まだ終わっちゃいない
試合の余韻がリングを包む中、セレスティアはゆっくりとリングサイドに歩み寄り、置いていたタオルを手に取った。布地は柔らかく、ほのかに洗剤の香りがする。まず顔を覆い、頬に流れる汗を優しく拭い取る。次に首筋、そして肩から腕へと滑らせていく。一滴一滴の水分が吸収されていく感触を味わうように、丁寧に。その動きには疲れよりも清々しさが滲んでいた。
汗で張り付いた白い水着の胸元を拭い、鎖骨から腹筋のラインへとタオルを滑らせる。鍛え上げられた筋肉の凹凸が汗で光っている。右肩甲骨から脇腹へ、左腰骨から大腿部へ――全身を拭い終えると、タオルを軽く畳み、リングサイドの椅子に置いた。
次に手にしたのは、ワインレッドのガウンである。深いボルドーカラーが照明を受けて微かに輝く。まずは左腕を袖に通し、続いて右腕を差し入れる。衣擦れの音がリング上でかすかに響く。背筋を伸ばし、腰のベルトを結ぶ。その動作は優雅でもあった。
ガウンの襟元を整えると、あとは黒髪だ。リングサイドに用意された小さな鏡の前で、セレスティアは長い髪に手櫛を通した。汗で多少の癖がついているが、気にならない程度だ。試合中は長い黒髪を下ろしたまま闘う。それが彼女のプロレスラーとしての姿だった。そして試合が終われば、リングを降りる前に髪をポニーテールに整える。黒いゴムでしっかりと結い上げ、髪が邪魔にならないよう高い位置にまとめる。最後に白いシュシュを巻き付け、軽く頭を振ってバランスを確かめる。まだ息遣いは浅く速いが、身だしなみはかなり整った。
「……よし。これでいいわ」
試合が終わればそのままリングを去る選手も多い中で、セレスティアには譲れないこだわりがあった。ワインレッドのガウンに身を包み、長い黒髪をきっちりとポニーテールに整える。試合結果がどうであっても、どれほど疲れ果てていても、リングを降りる前には必ず身なりを整える。それが彼女の流儀だった。
「相変わらず格好いいよなー」
「試合の後に、あのポニーテール姿を見ないと気が済まないんだよ」
といった声が飛び交っていた。激しい試合を終えた直後、ガウンをまとい、髪を整えてからリングを去る。この独特の「退場シーン」もまた、多くのファンにとって楽しみの一つだった。
セレスティアがしなやかにリングロープに手をかけ、ワインレッドのガウンの裾を翻してまたごうとした瞬間――
「待ちやがれ……セレスティア……」
掠れた声が響いた。振り返ると、それまでリングの中央で倒れたままだったフェリシアがようやく上半身を起こそうとしていた。立ち上がろうと足に力を込めるが、ふらつき再び膝をつく。それでも顔を上げてセレスティアを睨みつけた。
「勝負はまだ……終わってねえぞ……」
フェリシアは震える手でロープを掴んで立ち上がる。膝がガクガクと震え、チャコールグレーの水着も、ウエーブのかかった黒髪も汗で濡れ光っている。観客は固唾を飲んで見守るしかない。
「……何か用?」
セレスティアの声は、冷ややかだったが、完全に無視はしない。それも彼女の「優雅さ」の一部なのかもしれない。
フェリシアは立ち上がり、乱れた髪を払いながら近づいてきた。顔には悔しさを滲ませているようにも見え、目は鋭く輝いている。セレスティアは彼女の気迫を受け止めつつも、リングの隅に立ったまま動かない。観客のざわめきが少しずつ大きくなり始めていた。
「……私は、……まだ、立てるんだ……。勝負を続けろって言ってんだ!」
フェリシアはよろめきながら叫んだ。グレーの水着は汗で肌にぴったりと張り付き、肩口や太腿には打ち身の跡が青黒く浮かび上がっている。爛々と光る目で相手を睨みつけた。観客席からは恐怖と期待の入り混じったどよめきが上がった。
「もう試合は終わったのよ。3カウントが入ったでしょう? あなたは立てなかった。レフリーが試合終了の宣言をした。私は勝った、あなたは負けた。それですべて。これが私たちのルールよ」
セレスティアは冷静に言い放つ。ワインレッドのガウンの胸元を整えながら、まるで子供に道理を説くような口調だった。
「うるせぇ! ルールがなんだ! ふざけんなよ! どっちかがギブアップするか、動けなくなるまで続けるんだ! 私はまだ負けてねぇ! 立てばまだやれるんだ!」
フェリシアはマットを叩きながら叫んだ。
「何言っているの?! 私たちはリングの上で闘うレスラーよ。レフリーが試合終了の宣言をしたのに、それでも闘うっていうの? そんなの、もうプロレスじゃなくて、ただの野蛮な喧嘩よ!」
セレスティアはまるで最後通牒のように言い放つと、もはや、振り返ることなくリングを後にしていった。セレスティアの言葉に、フェリシアはその場に立ちすくんだ。
「……くそっ……くそぉぉぉっ!!」
セレスティアの姿が見えなくなると、フェリシアの絶叫がリングに響き渡った。ギリッと歯を食いしばり、握りしめた拳で何度も床を殴りつける。マットが鈍い音を立てるたびに、拳から汗が飛び散った。
セレスティア彩乃とフェリシア紫苑の試合が予定時間を大幅に過ぎた上に、試合後も選手同士が衝突したためか、この日の大会はそのまま終了となった。会場を後にする観客たちは異様な興奮状態だった。
「今日の試合、フェリシア、あそこまでセレスティアを攻め込まなくてもよかったのに……」
「でもフェリシアのあの粘り強さはすごかったわ! セレスティアだってあれだけ追い込まれてたもの」
「でも最後はやっぱりセレスティアね。あの逆転劇は鳥肌ものよ」
「そうだけど、フェリシアのあの態度、なんか釈然としないわ。負けて悔しいからって、あんな言い方はないわ……」
「セレスティアのあの凛とした態度……あれこそプロ中のプロって感じだ。勝ったあとですら自分のスタイルを貫くなんて本当にかっこいいよ」
「あのガウンと髪型をしっかり直すところとか、プロとしてのプライドを感じた。ただ勝つだけじゃなくて、観客の前での見栄えも意識してるっていうのがすごいよね」
「でも、この調子じゃ、近いうちにセレスティア彩乃対フェリシア紫苑の再試合が組まれるのは確実だろうね」
「見たい気もするけど、私はちょっと怖いわ……。今日のだって、目を背けそうになったくらいだもの」
「プロレス協会は、きっと次は二人の対戦カードを切るんだろうな。人気稼ぎのために。あんな試合をやり続けちゃ、選手を消耗品扱いしているのと同じだぞ」
「それでも、やらせるだろうな。今度は、時間無制限、ギブアップかどちらかが動けなくなるまで続けるデスマッチとか」
「そうそう、選手がどうなろうと、客を呼べればそれでいいんだから」
「もしかしたらフェリシアって子、次の試合が正式に決まる前に、乗り込んで、個人的なデスマッチをやるんじゃない?」
「ありえるな。あの目つき、ただじゃ済まなさそうだ……」
人々はさまざまな感想を漏らし、今日の試合の興奮に酔いしれながら帰路についていた。




