第9話「雪解けの街と青い薬入れ」
山脈の頂を覆う万年雪の裾野から、細いせせらぎが幾筋も流れ出していた。
アルスヴァン砦から緩やかな坂道を下ること半刻。
馬車の窓から見える景色には、凍てつく冬を耐え抜いた黒い大地が露出し、柔らかな日差しを浴びて湯気を立ち上らせていた。
雪解けの泥濘を避けるように敷かれた石畳の上を、車輪が規則正しい音を立てて進む。
アリアは、向かいの座席に腰を下ろすレオンハルトを盗み見た。
男はいつもの黒鉄の甲冑ではなく、深い紺色の厚手の狩猟服を着込んでいた。
肩には毛皮の短いケープを羽織り、腰に佩いた剣も小ぶりな旅用のものに改められている。
それでもなお、鍛え抜かれた体躯から放たれる静かな威圧感は隠しようもなかった。
「……あの、閣下。本当に私がお供してよろしかったのでしょうか」
アリアは膝の上で、白銀狐の手袋をはめた指先をもじもじと絡ませた。
「薬草の買い付けなら、ゲルハルト様や買い付け役の兵士の方々のほうが、商隊との駆け引きや、金貨や銀貨の重みを知り尽くしているはずですが」
王都からの使者モルガンを追い返して以来、アリアは砦に迷惑をかけまいと調合室に引きこもっていた。
自分の存在が、この北方の地に無用な戦火を招くのではないか。
その恐怖と申し訳なさが、アリアの足を竦ませていたのだ。
そこへ今朝、レオンハルトが唐突に現れ、無理やり馬車へと乗せられたのだった。
「ゲルハルトは頑固でいかん。古い調合理論に固執して、新しい素材を値切り倒すことしか能がない」
レオンハルトは腕を組んだまま、淡々と言った。
「実際に土に触れ、素材の息吹を見極められる調合師の目が必要だ。それに……」
男は視線を窓の外へ投げ、言葉をわずかに切った。
「部屋に閉じこもってばかりでは、息が詰まるだろう。たまには外の空気を吸え」
ぶっきらぼうな響きの奥にある配慮に、アリアの胸が微かに疼いた。
この人は、いつもそうだ。
多くを語らず、冷徹な仮面を被りながら、こちらの痛む部分を的確に見つけ出して、そっと手を差し伸べてくる。
その優しさに触れるたび、契約と言う名の境界線が揺らぎそうになるのが怖かった。
馬車が停まったのは、砦の麓に広がる交易街、エーデルシュタットの中央広場だった。
扉が開くと、冬の終わりを告げる湿った風とともに、活気に満ちた人々の声が押し寄せてきた。
雪解けを待っていた各地の商隊が集まり、天幕の下には色とりどりの布地、乾物、金物、そして山の恵みが所狭しと並べられている。
「アリア様じゃないか!」
馬車を降りたアリアに、天幕の奥から太った初老の女性が声をかけてきた。
砦へ干し肉を納入している肉屋の女将だった。
「おやまあ、本当に来てくださったのかい! うちの爺さんの霜焼け、アリア様の軟膏を塗ったら一晩で痛みが引いたんだよ! ほら、これ持っておいき!」
差し出されたのは、燻製の香りが香ばしい大ぶりの猪肉の干し肉だった。
アリアが慌てて手を振る。
「い、いえ、代金もお支払いしていませんのに、そんな貴重なものをいただくわけには――」
「何言ってんだい! 冬の間、砦の兵隊さんたちが怪我もせず街を見回ってくれたのは、アリア様のおかげだって皆知ってるよ! 遠慮なんかしちゃだめさ!」
女将に強引に包みを押し付けられ、アリアは戸惑いながらレオンハルトを見上げた。
レオンハルトは小さく口元を緩め、無言でうなずいた。
「……ありがとうございます。大切にいただきます」
アリアが深々と頭を下げると、周囲の露店からも次々と声がかかった。
乾燥させた珍しい野草、山の蜂蜜、焼き立てのくるみパン。
誰もがアリアを『罪人』などとは呼ばなかった。
『砦の若い調合師様』『北方の守り神の奥方様』と呼び、親愛に満ちた笑顔を向けてくる。
(こんな風に、誰かに受け入れられる日が来るなんて)
王都の冷たい石畳の上で、誰からも見向きもされず、ただ嘲笑と搾取に耐えていた八年間が、遠い過去の悪夢のように思えた。
胸の奥に灯る温かな光。
だが、その光が強くなればなるほど、影もまた濃くなっていく。
(契約が終われば、私はこの街からも去らなければならない)
残された時間は、もう一ヶ月を切っていた。
春が完全に訪れ、雪が解けきったとき、自分はどこへ行けばいいのだろう。
自由と報奨金を与えられたとしても、この温もりを知ってしまった心が、再び一人の孤独に耐えられるだろうか。
「アリア、こちらへ来い」
物思いに沈みかけていたアリアの手首を、レオンハルトの手がそっと引いた。
引き寄せられた先は、広場の片隅にある小さな天幕だった。
そこには、北方の鉱石や貴金属を加工した装飾品が並べられていた。
無骨な鉄の細工物の中に混ざって、真鍮や銀の小さな小物が埃を払われて置かれている。
アリアの視線が、並べられた品々の一点に吸い寄せられた。
それは、手のひらにすっぽりと収まるほどの、精巧な銀細工の薬入れだった。
表面には細やかな雪の結晶が彫り込まれ、蓋の中央には、透き通った青い鉱石が嵌め込まれている。
万年雪の底から掘り出されたと言う、氷晶石。
冷たく澄み切った、けれどどこか温かみを感じさせるその青は、見つめていると吸い込まれそうな美しさを持っていた。
(綺麗……)
アリアはあまりの美しさに息を呑み、言葉を失った。
王都の貴族たちが好むような、金ぴかの豪華絢爛な細工ではない。
質素で、頑丈で、けれど職人が祈りを込めて削り出したことが伝わってくるような品だった。
しかし、値札に刻まれた金貨の数を見て、アリアはすぐに視線を逸らした。
自分のような者が身につけていい贅沢品ではない。
「気に入ったのか」
耳元で降ってきた低い声に、アリアは小さく肩を跳ねさせた。
「い、いいえ! ただ、とても精巧な作りだと思いまして……調合用の薬入れとしては、少しもったいないくらいです」
「そうか」
レオンハルトは短く返事をすると、露店の店主に向かって銀貨の革袋を放り投げた。
「包む必要はない。そのままもらう」
「毎度あり、旦那!」
手際よく薬入れを掴み上げたレオンハルトは、背を向けると、呆気にとられるアリアの前に歩み寄った。
そして、アリアの右手を取り、白銀狐の手袋を外させると、その小さな手のひらの上に冷たい銀の薬入れを載せた。
「あ……閣下!? だめです、こんな高価なもの、受け取れません!」
「薬入れが必要だと言ったのはお前だ」
「言っていません! ただもったいないと申し上げただけで――」
「お前に似合う」
遮られた言葉は、あまりにも真っ直ぐで、不器用だった。
レオンハルトはアリアの瞳をじっと見つめていた。
その青い双眸は、薬入れの石と同じ色をしていた。
深く、静かで、冷徹な氷の奥に、激しい熱を秘めた瞳。
「その石の色は、お前の瞳に似ている。北方の厳しい冬を耐え抜いた者だけが持つ、澄んだ青だ。持っておけ。大切な薬を入れて、肌身離さず持っていればいい」
手のひらの上の銀細工が、アリアの体温を吸って、ゆっくりと温まっていく。
断る言葉が、喉の奥で消え去ってしまった。
胸が苦しいほど高鳴り、視界がじんわりとにじみそうになる。
(どうして、そんなに優しくするのですか)
偽装の婚約者。
三ヶ月限りの身代わり。
そう割り切ってくれていたなら、どれほど楽だっただろう。
こんな風に、一人の女として慈しまれてしまえば、諦めようとしていた心が千々に乱れてしまう。
「……大切にします」
アリアは薬入れを両手で包み込み、胸元に抱きしめた。
「生涯、大切に持っています」
その言葉に、レオンハルトの表情がわずかに和らいだ。
彼が伸ばしかけた手が、アリアの頬のそばで一瞬ためらい、そのまま彼女の頭の上にそっと置かれた。
硬い剣だこのある大きな手のひらが、アリアの髪を優しくなでる。
街を行き交う人々のざわめきが、遠くに聞こえた。
春の光の中で、二人の影が石畳の上に重なり合っていた。




