(2)
あっさりと去った水宮に拍子抜けしながらも、湊斗は食べ終えた食器をカウンターに戻し、食堂を出る。
ひょっとして水宮が待ち伏せ……ということも無く、工学部棟まで何事もなく戻ってこられた。
どうやら本当に、水宮は特に用もなく湊斗に声を掛けてきたようだ。
……いや、でも、携帯の番号は聞き出されてしまった。
連絡先を知られてしまったということは、何かあった時に水宮から呼び出されるかもしれない。それも面倒だ。着信拒否にするかと思ったが、そういえば水宮の番号は聞いていないと思い出す。
……まあいいか。どうせそのうち掛けてくるだろうと、湊斗は考えるのをやめる。
それより、四限が始まるまで時間がある。裏手の非常階段でひと眠りするかと足を向けた時――
ふと、違和感に気づいた。
先ほどから、誰ともすれ違っていない。周りを見回しても、誰もいない。
廊下は不自然なほどに静まり返っていた。灰色のリノリウムの床は、どこか冷たく照明を反射している。見慣れた場所が、まるで別の空間のように思えた。
嫌な感じがして、湊斗の背をすうっと冷たいものが走る。
まさかと思い、すぐ近くにある教室を覗いた。
照明は点いているのに、教壇にも学生席にも誰もいない。隣の教室も、そのまた隣も同じだった。
このフロアの教室が、講義に使われていないわけではない。教壇には講師が使っていた教材が置かれ、学生達の席にもノートが広げられている。まるで、先ほどまで教室で講義が行われていたかのように。
なのに、誰もいないのだ。皆、忽然と姿を消している。
地震か火事か何かで避難した……わけではないのはさすがにわかる。そうしたら湊斗だってここにはいないだろう。
何より、このような状況には覚えがあった。
以前にも何度か経験したことがある。人が消え孤独に支配されたこの空間を、湊斗は知っていた。
「っ……」
どくどくと鼓動が早くなる。
気のせいだ、と自分に言い聞かせても、湊斗の考えをかき消すかのように、高い耳鳴りがした。
咄嗟に耳を押さえた湊斗の視界の端を、ふっと人影が過ぎる。
――ああ、よかった。人がいた。
しかし、安堵したのは一瞬だった。視界の端に映ったのは、階段を上る誰かの後ろ姿。
剥き出しの素足は血が通っていないように青黒く、薄汚れた白いスカートの裾がふわりと翻る。
それは、昔、見たことのある――
「っ!!」
咄嗟に湊斗は廊下の柱の陰に、隠れるようにしゃがみこんだ。
――気づかれるな、見つかるな。
息を殺すが、心臓の音がうるさい。耳鳴りがひどくなって、きぃんと高い音が脳の奥を痺れさせた。
目を瞑りたいのに、怖くて閉じられない。次に開いた瞬間に、あの人影が目の前に立っていたらと考えるだけで、鳥肌が立つ。
「……嘘だろ……」
湊斗は浅く呼吸をしながら、ここがあの場所だと確信した。
***
湊斗は小学生の頃、奇妙で恐ろしい体験をしたことがあった。
放課後、いつものように同級生からいじめられていた時のことだ。いじめっ子達に追いかけまわされた湊斗は、彼らから逃れて、三階の図書室に隠れていた。
疲れたせいか、前日の夜に金縛りにあってほとんど眠れなかったせいか。湊斗はランドセルを抱えたまま、隠れていたカウンターの下でいつの間にか眠っていた。
目を覚ました時は、すでに窓の外は赤くなっていた。時計を見れば四時を回っている。下校時刻はとうに過ぎており、今頃は各クラブに入っている高学年が活動をしている頃だ。
帰らなきゃ、と湊斗は急いでランドセルを背負って図書室を出た。
静まり返った廊下に、なぜか違和感を覚えた。
はじめは下校時刻を過ぎているせいだと思ったが、音楽室の前を通りかかって気づいた。
音楽クラブの人達がいないのだ。
いつもなら、それぞれが楽器を奏でる音が聞こえてくるのに。そういえば、図書クラブの人達もいなかった。
……きっと今日は、クラブ活動が休みなのだろう。
そう思うことにして、湊斗は廊下を早足で、やがて小走りになって進む。パタパタと、自分の上履きが鳴る音だけが辺りに響いた。
廊下を走れば怒る教頭先生が、今日に限って出てこない。
廊下を走っても、階段を降りても、誰とも出くわさない。
頼みの綱で向かった一階の職員室にも、誰もいなかった。この時間なら、まだ残っているはずなのに。
湊斗は、ここが違う世界のように思えてきた。
同じ場所なのに、違う場所。
もしかしてここは、夢の中なのだろうか。自分はまだ、図書室で眠っているのかもしれない。
けれど、頬を抓ったら痛いし、走れば息も切れる。今自分がいるここが、現実なのだと湊斗に突きつけていた。
「う、ぁ……」
湊斗は怖くなった。
一番怖いのは、いつもならあちらこちらで見かける“霊”の姿が見えないことだ。
見えないことはいいことなのに、この時ばかりは異変を恐ろしく思った。
「だ……誰か、いないの……?」
震える声が、廊下に響く。
その時、廊下の向こうに人影が見えた。大人の女性のようだ。
――ああ、よかった。先生がいた。
ほっとしたのもつかの間、湊斗はその人影を見てぎょっとした。
廊下の向こうに立っていたのは、黒髪の女性だった。淡い色の服を着ている。彼女はなぜか素足で立っていた。
……先生じゃない。
先生は、長い髪をあんな風にぼさぼさのまま降ろしたりしていないし、裾がぼろぼろになった服を着たりしていない。
足の色が、あんな血の通っていないような、青黒い色をしていたりなんか――。
「あ、っ……」
固まる湊斗に向かって、女性は歩いてくる。
ぺたっ……ぺたっ……
足取りはゆっくりなのに、異様に速い速度で近づいてきて、気づいたときには数メートルの距離に女性が立っていた。
「ひっ……!!」
湊斗は息を呑み、身を翻す。
足に力が入らずに、転びそうになりながらも必死で駆ける。
しかし、すぐに廊下の端についてしまう。目の前の扉を開けようとするが、鍵がかかっていた。内側の鍵を回して震える指で何とか開錠したのに、扉は少しも動かない。
湊斗は小さな拳で、扉を強く叩く。
「開けて! 誰か、助けて!!」
ぺた、ぺた ぺた、ぺた
「お願い、誰か開けてよぉ!!」
ドン、ドン、ドン、ドン!
握った拳が痛くなり、柔い皮膚は破れて血が滲んだ。それでも、痛みも熱さも忘れて、ひたすら扉を叩いた。
その間も、ぺた、ぺた、と裸足の足音が近づいてくる。
「っ、嫌だ……来ないで、来ないでよぉ……っ」
振り向けない。見たくない。怖い。
ただひたすらに、扉を叩く。
ドン、ドン!
ぺた、ぺた……たっ
足音が途切れた。
ヒュー、ヒュー、と何かの呼吸がすぐ後ろから聞こえた。
「っ――い、やだあぁぁ! あけてぇぇぇ!!」
血に濡れた掌で、狂ったように扉を叩く湊斗の耳元に、生臭い息がかかった。
青黒い指先が、湊斗の肩を掴み、笑っていた――




