(6)
「朝川さん、とりあえず座ろうか」
リナを椅子に座らせて、水宮が彼女の前の床に膝をついた。安心させるように柔らかな笑みを浮かべて、リナの顔を覗き込む仕草は、まるでどこぞのホストのように板についている。
極上の笑みが間近にあるせいか、あるいは水宮自身が纏う清浄な気のおかげか。先ほどまで目を血走らせていたリナは、ふっと体の力を抜く。
ようやく落ち着きを取り戻したリナの前に椅子を持ってきて、湊斗と水宮が並んで座ると、リナがぽつぽつと話し出した。
「……最初に変なことが起こったのは、一か月くらい前よ」
専属モデルをしている雑誌の撮影が終わり、私服に着替えてメイク直しをしている時のことだった。
『……だよね』
『ああ…………わかるぅ……』
「え?」
すぐ後ろで誰かが囁き笑う声がして、リナは振り返った。
しかし、そこには誰もいない。当然だ。狭い控室にはマネージャーと自分だけしかいなくて、そのマネージャーはつい先ほど部屋を出たばかりだった。
気のせいだ。隣の部屋や廊下から聞こえてきた声を勘違いしただけだ――と、その時は思っていた。
しかし、同じような現象が数回続くと、さすがに気味が悪くなってくる。
『ねえ…………って知ってる?』
『……さんって、…………らしいよ』
『やだ……マジさいあく……』
ひそひそ、こそこそ。
時にクスクスと嘲笑い、ゲラゲラと品の無い笑い声をあげながら。
一人きりの部屋で、誰もいないエレベーターの中で、声が聞こえてくるのだ。まるで自分のすぐ側で、何者かが噂話をして笑っているかのように。
始めは、ストレスによる幻聴かもと考えた。仕事や私生活のストレスが気づかずに溜まって疲れているのかもしれない。
マネージャーに相談しようかとも思ったが、せっかく少しずつメディアへの露出が増えてきた今、仕事は休みたくない。こんなストレスやプレッシャーなんかに負けているようでは、この世界勝ち上がっていけないのだ。
リナは声を無視して仕事に励んだが、声は止まない。やがて、あることに気づいた。
リナが鏡の前にいる時に、声が聞こえてくると言うことに。
ある日、控室でリナは鏡の中の自分を見つめた。すると――
左の鎖骨の上に、何か赤いものがある。
口紅の跡のように見えた。形はしっかりと赤い唇の形をしているが、それにしては小さ過ぎる。親指の爪くらいしかない。
「何、これ……」
じっと鏡を覗き込んで赤い口紅の跡を見ていると、それが急にかぱりと開いた。
「ひっ」
思わず身を引くリナを嘲笑うように、赤い唇は白い歯を剥き出しにして、「キャハハハハハ!」と甲高い笑い声をあげる。
「っ、いや!」
リナは慌てて鏡から離れた。来ていたカットソーの襟でごしごしと鎖骨の上を擦る。
声はすぐに聞こえなくなった。おそるおそる鏡を覗き込んでみると、先ほど見えた唇も無くなっており、擦ったことで赤くなった皮膚があるだけだ。
――気のせい、あんなの気のせいよ。
リナは自分に言い聞かせたが、それ以降、鏡を見るたびに赤い唇が身体のあちらこちらに張り付いているのが見えるようになった。
それらは不思議なことに、鏡越しでしか見えない。普通に腕を見たときには何も無いのだが、鏡に映して見ると、幾つもの唇が張り付いてパクパクと動かして喋っている。ひそひそ声の主は、この唇だった。
さらに、皮膚に浮かぶ唇は、リナ以外の誰にも見えてない。ヘアメイク担当の若い女性が、リナの頬に浮かぶ赤い唇の上にパウダーを平然とはたいている様子を、リナは内心恐々とした思いで見ていた。
顔や体に張り付いた唇――。
自分の頭がおかしくなったのか。鏡を見る度に、自分が何かの化け物になったかのようで、ろくに見ることもできない。
次第に鏡自体が怖くなり、とうとう先日、控室の鏡を割ってしまった――
そこまで話し終えて、リナは膝の上に置いた拳をぎゅっと握った。
「もうイヤ。なんであたしが、こんな怖い思いしなくちゃいけないの……!」
リナは顔を上げ、湊斗の方を見る。
「ねえ、あなた霊能者なんでしょ? これが見えているのよね?」
「ああ……まあ、うん」
確かに赤い唇は視えた。リナの話とも、おおよそ合っている。
頷いた湊斗に、リナは前のめりになって尋ねてくる。
「あたしに何か霊が憑りついているってことなの? 霊がいなくなれば元に戻る? それなら早く祓ってよ!」
「ちょっと待ってくれ。俺はただ“視る”だけだ。だいたい、その唇が霊かどうかもまだわかんねぇし……」
「はぁ? 何よそれ、あなた霊能者なんでしょ?」
「いや、だから……」
睨んでくるリナに、湊斗はたじろぐ。フォローするように、水宮が口を挟んだ。
「湊斗君、もう一度視てあげたら? 何かわかるかもしれないよ」
勝手に決めるなと言いたいところだが、確かにさっきは突然で驚いてしまって、ろくに視れていなかった。
正直、あんな気味の悪いものは二度と見たくない。だが、鏡を見る度にそれを見てしまうリナのことを考えると、さすがにここで逃げるのは躊躇われた。
「……わかった」
湊斗は一つ深呼吸してから、眼鏡を外した。
途端、目の前のリナの顔――マスクが覆っていない部分に赤い唇が見えた。だが、これだけでは見える範囲が狭すぎる。
息を吐きつつ「マスクを外してくれ」と言う。リナは一瞬躊躇ったものの、ゆっくりと外した。
晒された白い顔には、先ほどと同じように無数の唇がリナの顔に浮かんでいる。
「っ……」
はっきり言って、エグい。
リナの顔が綺麗に整っている分、余計に歪で、醜い。
リナも怖い思いをしているだろうが、今の湊斗だって相応に怖い思いをしている。何とか堪えて、湊斗は浮かぶ唇を視た。唇は相変わらずひっきりなしに動いていて、何かを話している。
唇自身が意志を持っているのか? それぞれの動きは違っていて、違うことを話しているようだ。
唇の霊っているのか? こんなにたくさんの霊が憑りついているのだろうか……。
「……あ」
その時、湊斗は気づいた。
唇の大小や向きに差はあれど、どれも似たような形をしている。全体的にふっくらとしていて、上唇より下唇の方が厚い。
……いや、全部同じ形だ。
同じ人物の、唇。
湊斗はごくりと唾を飲み込み、口を開く。
「……なあ、あんた。声が聞こえるって、言ったよな」
「え? うん、言ったけど……」
「その声って――誰の、声だ?」
湊斗の問いに、リナは唇の張り付く頬を、明らかに強張らせた。




