(8)
湊斗は顔を上げて、周囲を見回す。
今の寒気は一体何だろう。
湊斗の視線の先には、グラスを掲げる水宮とリナの姿がある。水宮は落ち着いた微笑みを浮かべ、リナははにかむような笑顔を見せていた。
カメラマンは何度もシャッターを切り、指示を出しては、水宮やリナがポーズや表情を変化させる。
撮影は順調のようだが――。
湊斗ははっと気づいた。
夜景の映る窓。室内の照明を反射したそれは、窓際にいる二人の姿をはっきりと映し出していた。
まるで、鏡のように。
ざわっ、と湊斗の腕に鳥肌が立つ。眼鏡を掛けていても、窓に映ったリナの横顔に、袖から覗く細い腕に、びっしりと赤い唇が犇めいているのが視えた。
「っ……」
あれにリナが気づいてしまったら、駄目だ。
湊斗がそう思った矢先、リナが窓の方を向いた。
はにかむ笑顔が一瞬で強張って、色を無くす。同時に、窓に映った唇が一斉に開いた。
『ねえ知ってるぅ!? Fさんって、Oディレクターと寝たんだってぇぇ!!』
『Uちゃんってさぁ、男の前だと態度変わるよねぇ!!』
『アリサってさ、最近調子に乗ってると思わないぃ!?』
『この間ぁ、あたし、見ちゃったんだぁぁ! アリサと、Cが抱き合っているのぉぉ!!』
『ねえぇぇ! あの子、最低だよねぇぇぇぇ!!』
聞くに堪えない雑言が、唇から放たれる。
もはや騒音と化したそれに、湊斗は咄嗟に耳を塞いだ。聞いているだけで気持ち悪くなる。悪意の塊をぶつけられるようだった。
それはリナも同様だったようで、椅子を倒す勢いで立ち上がって、後ろによろめいた。
「い、いや……」
『あんな子ぉぉぉ早くぅぅぅ消えちゃえばいいのにぃぃぃ』
『マジうざいぃぃっていうかぁぁぁ』
『死ねよぉぉぉこのブスぅぅぅ!!』
「やめてよ!!」
リナは叫び、持っていたグラスを振り上げて、窓に向かって投げつける。
高層ビルの展望レストランの売りである壁一面の強化ガラスが、その程度で割れるわけはない――のに、ぴしりとガラスに罅が入った。
ぶつかったグラスも割れて、破片がリナの方へ飛ぶ。しかし彼女は気にした様子もなく、今度は料理の乗った皿を投げつけた。
罅が広がり、八つの箇所に八人分のリナの姿が映る。その分、唇は増殖していき、聞こえる声はますます大きくなった。
突然のリナの行動に、カメラマンもスタッフも唖然としている。側にいた水宮がリナを押さえようとするが、彼女は狂ったようにその腕を払った。
そして、リナは腕を自分の爪でがりがりと引っ掻き始める。
「消えてよ! 何なのよ、何でっ……何でこれ、あたしなの!?」
爪を付きたてられた赤い唇は「何すんのよぉぉぉぉ!」と、“リナ”の声で叫ぶ。
そう、リナの身体に張り付く唇は、リナのものと同じ形をしていた。声もリナと同じだ。
まるで、リナ自身が話しているかのように、赤い唇は話しているのだ。
腕に幾つもの赤い筋が浮かび上がる。血だ。
見た途端、湊斗は床を蹴っていた。動けないスタッフの間を抜けて走り出ると、リナに飛びかかり、腕を掻きむしる彼女の手を掴む。
「やめろ!」
「放してよ! ――放せえぇぇぇ!!」
リナの力は強く、振り回した手が湊斗の顔や肩を殴りつける。眼前へ来た拳をかろうじて避けたが、眼鏡に当たった。
黒縁眼鏡が床へと弾き飛ばされ、こめかみや鼻の付け根に痛みが走ったが、それに構わず湊斗は怒鳴る。
「水宮! ぼさっとしてないで手ぇ貸せ!」
水宮はすぐに湊斗を手伝って、リナを押さえる。その水宮に「床を踏め!」と指示を出せば、水宮は意図を察したようで床を一度強く踏んだ。
ドン、と強い衝撃が走り、びりびりと空気と窓ガラスが振動する。ガラスに映る赤い唇から甲高い悲鳴が溢れて、湊斗の鼓膜に反響した。
地震でもないのに振動する窓にスタッフたちはどよめく。罅の入っていたガラスは、耐え切れずに砕け散った。同時に、窓に映っていた唇も消え失せて、悪意に満ちた声がふつりと途切れる。代わりに強い風が巻き起こり、テーブルクロスがばたばたとはためいた。
抵抗していたリナもまた、声が途切れた直後に気を失ってしまう。床に崩れ落ちる彼女を水宮が抱き留めた。
湊斗がほっと息を吐いたとき。
「――っ君、朝川さんに何をしたんだ!?」
「誰か! 警察呼んで!!」
スタッフが大声を上げて、男性の何人かは湊斗に向かってくる。
「え? ちょっ、待っ……」
気づけば湊斗はスタッフの内の屈強な男に取り囲まれ、睨み下ろされる羽目になったのだった。
***
その後、水宮が場をとりなし(曰く「彼は朝川さんの大ファンで、彼女が自傷行為をしているのを止めようとしただけで云々」)、湊斗は無事解放された。まあ、冷静さを取り戻したスタッフ達も、湊斗が暴れるリナを押さえて止めようとしていたのはわかったのだろう。
気を失ったリナは、スタッフの車で病院に運ばれ、撮影は延期となった。
もっとも、撮影がいつ再開されるかはわからないと言う。この企画自体無くなるかもしれないとのことだ。何しろ、先ほどのリナの凶行はレストランの従業員にも目撃されており、いずれあらぬ噂が立つかもしれない。窓を割ったことによる損害賠償の話も出てくるだろう。
控室に戻って着替えていた水宮に、彼のマネージャーが淡々と告げて出て行く。
二人きりになった室内で、シャツを脱ぎながら水宮が謝ってくる。
「――ごめんね。眼鏡、弁償するよ」
「……」
湊斗の手元には、壊れた眼鏡がある。
あの時――リナに吹き飛ばされた眼鏡は、駆け寄ってきたスタッフの一人によって踏み割られてしまった。
両方のレンズは破損、蔓の部分は根元から折れて外れ、鼻当ての部分も取れてしまっている。それに、吹き飛ばされたときに鼻当てが当たったのか、鼻の付け根の所に擦り傷ができて、微妙に痛い。
壊れた眼鏡をハンカチに包み、湊斗は溜息を吐いた。
「……いや、いい」
今日は思えば、散々な目に合っている。
すべて水宮のせいだ。これ以上彼に関わってたまるか。
視力が悪いわけではないので実質的な支障は無いが、眼鏡が無いのは落ち着かない。視界にいろいろ入ってきそうで怖い。……眼鏡に頼らずに能力のオンオフができるようになりたいが、ひとまず今は、駅中の雑貨屋で安い眼鏡でも買おう。
ハンカチごと眼鏡をバッグに放り込み、湊斗は立ち上がる。
「じゃ、帰るわ。今日のことは真澄さんに伝えとくから、後はちゃんと依頼して――」
「待ってよ」
水宮が湊斗の腕を掴む。
「……放せよ」
「眼鏡は僕に弁償させて。僕が朝川さんを止められなかったせいだから」
「わかってんなら、あの時さっさと床踏むなり、柏手打つなりでもすりゃ良かっただろ。何で、ぼさっと突っ立ってた」
思わず言葉がきつくなる。すると、水宮は少し眉尻を下げて、申し訳なさげに目を伏せた。
「ごめん。……僕には視えないから、どう対処したらいいのかわからなかったんだ」
「……」
そりゃそうだ。いきなり窓に物を投げつけ腕を掻きむしるリナを見て、『柏手打つ』という行動は、普通ならあり得ない。
視える湊斗にとっては普通の考えだったが、視えない水宮にそれを求めるのが無茶な話であった。
珍しくしおらしい水宮の態度も相まって、湊斗は気まずくなる。
「……いや、まあ……少し、言い過ぎた。悪ぃ」
ぽつりと謝ると、水宮は灰色の目を瞬かせた後、口元をふっと綻ばせる。
「湊斗君さ……君、チョロいって言われない?」
「はぁ!? お前っ…!」
「冗談だよ。あ、眼鏡は弁償させて。僕の気が済まないから」
ぱっと水宮は手を放して、湊斗から距離を置いた。
「ねえ、それより、朝川さんに憑いていたのは霊ってこと? 僕の力で祓えたってことはそうなのかなって」
話題を変えた水宮に、湊斗はもやもやしつつも答える。
「……いや、あれは霊じゃない」
「え、そうなの?」
「念っつーか……朝川さんの顔や腕に張り付いていたのは、彼女自身の唇だったからな」
「……どういうこと?」
「俺にもわかんねぇよ」
自分自身の口が話す現象。心に溜まった鬱憤を吐き散らしているのかもしれないが、人の悪口ばかりであった。そういえば――
「……なあ、彼女の近くに、アリサって名前の女がいるか?」
アリサ。
唇が吐き出す罵詈雑言の中、度々上がっていた名前だ。『死ねブス』とまで言っていたから、リナはよほどアリサと言う女に恨みがあるのかもしれない。
何気なく口にした湊斗だったが、その後の水宮の答えで固まることになる。
「アリサ? 久瀬アリサさんのことかな。……彼女、一年前に亡くなっているよ」




