第10話「暴走する愚者と迫る破滅」
同じ頃、遠く南に位置する帝都の宮廷研究所は、死のような静寂に包まれていた。
研究棟の最奥、筆頭薬師ギルベルトの執務室の扉が、音を立てて蹴破られた。
入ってきたのは、黒衣をまとった十数名の帝国司法省の監察官たちだった。
その先頭に立つのは、皇帝直属の主席監察官、ハインリヒ卿。
冷厳な表情の男が、机の陰で震えていたギルベルトを見下ろした。
「ギルベルト・フォン・ハインツ。帝室反逆、公金横領、および皇帝陛下暗殺未遂の容疑で、貴様の身柄を拘束する」
ギルベルトは血走った目を剥き出しにして跳ね起きた。
法衣は乱れ、無精髭の伸びた顔は狂人のようにやつれ果てていた。
「な、暗殺未遂だと!? 無礼な! 私はハインツ伯爵家の当主だぞ! 私は陛下のために、不眠不休で霊薬を調合していたのだ!」
「その霊薬が原因だ!」
ハインリヒ卿は書類の束をギルベルトの顔めがけて叩きつけた。
「今朝方、貴様が納品した『天上の雫』を服用された陛下が、激しい吐血とともに危篤状態に陥られた! 宮廷医官たちが調べたところ、薬液からは致死性の魔力毒が検出されたのだ! 配合比の狂いによる、完全な調合ミスだ!」
「ち、違う! それはアリアが仕掛けた呪詛のせいで――」
「まだその小娘のせいにするか!」
ハインリヒ卿は冷酷に嘲笑した。
「貴様の不正は、すでにすべて洗われている。過去三年間、貴様が提出した霊薬の調合日誌と、アリア・レンフィールドが残した下書きを照合した。貴様は自ら調合などしていなかったな。小娘の調律能力に寄生し、彼女が整えた薬液を横取りして己の手柄にしていただけだ。横領した公金の帳簿も、すでに押収した」
部屋の隅に控えていた衛兵たちが、抜刀してギルベルトを取り囲む。
万策が尽きた。
名声も、地位も、富も、すべてが泡のように消え去った。
残されたのは、帝室を害した大罪人として、広場で首を刎ねられる未来だけだった。
「ひ、ひぃ……っ!」
ギルベルトは悲鳴を上げながら、机の上の書類立てを監察官たちに向けて投げつけた。
紙片が舞い散る中、彼は執務室の奥にある隠し扉へと転がり込んだ。
「追え! 逃がすな!」
怒号が背後で響く中、ギルベルトは地下の秘密通路を無我夢中で駆け抜けた。
息が切れ、心臓が破裂しそうになっても足を止めない。
(死ぬ……私が、この私が処刑されるだと!? 冗談ではない! 誰のせいでこんな目に遭ったと思っているのだ!)
地上へ這い出たギルベルトは、裏路地に待機させていた馬車へと飛び乗った。
そこには、彼が横領した金で雇い集めていた、闇ギルドの傭兵部隊の隊長が待っていた。
顔に無数の傷痕を持つ、凶悪なならず者たち。
「手筈通りだ、北方へ向かえ!」
ギルベルトは泡を吹きながら叫んだ。
「アルスヴァン砦を急襲する! あの小娘、アリアを捕らえるのだ!」
「おいおい、相手は黒竜騎士団だぞ。いくら金をもらっても割に合わねえ」
傭兵隊長が嫌な顔をすると、ギルベルトは懐から宝石の詰まった革袋を叩きつけた。
「倍払う! 砦の裏手には、冬の間に使われない補給路がある! そこから夜陰に乗じて忍び込み、あの女を奪うだけでいい! あの女さえ手に入れば……あの女の首に縄をつけ、陛下の前で『すべてこの女が仕組んだ毒殺劇でした』と証言させれば、私は助かるのだ! 私の薬師としての名誉も取り戻せる!」
狂気だった。
すでに破綻しきった、哀れな愚者の妄執。
だが、追い詰められた獣ほど、何をしでかすか分からない危険を孕んでいた。
数十頭の軍馬が、闇に紛れて帝都の北門を疾走していった。
復讐と保身に狂った刃が、雪解けの北方へと向けて放たれたのだった。
◆ ◆ ◆
数日後の夜、アルスヴァン砦の調合室には、静かなハーブの香りが満ちていた。
アリアは作業台の上に、昼間レオンハルトから贈られた銀の薬入れを置いていた。
ランプの灯火を浴びて、中央の青い氷晶石が優しく瞬いている。
中には、温室で採取した雪割草から抽出した、最高純度の解毒粉末が大切に納められていた。
(もしもの時、閣下を守れるように)
竜血の発作が再び起きた時、あるいは戦場で傷を負った時。
この薬が、彼の命を繋ぐ防壁になるようにと祈りを込めて調合したものだった。
突然、砦の正門の方角から、空を裂くような鋭い金属音が響いた。
続いて、夜の静寂を破る警鐘の乱打。
アリアは顔色を変え、薬入れを握りしめて立ち上がった。
廊下を走る、無数の軍靴の音。
いつもの整然とした足音ではない。
怒号と、剣戟の交わる激しい摩擦音が、冷たい石壁を伝って響いてくる。
部屋の扉が乱暴に開け放たれた。
現れたのは、息を切らし、抜刀した剣を血で濡らしたカイルだった。
「アリア様! 動かないでください!」
「カイル様!? 一体何が起きたのですか!」
「敵襲です! 裏手の補給路から、武装した傭兵の一隊が砦内へ侵入しました! 先頭にいるのは……王都の宮廷薬師、ギルベルトです!」
「ギルベルト様が……!?」
アリアの背筋に、氷水を浴びせられたような戦慄が走った。
「奴らの狙いはアリア様です! アリア様を連れ去るために、放火しながら居住区へ向かってきています! 閣下が中庭で迎撃の指揮を執っておられますが、敵の数が多く、混戦になっています!」
「そんな……私のために、砦が……」
アリアの顔から血の気が引いた。
恐れていたことが、最悪の形で現実になってしまった。
自分の存在が、この温かい場所を戦火に巻き込んでいる。
砦の兵士たちが、自分のせいで血を流している。
(私が、出て行けば)
アリアの足が、無意識に出口へと向かいかけた。
「行かせん」
背後から響いた、鋼のような声。
振り返ると、廊下の暗がりからレオンハルトが歩み寄ってくるところだった。
黒鉄の甲冑には返り血が飛び散り、漆黒の刀身からは煙のような黒い魔力が立ち上っている。
その青い瞳は、侵入者への怒りで激しく燃え盛っていた。
「閣下……! ギルベルト様の目的は私です! 私さえ引き渡せば、砦の皆さんが傷つく必要は――」
「ばか者が!」
レオンハルトの一喝が、調合室を震わせた。
彼は大股で歩み寄ると、アリアの細い肩を両手で強く掴んだ。
その瞳には、かつてないほどの激しい怒りと、それを上回る悲痛な光が宿っていた。
「お前を差し出すだと? 誰のために、何のためにだ!」
「ですが、私のせいでこの砦が――」
「この砦は、お前を守るためにある!」
レオンハルトの声が、アリアの胸を真っ直ぐに貫いた。
「私の命を救い、兵たちの命を繋ぎ、凍てつくこの地に光をくれたお前を、生贄のように差し出して生き残るなど……アルスヴァン家の名が廃る! お前を奪おうとする者は、たとえ帝国の全軍であろうと、私がこの手で叩き斬る!」
「閣下……」
アリアの瞳から、堪えきれなくなった涙がこぼれ落ちそうになった。
守られることの重み。
向けられる想いの深さ。
それが、アリアの凍てついた諦観を、内側から激しく溶かしていく。
砦の窓の外が、赤く染まっていた。
中庭から上がる炎の粉と、男たちの雄叫び。
狂気のギルベルトと、彼を迎え撃つ黒竜騎士団。
北方の夜を切り裂く決戦の火蓋が、いま完全に切って落とされた。




