(4)
「っ……」
昔のことが頭をよぎり、余計に息苦しくなる。
……落ち着け。もう自分はあの頃みたいに何もできなかった子供じゃない。
湊斗は震える息を吐き出して、ぐっと自分の手首を握った。
透明な水晶と黒いオニキスの数珠。魔除けや浄化の効果がある。気休め程度とわかっているが、冷たい珠を手繰ることで、少しずつ落ち着きを取り戻す。
大きく息を吐き出して、湊斗はそろそろと立ち上がった。辺りを見回して女性の姿が無いことを確認する。
――ここは『異界』だ。
いつもいる場所と同じでありながら、異なる場所。
祖母から教わった話では、この世界にはこの世やあの世といった幾つもの層があり、重なったり交じり合ったりしているのだと言う。
そして層と層との間には、空間が存在する。
層の間の歪みにできたわずかな空間には、人間も霊も、時間も季節も、生も死も存在しない。虚ろと静寂が支配する空間。
湊斗がいるのは、その空間――『異界』だ。
だから、人間もいないし、幽霊も視えない。湊斗が小学生の頃に迷い込んだ『誰もいない学校』は、まさにそれであったのだ。
一度異界に入ってしまった湊斗が、祖母から受けた教えは二つ。
『異界』には、長時間いてはいけない。
そして、異界では『何か』に遭遇してはいけない。
でないと、異界から二度と出られなくなるか、あるいは――元の世界に戻ってきたとしても、異なる『自分』になってしまっているか……と。
湊斗は幸いにも、何かに遭遇したのにもかかわらず、異界から帰還することができた。
あの『何か』が一体何なのかは知らない。ただ、本来なら何の存在も無いはずの空間に現れた『何か』は、決して良いモノではないだろうと、湊斗にもわかった。
二度と会いたくないと思っていたのに――
何で今頃になって、あの『何か』に再び遭遇してしまうのだろう。
これまでも異界に迷い込むことは、時折あった。例えば駅でホームに向かっている時や、本屋をうろついている時に、気づくと周りが静かになり、人がいなくなっているのだ。
明らかな違和感を覚えた時には、まずその場から離れるようにする。自分が進んできた道を引き返して離れることで、大抵は元の場所に戻ることができた。
今回も引き返そうと思っていたが、あの黒髪の女性を見かけたことで、湊斗の脚は竦んでいた。引き返している最中に、もし女性に――『何か』に出くわしてしまったら……。
ぞっと背筋が寒くなった。再びしゃがみ込みそうになるのを堪える。
……ここで隠れていても、事態は悪くなるだけだ。異界に長くいると、引き返しても戻れなくなる。
湊斗はもう一度深呼吸する。
それから、ボディバッグに入れていたスマホを取り出した。
異界から脱出しやすい方法として、現実世界の誰かと“繋がる”という方法がある。繋がることで、現実世界に引っ張られて戻りやすくなるのだ。その一番が電話だった。
湊斗は履歴から『ますみおじさん』を選んでタップする。繋がれ、と願うものの、耳には「ツー」と虚しい電子音が響いた。
ならばと『事務所』や『ばあちゃん』の番号にもかけてみるが、どれも繋がらなかった。すべてコール音無しで切れてしまう。
……どうも様子がおかしい。
異界に入っても電話は不思議と繋がるものだ。実際、前の時には、ちゃんと繋がった。
ひょっとして、あの女性がいるからか。何か邪魔されているのか。だとしたら、引き返すだけで元に戻れるのだろうか――
焦りが募る中、握っていたスマホが急に震え出した。マナーモードのバイブ機能だ。
「っ!」
驚いて取り落としそうになりながら、湊斗は画面を見やる。
光る画面に浮かぶのは知らない番号だった。状況が状況なので、湊斗が取るのをためらっていると、振動は治まって画面も暗くなる。
「あ……」
せっかく電話が来たのだから、取っておけばよかっただろうか。いや、もし現実世界でなく、違う何かと繋がってしまったら――
悶々と考えていると、再びスマホが震えた。びくっと肩を跳ねさせた湊斗の目に、画面が光って、メッセージのウィンドウが開くのが映る。
曰く――
『今の僕の番号だよ! 登録よろしく(^_-)-☆ 水宮慧』
「……」
……お前か!
湊斗はがくりと肩を落とす。驚かせやがってと眉根を寄せるが、ふと気づく。どうして水宮の電話は繋がったのだろう。叔父や祖母とは繋がらなかったのに。
……物は試しだ。水宮に電話をかけるのは正直嫌だが、現実へと繋がるのなら止むを得ない。
湊斗は履歴からリダイヤルして、耳にスマホを当てた。
すると、短いコール音の後にプツッと小さな音がして。
『――湊斗君? さっそく電話くれたんだ』
明るい声が響いてきて、不本意ながらも安心してしまった。湊斗が黙っていると、不審に思ったのか、水宮が『どうしたの?』と尋ねてくる。
「あ……いや、その、何でもない」
反射的に答えると、一拍後に笑いを含んだ声で水宮が返してくる。
『何でもないのに電話かけてくるの?』
「……」
そういえば先ほど、用もないのになぜ話しかけてくるんだと彼に言ったばかりだった。
からかわれた恥ずかしさに、じわじわと頬が熱くなる。
何と返していいものやら。いっそこのまま電話を切ってしまいたいが、せっかく繋がった現実への糸を切りたくはない。
うぐ、と言葉を詰まらせたままでいると、湊斗の様子に気づいたのか、水宮の伺うような声音が電話から響いてくる。
『湊斗君、大丈夫? ……何かあった?』
勘の鋭い男だ。いや、まあ確かに何かしらの理由がない限り、湊斗から水宮に電話をかけることはなかっただろうから、おかしいと思うのも当然か。
だが、水宮に今の状況を伝えたところでどうにもならない。彼に霊を祓う力があったとしても、異界から抜けることは無理だ。……それにあまり、助けを求めたくはない。借りを作るのは嫌だった。
「……大したことじゃない。ただ、しばらく電話繋いでいてくれればいい」
『それって、何か大したことがあったんだよね? そっちに行くよ。たしか四限は工学棟の301号室だったよね』
「何で知ってんだよ……いや、ていうかホント来なくていいから」
そもそも、来られないだろう。湊斗がいるのは異界なのだから。
しかし、電話の向こうでは何やら擦れる音や、ガタンと大きな物音が立つ。『とりあえず工学棟に行くね』と水宮が言ったので、おそらく立ち上がって歩き出したのだろう。
これで本当に工学棟に来たら面倒なことになる。
湊斗はさっさと異界から抜け出て水宮を止めるべく歩き出したところで――
「……!」
廊下の先に、黒髪の女性が立っていた。




