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前金三万じゃ足りません。 ~鏑木湊斗の不器用な霊視商法~  作者: 黒崎リク
第四話 誰もいない教室 ~お礼は五百円でお願いします~
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(2)


 あっさりと去った水宮に拍子抜けしながらも、湊斗は食べ終えた食器をカウンターに戻し、食堂を出る。

 ひょっとして水宮が待ち伏せ……ということも無く、工学部棟まで何事もなく戻ってこられた。

 どうやら本当に、水宮は特に用もなく湊斗に声を掛けてきたようだ。


 ……いや、でも、携帯の番号は聞き出されてしまった。

 連絡先を知られてしまったということは、何かあった時に水宮から呼び出されるかもしれない。それも面倒だ。着信拒否にするかと思ったが、そういえば水宮の番号は聞いていないと思い出す。


 ……まあいいか。どうせそのうち掛けてくるだろうと、湊斗は考えるのをやめる。

 それより、四限が始まるまで時間がある。裏手の非常階段でひと眠りするかと足を向けた時――


 ふと、違和感に気づいた。


 先ほどから、誰ともすれ違っていない。周りを見回しても、誰もいない。

 廊下は不自然なほどに静まり返っていた。灰色のリノリウムの床は、どこか冷たく照明を反射している。見慣れた場所が、まるで別の空間のように思えた。

 嫌な感じがして、湊斗の背をすうっと冷たいものが走る。

 まさかと思い、すぐ近くにある教室を覗いた。

 照明は点いているのに、教壇にも学生席にも誰もいない。隣の教室も、そのまた隣も同じだった。

 このフロアの教室が、講義に使われていないわけではない。教壇には講師が使っていた教材が置かれ、学生達の席にもノートが広げられている。まるで、先ほどまで教室で講義が行われていたかのように。

 なのに、誰もいないのだ。皆、忽然と姿を消している。

 地震か火事か何かで避難した……わけではないのはさすがにわかる。そうしたら湊斗だってここにはいないだろう。


 何より、このような状況には覚えがあった。

 以前にも何度か経験したことがある。人が消え孤独に支配されたこの空間を、湊斗は知っていた。


「っ……」


 どくどくと鼓動が早くなる。

 気のせいだ、と自分に言い聞かせても、湊斗の考えをかき消すかのように、高い耳鳴りがした。

 咄嗟に耳を押さえた湊斗の視界の端を、ふっと人影が過ぎる。


 ――ああ、よかった。人がいた。


 しかし、安堵したのは一瞬だった。視界の端に映ったのは、階段を上る誰かの後ろ姿。

 剥き出しの素足は血が通っていないように青黒く、薄汚れた白いスカートの裾がふわりと翻る。


 それは、昔、見たことのある――

 

「っ!!」


 咄嗟に湊斗は廊下の柱の陰に、隠れるようにしゃがみこんだ。


 ――気づかれるな、見つかるな。


 息を殺すが、心臓の音がうるさい。耳鳴りがひどくなって、きぃんと高い音が脳の奥を痺れさせた。

 目を瞑りたいのに、怖くて閉じられない。次に開いた瞬間に、あの人影が目の前に立っていたらと考えるだけで、鳥肌が立つ。


「……嘘だろ……」


 湊斗は浅く呼吸をしながら、ここがあの場所だと確信した。




***




 湊斗は小学生の頃、奇妙で恐ろしい体験をしたことがあった。


 放課後、いつものように同級生からいじめられていた時のことだ。いじめっ子達に追いかけまわされた湊斗は、彼らから逃れて、三階の図書室に隠れていた。

 疲れたせいか、前日の夜に金縛りにあってほとんど眠れなかったせいか。湊斗はランドセルを抱えたまま、隠れていたカウンターの下でいつの間にか眠っていた。

 目を覚ました時は、すでに窓の外は赤くなっていた。時計を見れば四時を回っている。下校時刻はとうに過ぎており、今頃は各クラブに入っている高学年が活動をしている頃だ。

 帰らなきゃ、と湊斗は急いでランドセルを背負って図書室を出た。

 静まり返った廊下に、なぜか違和感を覚えた。

 はじめは下校時刻を過ぎているせいだと思ったが、音楽室の前を通りかかって気づいた。

 音楽クラブの人達がいないのだ。

 いつもなら、それぞれが楽器を奏でる音が聞こえてくるのに。そういえば、図書クラブの人達もいなかった。


 ……きっと今日は、クラブ活動が休みなのだろう。


 そう思うことにして、湊斗は廊下を早足で、やがて小走りになって進む。パタパタと、自分の上履きが鳴る音だけが辺りに響いた。

 廊下を走れば怒る教頭先生が、今日に限って出てこない。

 廊下を走っても、階段を降りても、誰とも出くわさない。

 頼みの綱で向かった一階の職員室にも、誰もいなかった。この時間なら、まだ残っているはずなのに。


 湊斗は、ここが違う世界のように思えてきた。


 同じ場所なのに、違う場所。

 もしかしてここは、夢の中なのだろうか。自分はまだ、図書室で眠っているのかもしれない。

 けれど、頬を抓ったら痛いし、走れば息も切れる。今自分がいるここが、現実なのだと湊斗に突きつけていた。


「う、ぁ……」


 湊斗は怖くなった。

 一番怖いのは、いつもならあちらこちらで見かける“霊”の姿が見えないことだ。

 見えないことはいいことなのに、この時ばかりは異変を恐ろしく思った。


「だ……誰か、いないの……?」


 震える声が、廊下に響く。

 その時、廊下の向こうに人影が見えた。大人の女性のようだ。


 ――ああ、よかった。先生がいた。


 ほっとしたのもつかの間、湊斗はその人影を見てぎょっとした。

 廊下の向こうに立っていたのは、黒髪の女性だった。淡い色の服を着ている。彼女はなぜか素足で立っていた。


 ……先生じゃない。

 先生は、長い髪をあんな風にぼさぼさのまま降ろしたりしていないし、裾がぼろぼろになった服を着たりしていない。

 足の色が、あんな血の通っていないような、青黒い色をしていたりなんか――。


「あ、っ……」


 固まる湊斗に向かって、女性は歩いてくる。


 ぺたっ……ぺたっ……


 足取りはゆっくりなのに、異様に速い速度で近づいてきて、気づいたときには数メートルの距離に女性が立っていた。


「ひっ……!!」


 湊斗は息を呑み、身を翻す。

 足に力が入らずに、転びそうになりながらも必死で駆ける。

 しかし、すぐに廊下の端についてしまう。目の前の扉を開けようとするが、鍵がかかっていた。内側の鍵を回して震える指で何とか開錠したのに、扉は少しも動かない。

 湊斗は小さな拳で、扉を強く叩く。


「開けて! 誰か、助けて!!」


 ぺた、ぺた    ぺた、ぺた


「お願い、誰か開けてよぉ!!」


 ドン、ドン、ドン、ドン!


 握った拳が痛くなり、柔い皮膚は破れて血が滲んだ。それでも、痛みも熱さも忘れて、ひたすら扉を叩いた。

 その間も、ぺた、ぺた、と裸足の足音が近づいてくる。


「っ、嫌だ……来ないで、来ないでよぉ……っ」


 振り向けない。見たくない。怖い。


 ただひたすらに、扉を叩く。


 ドン、ドン!


 ぺた、ぺた……たっ


 足音が途切れた。

 ヒュー、ヒュー、と何かの呼吸がすぐ後ろから聞こえた。


「っ――い、やだあぁぁ! あけてぇぇぇ!!」


 血に濡れた掌で、狂ったように扉を叩く湊斗の耳元に、生臭い息がかかった。

 青黒い指先が、湊斗の肩を掴み、笑っていた――



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