激闘の果てに
リングを降りてからも振り返ることのなかったセレスティアは、観客席からは見えない廊下のあたりまで来たところで、よろめくように壁にもたれかかった。
(もうだめ……限界……)
息を整えようとするが、体中の痛みでまともに呼吸もできない。左膝は腫れ上がり、右腕は筋肉がひきつっている。先ほどの観客の前で見せた威厳ある姿とは裏腹に、今はただの疲れ切ったひとりの女性だった。
(本当に今日は厳しかった……)
こんなに長時間になるとは思わなかった。最後にどうにかフォールに持ち込むことはできたが、かなり無茶なやり方だった。フェリシアの猛攻をずっと耐え抜いて、かろうじて勝利したものの、その代償は大きかった。受けたダメージは、むしろセレスティア彩乃のほうが大きかった。それでも足を引きずって、ようやく自分の控室までたどり着いた。
中に入ると、すぐに扉を閉め、ソファに座り込む。
「……フェリシア紫苑。なんて相手だったんだろう……」
容赦なく次々と攻撃を仕掛けてくる彼女の姿を思い出す。特に関節技。相手の急所を的確にとらえ、特に右腕を締め上げられたときの痛みは忘れがたい。あの技の精度は並大抵のものではなかった。応戦するのがやっとだった。狭いリングの中で追いかけてくる。それどころか、リングから転がり落ちても、執拗に連れ戻しに来る。試合時間六十三分の長期戦だったが、リングの上にいる間は、このまま永久に続くのではないかと思えた。
「くっ……」
痛みを堪えるように息を吐き出す。何とか最後にカウント3を奪取して、ようやく死闘を終わらせることができた。
(あの子の攻め方は……本気だった)
もう二度と闘いたくない。試合の後はいつもそんな気持ちに襲われる。特に今回はその気持ちが強い。
だが、そうすることが許されないのがこの世界だ。どんなに苦しくても、相手が来れば立ち上がり、闘わなければならないのだ。
セレスティア彩乃は、ワインレッドのガウンの袖へ目を落とした。今はこうして身なりを整えている。それなのに、つい先ほどまで、自分は白い水着だけになり、小さな四角い檻の中を駆け回り、同じくらいの年頃の女の子と取っ組み合っていたのだ。
闘っている間は、そんなこと、気にしている余裕はない。観客の歓声に包まれている中で、自分も異常な興奮状態になっている。しかし、それが過ぎ去ってしまうと、それまで自分が何をしていたのか、一気に思いいたってしまう。
「……今日もみっともなかったわね、わたし…」
ふとつぶやくと、彩乃はますますガウンの中へ縮こまりたくなった。
攻撃を受けて苦しむ顔も、相手へ向かっていくときの形相も、きっと全部見られていたはずだ。髪を振り乱し、普段の自分なら決して見せないような姿をさらしていた。それを周りが見て、大きな歓声を上げていたのだと思うと、今さらながら恥ずかしくなってくる。
試合の後、彼女がガウンを身にまとい、髪もきれいに整えるのは、女王の威厳を保つためではない。本当は、少しでも早く、この体を覆うものが欲しいから、そして、乱れた身なりを整えておきたいからだ。
それなのになお、相手はもう一度、あの場所に引きずり戻そうとしてきた。ゾッとした。とにかく、この場から逃げなければ、という一心だった。あれを言うだけで精いっぱいだった。振り返れば終わりだと思った。
「もう、リングになんか……上がりたくない……」
この世界に入ってから、強くなりたいという一心で頑張ってきた。最初は負けるばかりで、試合の後、泣きじゃくることも何度もあった。それでもつらいトレーニングにも耐え、ようやく団体のスター選手にまで上り詰めた。今や、白い水着に黒髪をたなびかせて闘うセレスティアは「白い猛獣」と呼ばれ、リングの上の孤高の存在だ。
それなのに、デビューしたてのころよりも、今のほうが、試合に出るのがつらくなってきた。それも、負けた時よりも勝った時のほうがその気持ちが強くなるのだ。「白い猛獣」を仕留めようと、次々と強豪が挑んでくる。誰もが自分を倒して手柄にしようと迫ってくる。セレスティア彩乃は、それに必死で抵抗する。だが、抵抗すればするほど、挑んでくる相手は増え、執拗になってくる。今日の、あのフェリシア紫苑のように。
(どうなってしまうの、私……)
テーピングを巻き終えたセレスティア彩乃は、そう自問する。
みんな、私のことをまさしく獰猛な獣のように思っているのだろう。そして、自分も、リングに上がれば、今まで考えたことは忘れ去って、暴れ叫ぶのだ。そして、全てが終われば、またむなしくなる。こんなのが、いつまで続くのか。
「私は……星野彩乃、人間なのよ……」
そう叫びたかった。だが、誰もが求めているのは、白い水着と黒髪を振り乱して暴れている「白い猛獣」なのだ。
(きっとフェリシアは、私を追ってくる……)
次も、その次も。「今度こそ倒す」と言って、何度でも挑んでくるのだろう。試合が終わった後の目つきを思い出すと、恐怖で背筋が凍り付きそうになる。
次は、どうする? その時は、今日のように、耐えられるだろうか。もう、倒れ尽きるまで、闘い続けるしかならないのか……。
「もう、何も考えたくない……」
ワインレッドのガウンの裏地の肌触りだけは、柔らかく感じられた。
セレスティア彩乃は、お気に入りのクッションを握りしめると、ソファで静かに目を閉じた。




