凶暴な天使
戸惑っている彩乃を見て、戸田は説明した。
「彩乃様、もうお気づきかもしれませんが、このフェリシア紫苑という選手は、リングの上ではかなり攻撃的に見えますが、実は、勝敗そのものより、相手と本気で技を交わすことを何より尊ぶ選手なのです」
里見が意外そうな顔をして戸田のほうを見て言う。
「でも、私も長年、いろいろな選手を見てきましたけど、紫苑さんのあの態度、とても作っているとは思えませんでしたけど……」
戸田は大きく首を振った。
「確かに、あの場での言動は全て彼女の本心です。ただし……彼女の場合、本心の表し方が、他の選手とはかなり違うのです。フェリシア紫苑というレスラーは、技をかけたりかけられたりすることに純粋に喜びを見出しているんです。勝つこと以上に、技自体を楽しめると言っていいでしょうか」
「技を楽しめる……?」
彩乃が聞き返す。
「そうです。彼女にとって試合とは自分自身の肉体を通して相手と心を通わせる一種の……コミュニケーションなんですね。だから試合の時は、真剣なあまり怒ったような表情になるし、逆に相手から見事な技を受けた時も、感情を爆発させてしまうんです。今日もかなり熱くなっていましたけど……決して彩乃さんに敵意を持っていたわけではないんですよ」
「そうなんですか……」
里見は驚いたように声をあげる。戸田が付け加える。
「紫苑にとっては、自分と本気で渡り合える相手と対戦することが最高の喜びです。ただ、試合中、その喜びの表現の仕方が独特すぎて、対戦相手や観客は、本気で怒っているように誤解されるんです」
紫苑は戸田の横でしおらしくしている。その姿には、もうリング上の「凶暴な天使」の面影は全くない。
一方、戸田は紫苑のほうをいとおしそうに見ながら、話を続けた。
「例えば今日の試合の場合、『この泥まみれの水着女!』というのは、私流に言い換えさせてもらいますと、『白い水着をこんなに汚して闘っている彩乃さん、強すぎる!』という意味ですし、『お前みたいな清楚ぶった奴が一番ムカつくんだ!』は、『こんな素敵な人と闘えるなんて最高!』ってことなんです。『その顔が泣き叫ぶ姿を見るのが楽しみだよ』というのは、『見てみて、私の技、すごいでしょ!』ってことですし、『こんな技で効くと思っているのか』というのは、『え~、どうやるの、その技、教えて~』という意味なんです」
戸田が次々と説明していくうちに、紫苑は途中から耐えられなくなったのか、
「ちょ、ちょっと、戸田さ~ん。そこまで説明しなくていいから。私の言葉、勝手に翻訳しないで~」
と慌てて戸田を押さえようとした。しかし、戸田は意に介さず、
「いえいえ、彩乃さんとはこれから大切なパートナーになっていただきますから、ちゃんと説明しておかなければいけませんからね」
と穏やかに言った。なすすべもない紫苑は、
「ああもう~」
恥ずかしさで両手で顔を覆った。そんな紫苑を、彩乃は改めて見る。試合の時は、技だけでなく、容赦ない罵倒の言葉も身に染みた。リングから降りた後も、響いていた。しかし、あれは全部、自分への絶賛だなんて。なんだか不思議な感覚だった。
「そうだったの……」
戸田は嬉しそうに言った。
「ええ、ですから、今日の対戦は、紫苑にとっては最高の体験だったはずです。いつもはこんなに長く試合を続けることはできませんからね。たいていの相手は、紫苑があまりにしつこく挑んでくるのをやり過ごして、もっと早く切り上げようとしますからね」
「……そうだったんですか」
彩乃が静かに言った。なんだか、試合の直後の緊張が、遠いことのように思えてきた。
「ところで、どうして紫苑さんは、そんなふうに勝ち負けにこだわらず、試合そのものを楽しめるんですか」
里見が紫苑のほうを見ながら尋ねた。紫苑は里見のほうを向いて、恥ずかしそうに言った。
「私、小さい頃からずっと……周りの人たちと上手く馴染めなくて。だけど、リングの上は違うんです」
「違うって……」
「ええ、中学の時、知り合いに誘われて、たまたまプロレスを見に行ったんです。その時、リングの上の選手たちが、言葉じゃなく心と体で語り合っているように見えて。それが私にはすごく驚きだったんです。あんな風な世界があるなんて」
紫苑の表情が柔らかくなる。
「それで、この世界に入って。デビューした時の感覚は今でも忘れてません。負けちゃったけど、あんなに誰かとつながれたって感じたこと、それまでなかったから」
「そういうことだったの……」
里見はいとおしそうに紫苑を見つめた。
「フェリシアさんと闘った私には、分かりますよ。紫苑さんが、対戦相手をとても尊重しているって」
「彩乃?」
里見が意外そうに振り向いた。
「試合中は、私も紫苑さんの言葉にずいぶん傷つきました。正直、本気で私を憎んでいるのかとすら思いました。でも、今になって振り返ってみると……紫苑さん、ヒールも顔負けの態度だったのに、一度も反則らしい技はしてこなかったのです」
彩乃は、リングでの紫苑の姿を思い返した。
「口ではどんなに乱暴なことを言っていても、攻め方は常に正攻法なんです。それに、中には相手がきちんと受けてくれると信じていなければ、仕掛ける側のほうが危険な技だってありました。それだけ、相手のことを信頼してくれていたんですね」
「そういうことです」
戸田が嬉しそうに頷いた。
「それに試合が終わった後は、『ルールなんて知ったことか』なんて言ってましたけど……結局、私には何もしなかった。私がガウンを着て、髪を整えている間も、ずっと待っていてくれた。本当に私を傷つけるつもりなら、そんなことはしなかったはずです」
里見はしばらく黙っていたが、やがて納得したように頷いた。
「そっか……。言葉は乱暴だけど、ちゃんと試合をしていたわけね」
「ええ。そこが紫苑の一番誤解されやすいところなんです」
戸田が答えた。
「彩乃様のご指摘の通りです。紫苑は口や態度は乱暴ですが、どれだけ興奮しても、絶対に反則技を使ったり、ルールを踏み外したりはしません。そして、常に対戦相手のことを大事に思っています。紫苑の言動を見て、ヒールのほうが向いているのでは、という声もあったのですが、私は断固、反対しました。彼女は生粋のベビーフェイスなのです。たとえ演技であっても、本当に相手を傷つけることを喜ぶような悪役は、この子にはできません。それは、この子の望むものじゃないですからね。全身を使って誰かと対話することが、彼女の最大の喜びなんです」
戸田の言葉には、紫苑を長く見守ってきた保護者のような温かさと、揺るぎない力強さが感じられた。
戸田の横から紫苑が言った。
「私……彩乃との試合、本当に楽しかったの。あんなに長く闘えたのも初めてだったし、いろんな技を出しても、彩乃が一つ一つ応じてくれて。それに、さっきも言ったけど、試合のあと、彩乃がちゃんとガウンを着て髪を整えているのを見て、本当はほっとしてたの。凛々しくて、かっこいいなあって。でも、いざリングから去ろうとするのを見たら、『え、もうおしまいなの』って急に寂しくなっちゃって。それで感情が高ぶって、またあんなこと言っちゃって……」
紫苑はそう言って頭を下げた。彩乃は紫苑に微笑みながら声をかけた。
「試合直後は、本当に怖かったけど、私も案外、紫苑との試合、夢中になっていたかも。だって、私も本当に嫌なら避ければいいのに、紫苑の技、全部、受けては返しちゃっていたから」
それから彩乃は改めて背筋を伸ばして、
「と、いうことで、セレスティア彩乃、フェリシア紫苑選手とのタッグ、ぜひ、引き受けます」
フェリシア紫苑も同じように言った。
「私、フェリシア紫苑も、セレスティア彩乃選手とのタッグのお話、喜んでお受けします」
二人が頭を下げた。里見と戸田はほっと胸をなでおろす。
里見は紫苑に言った。
「紫苑さん、ありがとうございます。私からも、セレスティア彩乃のこと、よろしくお願いします」
里見はそう言ってから、少しだけ彩乃のほうを見た。
「彩乃のことはデビューした頃から関わってきました。真面目な子で、どんなに厳しい練習にも耐えて……紫苑さんとあれだけの長期戦ができるくらい、本当に強くなりました。だけど、近頃は、その『強さ』に、逆に押しつぶされそうになっていたわ」
「里見さん……」
「私が声をかけても、『大丈夫ですから』って言うだけ。私もどうしたらいいのか分からなくて、ずっともどかしかった」
里見はそこで、テーブルのシュークリームとジュースへ目をやった。
「だから今日、この部屋に紫苑さんがいるのを見たときは、驚いたわ。でもね……本当は、それ以上に嬉しかったの。こんなふうに誰かとお菓子を広げて、楽しそうにしている彩乃を見るの、久しぶりだったから」
そして、改めて紫苑を見る。
「紫苑さん。彩乃って、周りからは強い選手って思われているけれど、案外、弱いところもある子なの。ですから、いろいろなところで支えてあげてね」
「分かりました、里見さんっ」
元気に紫苑が答える。彩乃は胸が熱くなった。里見はこの世界に入ってからずっと、自分を見てくれたマネージャーだ。彩乃にとっては、女子レスラーとしての心得から立ち居振る舞いまで、厳しく教えてくれた人だった。そんな里見がこんなに自分のことを気にかけていたなんて……。
「里見さん、本当にありがとうございました……」
思わず涙ぐむ彩乃に里見は言った。
「いいのよ。これが私の仕事だから。……彩乃ちゃん、よかったわね。理事長にも認めていただける選手になって。それに、今日はよかったわね、フェリシア紫苑さんっていう、素敵なパートナーまでできたんだから」
そう言って、彩乃の肩に優しく手をかけるのだった。




