白い猛獣
「それからね」
紫苑はそう言うと、シュークリームを持ったまま、改めて彩乃の姿を眺めた。
「な、なに?」
「あれだけ激しい試合でも、終わると、彩乃って、すぐに切り替えられるのよね。いつも、ガウンを着て髪を整えてから、リングを降りるじゃない。あの時は、わたし、ちょっと変なこと言っちゃったけど、本当は、素敵だなあ、って思ってたんだ。なんだか、試合の後も、乱れたままでいないって、さすがだよ」
「え……?」
彩乃は少し意外そうな表情を見せた。
「別にそんな……」
言いかけて、彩乃は少し俯いた。視線を自分のガウンの裾に落とし、小さくため息をついた。
「本当は……ただ、恥ずかしいだけなのよ」
「……?」
紫苑は首を傾げた。試合を終えると、大抵の選手は、汗まみれのまま、髪もぼさぼさの状態のまま、リングを降りていく。そんな中で、彩乃は、試合を終えると、必ず汗を拭いて、ガウンを着てから退場する。それも『セレスティア彩乃』の美学として、紫苑も、それを見ている観客たちも思っていたからだ。
「試合が終わったら……それまでの自分が何をしていたか意識しちゃうのよ」
彩乃は俯き加減になって言った。紫苑は先ほどから、試合中の自分をずいぶん褒めてくれている。嬉しくないと言えば嘘になるけれど、ただ彩乃自身が思い出すのは、そんな格好のいい姿ばかりではなかった。
「たくさんの人たちがいる中で、白い水着だけになって、髪を振り乱して暴れて……。相手を倒そうと抑え込んだり、逆につかまれてわめいたり。……試合が終了すると、それまで自分がどんな姿で闘っていたのか、急に意識しちゃって、もう、いたたまれなくなっちゃうの。だから、すぐに、ガウンを着るようにしているのよ」
「彩乃……」
紫苑は息を飲んだ。リングの上で、あれほど激しく自分と渡り合っていた彩乃が、今はその時の自分を思い出して、恥ずかしそうに俯いている。紫苑にとって、それは初めて目にする彩乃の一面だった。
「闘うこと自体は嫌なわけじゃないの。それは、勝った時は嬉しいし、ただ……」
彩乃は自分の拳を見つめた。何度も相手につかまれ、つかみ返してきた手だ。
「最近は、みんなが私のことを『白い猛獣』って呼んでくれるのも、つらくなってきたの。もともと、リングで闘う私の強さからついたあだ名で、悪い意味じゃないってのは、分かっているんだけどね」
彩乃は言葉をつづけた。
「ゴングが鳴り、試合が始まると、そんなことは考えていない。闘うことだけに夢中になっている。だけど、つらいのは、試合が終わった直後よ。みんな、私のことを人間じゃなくて獣としてしか見てないんじゃないかって思えてくるの。ううん、そう思われても当然かもしれない。相手を倒すことだけ考えて向かい、攻撃されればさらに反撃して……。もう、猛獣そのものね。このままリングに上がり続けていったら、そのうち私、どうなっちゃうんだろうって、不安になってくるの」
「……」
紫苑は何も言わずに彩乃の言葉に耳を傾けるだけだった。
「この世界に入った時は、早く強くなりたい、闘って勝ちたい、と思っていた。でも、今は、対戦相手が怖くなってきたの。負けるからとかじゃないの。みんな、この猛獣を仕留めて手柄にするために挑んでいるんだ、と思えてくる。私は猛獣なんかじゃない、一人の人間なのよって、叫びたくなるんだけど、ゴングが鳴ると、もうそんなことも忘れて、自分から相手を組み伏せようと飛び掛かっている」
彩乃は自分の手を見つめた。
「試合になると、自分がみんなから追われる獲物みたいに思えてくるの。どんなに必死に抵抗しても、どんなに苦しくても、周りからはもっと大きな歓声が上がるでしょう? もちろん、みんな悪気があるわけじゃないって分かってる。でも、試合が終わった後になると、その歓声まで怖く思えてくることがあるの」
彩乃はワインレッドのガウンに包んだ身体をすくめた。
「試合が終わったとたん、自分がもうボロボロになってることに気づくの。汗まみれで、髪も乱れてて……。そうすると、もう泣きそうになる。だから、こうやってすぐにガウンをまとって髪を結んで……自分は『白い猛獣』なんかじゃない、人間なんだって、確かめないと気が済まないの」
そこまで一気に言葉を吐きだした彩乃に、紫苑は心配そうに言った。
「ごめんね。彩乃がそんな気持ちでいたのに、わたし、あんなこと言っちゃって……」
「ううん、紫苑は悪くないわ。みんな、試合の時は必死だもんね。今の話は愚痴みたいなもの、私が勝手にそう思っているだけだから、気にしないで。むしろ、わざわざ控室まで来てくれて、こんな話でも、聞いてくれて本当に感謝しているわ」
そう言って彩乃は微笑んだが、その笑顔を見ると、紫苑はむしろ胸が締め付けられる思いがするのだった。
「……でもね、彩乃」
「なに?」
紫苑はしばらく彩乃を見つめていた。
「リングの彩乃はさ……猛獣なんかじゃない。戦士だったよ」
「え? 戦士……?」
彩乃は思わず聞き返した。紫苑からあまりに意外な言葉が出たからだ。
「倒されてもあきらめず、立ち上がってくる姿。あれは猛獣なんかじゃないよ。ただ一生懸命に闘ってた。うん、あれはまさしく『戦士』だね」
紫苑は大きくうなずきながら言った。「戦士」という言葉が、彩乃の胸の底にゆっくりと降りて広がっていく。
「戦士……か」
彩乃はそっと自分の拳を見つめた。何度も相手につかまれ、つかみ返してきた手だ。ついさっきまで、そんな自分を猛獣のように思っていた。それが紫苑には、まったく違って見えていたらしい。
紫苑はシュークリームを食べ終えた手を軽くふきながら言った。
「今日だってすごかったもの。わたしがあれだけ技を掛けても、彩乃、また立ってきたでしょう? それで今度は、こっちに向かってくるの。わたし、すごいなって思ってたんだよ」
「そう……なのかな」
彩乃はまだ半信半疑だった。
「リングの上での彩乃はずっとまっすぐだった。相手の熱意にしっかりと応じてくれる。そうやって、あんなに長い時間、わたしと闘ってくれて、本当に嬉しかった」
試合の時はあれだけ激しく闘い合った紫苑から、そんなふうに言われると、彩乃の胸も温かくなる。
「彩乃に挑むほかのみんなも同じだと思う。彩乃のこと、猛獣だから倒せばいい、なんて考えていないよ。彩乃は、どんな相手でも真正面に受け止めてくれるから、闘いたいんだよ。何しろ、あれだけ長い間、闘ったわたしが言うんだからね」
(真正面に受け止める……か、)
彩乃は紫苑の猛攻を受けていたときの自分をゆっくりと振り返ってみる。決着がついてからもなお、あれほど紫苑に恐れおののいていたのも、それだけ彼女の放つ鋭く正確な技と、その激しい闘志に、最後まで真正面から向き合っていたからなのかもしれない。
「それにね、彩乃が試合を終えるとガウンを着て髪を整えるのも、闘った相手にとっては、別の意味もあるのよね」
彩乃は不思議そうに紫苑のほうを見る。
「わたしたちって、試合の時は、お互いにかなり激しくやり合うじゃない? もう、絶対に相手を動けなくしてやろうと、本気で技を掛けるでしょう?」
「うん……」
「だから、試合が終わったあと、相手がちゃんと立って、いつものようにしているのを見ると、ほっとするのよね。『大丈夫。あれだけやり合ったけど、これは試合だったんだから』って言ってもらえているみたいで」
今までは、自分の恥ずかしさを覆い隠すためだけのものだと思っていた試合後の身支度に、こんなふうに紫苑から別の意味を見つけてもらえると、少し救われたような気がしてくる。
「だからかな。彩乃が、わたしがまだ続けろ、なんて無茶なことを言い出した時に、きっぱりと、この後も続けたらただの喧嘩になっちゃう、って止めてくれたでしょ。彩乃がガウンを着て、シュシュで髪を結んでいるのを見たら、わたし、実はほっとしたんだけど、急に寂しくもなっちゃってね、それで、あんなこと口走っちゃって……」
最後はちょっと照れたように紫苑は言った。
「ありがとう。紫苑にそんなふうに言ってもらえると、私も嬉しい」
彩乃の声は微かに震えていた。
「そんなふうに言ってくれる人……初めてよ」
「だって本当にそう思っているから」
紫苑は晴れやかな笑顔で答えたが、急に何か思い出したらしく、
「そうそう、さっきこの部屋に向かう時はわたし、びくびくしていたんだけどね。まだ、怒っていないかなって思いながら……」
それから、いたずらっぽく笑いながら、
「それがさ、ぎゅーっとクッションを抱きしめてこっちを見てくるんだもの。まるで、『どうなっちゃうの、私?』って顔してて。あの時の彩乃、すごく可愛くって、びっくりしちゃった!」
「え……?」
彩乃は慌ててクッションを胸元へ抱え込み、その陰へ隠れるように身を縮めた。
「ちょっ……紫苑! それは……その……」
「猛獣だなんてとんでもないよ」
紫苑は大げさに手を振った。
「クッション抱えて『きゅ~ん』って顔してる彩乃、まるで子犬みたいだったよ。『白い猛獣』じゃなくて『白い仔犬』だね!」
「もー! 紫苑ったら!」
彩乃は真っ赤になってクッションで顔を隠した。恥ずかしさのあまり身を縮める。
紫苑は腕を組んで大げさにうなずいた。
「リングで闘っている『戦士』の彩乃も、こうしてクッション抱えてる彩乃も……どっちも素敵だよ」
「そ……そう」
彩乃はますます顔を赤くすると、クッションに顔をうずめてしまうのだった。




