(7)
「誰の声って……」
リナは掠れた声で鸚鵡返しに答える。スカートの裾を掴む指先が震えていた。
湊斗は眼鏡を掛け、視界に映る赤い唇を遮断する。だが、耳にはざわざわと遠い喧騒のような音――重なった声が聞こえていた。
「……あんたにも聞こえているんだろ、この声。それって、全部同じ人物の声なんじゃないのか?」
重なり合っているうえに、高かったり低かったりで分かりづらいが――おそらくは女性、それも若い女性のものだとわかる。
湊斗の言葉に、リナはぎゅっと唇を引き結ぶ。
「っ……」
「あんたは、この声を知っている。それに、肌に張り付いている唇が、誰のものなのかも」
「!」
リナは弾かれたように立ち上がった。膝にかけていたブランケットが落ちる。
「しっ……知らないわよ! 何言って――」
リナが大声を上げた時、扉がノックされた。
「――リナ、もう時間よ」
扉を開けて顔を出したのは、三十代くらいの真面目そうな感じの女性だ。「真鍋さん」とリナの顔からこわばりが解ける。
真鍋と呼ばれた女性は、部屋の中を見て目を瞬かせた。
「あら、水宮君……と、その子は?」
「真鍋さん。彼は僕の友人です。朝川さんの大ファンで、どうしても彼女に会いたいと頼まれたので、連れて来ました」
「なっ……」
勝手な設定を付けられた湊斗は口を挟もうとしたが、ここで本当のこと――リナを霊視するために来たと言っても逆に話がこじれそうだ。
仕方なく黙って会釈する湊斗に、真鍋は「まあ、そうなの」とあっさり信じた。
「ありがとう、うちのリナをこれからも応援してくれたら嬉しいわ。……リナ、水宮君、そろそろ現場に入って。みんな待っているわ」
「うん、わかった」
「はい。僕も行きますね」
リナと水宮が揃って頷く。湊斗もここで待つわけにはいかず、一緒に席を立つ。リナはその間、湊斗からあからさまに顔を逸らしていたのだった。
撮影中は水宮の控室で待とうと思っていたのだが、水宮から「せっかくだから見学していってよ」と例のごとく腕を掴まれて引きずられた。
連れて行かれた先は、展望レストランの一角だ。
すでにカメラマンやアシスタントが準備を終えており、都会の夜景が広がる窓際のテーブルには、料理のセッティングもされている。水宮とリナは彼らに近づいて挨拶し、撮影前の打ち合わせに入った。
湊斗はと言えば、彼らの邪魔にならないよう、後ろの壁際に下がる。一瞬、控室にこっそり戻ろうかとも思ったが、下手に動くと目ざとい水宮に何を言われるかわからない(そして注目を浴びかねない)。さすがに学習してきた……というか諦めがついてきた湊斗は、大人しく待つかと壁に寄り掛かった。
――鏡が無ければ、リナの目にはあの赤い唇は映らない。
ならば、撮影中はとりあえず問題ないだろう。
視線の先では、水宮がカメラマンの話に真顔で相槌を打っている。かと思えば、少しおどけた表情で何かを言い、調子の悪いリナの気分を解すかのように皆で笑い合っていた。
ああいう顔もするのかと、湊斗は意外に思った。湊斗の前では嘘くさい笑顔や、人の話を聞かずに強引に話を押し進める態度しか見せないので、『信用ならないヤツ』という印象しかなかった。まあ、彼に振り回されている今、好青年みたいな態度を取られても逆に気味が悪いだけだ。
水宮のことはさて置き、湊斗は今回の件のことを考える。
肌に浮かぶ唇や、聞こえる声。
誰のものかと尋ねた時、明らかにリナは動揺していた。あれは間違いなく、心当たりがある。
きっと彼女もわかっているのだろう。だって、あの唇の形も声も、彼女の良く知るものであるだろうから。
そもそも、あれは霊ではない……と思う。
高校生の頃、あれに似たようなものを見たことがある。真澄が仕事で預かった骨董品を見せてきたとき、湊斗は思わず飛び上がった。
古そうな茶器に、白い手がべったりと張り付いていたからだ。
もちろん、本物の手ではない。あれは『念』だと真澄は言っていた。かつての持ち主の執着の念がこびりついているのだと。
リナに憑いているのも、そんな感じだ。
だが、『念』にしては、そこに籠っている感情が希薄と言うか……。悪意は感じ取れるのだが、リナに向けられているのではなく、ただそこから発せられていると言えばいいのだろうか。
リナ自身には念が向けられているわけではないのに、なぜリナに唇が張り付いているのか――。
そこまで考えて、はたと湊斗は我に返った。
今回、自分の役割は、朝川リナに何か憑いているかどうか、真澄が祓う必要があるかどうかを確認するだけだ。別に自分が何かするわけではないのだから、考えたところでしょうがない。
ここは専門家――真澄に任せた方がいい。さっそく一報入れておくかと、スマホを取り出した時である。
「や、湊斗君。難しい顔してどうしたの?」
ぽん、と軽く肩を叩いてきたのは、佐野だった。
隣に並んで壁に寄り掛かる彼は、にこにこと笑いながらも手元を覗いてくるので、湊斗は操作しづらくなってスマホをポケットにしまった。
「……何か用っすか」
「ん? いや、俺も暇になったから」
佐野が指さした方を見ると、すでに撮影が始まっていた。
そういえば、打ち合わせの途中、佐野は水宮とリナの髪型を整えていたのを思い出す。手が空いて暇なのだろうが、なぜ自分に話しかけてくるのだろう。
横目で見上げると、佐野はまたも湊斗の前髪に触れてきた。注意しようとしたが、さすがに湊斗もこの場で大声を上げるわけにはいかない。
身を引いて『触んな』と拒否する姿勢を見せると、佐野は名残惜しそうに前髪の一房を離した。
「ごめんね。こう、鬱陶しい髪見ると切りたくなっちゃって」
「……鬱陶しくて悪かったな」
「あ、ごめん。……そうだ、お詫びに無料でカットするよ。時間ある時でいいから、俺の店に来て」
佐野は黒い名刺を取り出して、湊斗の手に押し付けてきた。いつも千円カットの理髪店で適当に切っていた湊斗は、無料という響きに少しグラつく。
……まあ、とりあえず名刺は貰っておこう。タダなんだし。
現金にそんなことを考えていた湊斗だったが、急に背がぞくりと粟立った。




