相手のいるところまで近づけば、可能性は高くなる。二階に着いて、さらに階段を降りようとしたとき、踊り場に人影が見えた。あの女性かと思ったが、違う。


 ……子供だ。

 小さい。まだ十歳前後だろうか。淡い茶色の髪をしている。

 人間じゃないと思ってしまったのは、大学にこんな小さな子供がいることがおかしいと思ったからか。あるいは、その子供が人間離れした綺麗な顔をしていたからか。

 長い睫毛の下の青い目が瞬いて、ゆっくりと湊斗を見上げてきた。

 ぎょっとしたが、子供はただ見つめるだけで何もしてこない。少しも表情を変えぬ子供は、まるで人形のようだった。どこかで見たような顔だと思うのだが、思い出せない。

 足を止めた湊斗の耳に、ぺたっ、と音が届いた。

 視線を上げると、上の踊り場の方にスカートの裾が揺れるのが見えた。

 立ち止まっている場合ではない。どっちに逃げるか迷ったのは一瞬で、湊斗は下へと降りる。

 見た目で判断するわけじゃないが、子供の方が怖くない。何となく、感じる気配も恐ろしいものではなかった。


「おいお前、早く逃げるぞ!」


 子供の腕を掴み、一緒に階段を駆け下りる。子供は何も言わず、大人しくついてきた。手にはかすかな体温が伝わってきて、彼が生きている人間だとわかる。

 少し安堵しながらも、子供を引っ張ったまま、一階の廊下に足を付けた時だった。


「――でさー、昨日先輩がホントしつこくってー」

「わりぃ、今日バイトなんだわ。また今度誘ってくれ」

「あー、知ってる! 駅前に新しくできたんでしょ、タピオカ! あたしも行きたーい!」

「ねえ、高分子の講義のノート見せてもらっていい? 途中寝ちゃってさぁ――」


 どっと、耳に音が、声が飛び込んできた。

 溢れる人の気配。静寂が唐突に消え失せて、湊斗は現実へと戻っていた。


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