第8話「王都の使者と黒竜の怒号」
それから数日後の朝、砦の警鐘が重々しく二度、鳴り響いた。
魔獣の襲撃を告げる乱打ではない。
外部からの公的な来訪者を告げる合図だった。
アリアが調合室の窓から外を覗くと、砦の重い正門をくぐり抜けてくる一隊の姿があった。
泥濘にまみれた豪華な馬車と、帝室の紋章を掲げた白銀の鎧をまとう近衛兵たち。
その胸元には、中央魔導薬師研究所の印である黄金の天秤が輝いていた。
(王都から……?)
胸騒ぎが走った。
アリアは急いで身なりを整え、本館の大広間へと向かった。
広間に入ると、すでに張り詰めた空気が満ちていた。
玉座のような上座の椅子には、黒鉄の甲冑を着込んだレオンハルトが冷徹な表情で腰を下ろしている。
その両脇には、バルツ副長をはじめとする歴戦の騎士たちが、柄に手をかけたまま仁王立ちしていた。
そして広間の中央には、毛皮の襟巻きを巻いた肥満体の男が、不快そうに鼻を鳴らして立っていた。
中央魔導薬師研究所の監察特使、モルガン卿だった。
ギルベルトの腹心として、王都で数々の不正をもみ消してきたと噂される悪名高き官僚だ。
「……ようやく姿を現したか、泥棒猫め」
アリアが入ってきたのを認めるなり、モルガンは脂ぎった顔を歪め、嘲笑を浮かべた。
「アリア・レンフィールド。国家反逆および重要機密横領の容疑で、貴様の身柄を拘束する。神妙に縄を受けよ」
モルガンが合図すると、背後の近衛兵二名が金属の足音を響かせてアリアへと歩み寄ろうとした。
「動くな」
低く、地を這うような声が広間に響き渡った。
上座に座るレオンハルトの言葉だった。
その一言だけで、踏み出しかけた近衛兵たちの足がピタリと止まった。
部屋の温度が数度下がったかのような錯覚を覚えるほどの威圧感。
「ここはアルスヴァン領だ。私の許可なく、我が砦の者に手を触れることは何人たりとも許さん」
レオンハルトは肘掛けに置いた指先を微かに動かした。
「帝都の特使が、何の用だ。くだらん言いがかりなら、即刻叩き出すぞ」
モルガンは怯む素振りを見せ、唾を飲み込みながら羊皮紙を広げた。
「閣下、これは皇帝陛下の御名による公式の召喚状です! その女は、研究所を追放される直前、代々伝わる秘薬『天上の雫』の調合秘伝書を盗み出し、調合槽に呪詛を仕掛けて逃亡したのです! そのせいで今、帝都の霊薬は腐敗し、陛下のご体調にも障りが出ている! 国家の危機を救うため、この女を帝都へ連れ戻し、秘伝書の在処を吐かせねばならんのです!」
並べ立てられた出鱈目な罪状に、広間にいた騎士たちから怒りのざわめきが上がった。
バルツが剣の柄を鳴らし、一歩前に出ようとするのを、レオンハルトが手振りで制した。
アリアは静かに前へ歩み出た。
モルガンの醜悪な視線を真っ向から受け止め、一切の動揺を見せずに口を開く。
「モルガン卿、質問がございます」
「何だ、罪人の分際で!」
「私が盗んだとされる『天上の雫』の秘伝書は、研究所の最奥、三重の魔法結界が施された宝物庫に保管されていたはずです。魔力を一切持たず、結界に触れることすらできない見習いの私が、どうやってその鍵を開けたとおっしゃるのですか」
モルガンの言葉が詰まった。
「そ、それは……何らかの不正な道具を使い――」
「それに、調合槽への呪詛についてですが」
アリアは淡々と、しかし澱みなく言葉を重ねた。
「モルガン卿。魔導調合における呪詛の定義をご存知ですか? 術者の魔力波長を対象の触媒に固定化し、持続的な『エーテル浸透』を引き起こす現象です。魔力係数がゼロである私に、どうやって三重の結界内部の環境マナを書き換えろと? ギルベルト様が失敗したのは呪詛ではありません。冬至を過ぎた星見草の水分含有率の変化を見落とし、魔力触媒の臨界点を突破させて自壊を引き起こした、ただの『初歩的な計量ミス』です。皇帝陛下への献上薬の調合において、そのような基礎的な確認を怠ったことが、今回の事態を招いたのだと思います」
真理を追究する魔導の法理に照らし合わせれば、それは天が地へ落ちるのと同じくらい不可能な事象だった。
アリアは懐から、一冊の小さな手帳を取り出した。
王都にいた頃から毎日欠かさず記録していた、調合の温度、湿度、そして素材の配合記録の写しだった。
「ギルベルト様が、素材の比率を間違えているだけではありませんか? 星見草の採取時期が冬至を過ぎていた場合、魔力の反発を防ぐために銀葉草の割合を二割増やさねばなりません。ギルベルト様は過去三年、その調整をすべて私に丸投げし、ご自身では配合の補正を一度もなさっていませんでした。私が抜けたことで、彼自身の知識不足が露呈しただけです」
「な、何をばかなことを! 名門ハインツ家の筆頭薬師が、貴様のような落ちこぼれに頼っていたなどと、そのような世迷い言が通ると思うのか!」
モルガンは顔を真っ赤にして喚き散らした。
痛いところを突かれた人間の、見苦しい逆上だった。
事実、ギルベルトはアリアが抜けて以来、一度として薬を完成させられずにいたのだ。
「もうよい、言い訳は王都の地下牢で聞く! おい、引っ立てろ! 抵抗するなら手足をへし折っても構わん!」
モルガンの怒声に応じ、近衛兵が腰の剣を抜き放ち、アリアへ向かって突進した。
その瞬間だった。
鋭い金属音が大広間に炸裂した。
閃光のような速度で宙を薙いだ漆黒の刀身が、近衛兵の眼前、石造りの床へと深々と突き刺さった。
踏み込んだ近衛兵の切っ先が、わずか数寸のところで止められる。
衝撃波で石床に亀裂が走り、細かい破片がモルガンの頬をかすめて血をにじませた。
「ひっ……!?」
モルガンが悲鳴を上げて尻餅をついた。
上座から、レオンハルトがゆっくりと立ち上がっていた。
彼の手から放たれた長剣が、床に突き刺さり、不気味な黒い魔力をまとって微かに震えている。
その青い双眸には、凍土の猛吹雪よりも冷徹な、純粋な殺気が宿っていた。
「私の言葉が聞こえなかったようだな」
レオンハルトが一歩踏み出すたびに、広間の空気が軋みを上げる。
常人を震え上がらせる、黒竜の覇気。
「この女は、私の婚約者だ。そして、アルスヴァン砦の全軍の命を預かる筆頭調合師だ。王都の無能どもが己の過失を誤魔化すために、私の妻を泥棒呼ばわりするなど……万死に値する」
「ひ、閣下……! これは皇帝陛下の名による――」
「皇帝の名を盾にするな!」
レオンハルトの怒号が、雷鳴のように広間を揺るがした。
「北方の国境を魔獣の血で守り続けてきた我らを愚弄するか! 帝都の温室で腐った薬しか作れぬ薬師どもの尻拭いなど、知ったことではない! アリアを連れて行きたくば、貴様らの全軍を率いてこの砦を攻め落としてみせろ!」
モルガンは恐怖のあまり歯をガチガチと鳴らし、言葉を失っていた。
近衛兵たちも、突き刺さった黒剣の威容と、レオンハルトの圧倒的な存在感の前に、完全に戦意を喪失していた。
「剣を拾い、疾風のように立ち去れ」
レオンハルトは床の剣を引き抜き、鞘へと納めた。
「帝都のギルベルトに伝えろ。アリアの指一本、髪の毛一本触れさせはしない。文句があるなら、自ら首を洗ってこの北方まで出向いてこい、とな」
「お、覚えていろ……! この反逆者どもめが……!」
モルガンは部下に担ぎ上げられるようにして、命からがら大広間から逃げ去っていった。
広間には、砦の兵士たちの地鳴りのような歓声が響き渡った。
だが、歓声の中心で、アリアはただ立ち尽していた。
守られた歓喜よりも、鉛のように重い自責の念が、彼女の胸を押し潰していた。
(私のせいで……)
レオンハルトが、自分のような一介の見習いのために、王都の中央政府と決定的な敵対関係を選んでしまった。
もしこれが帝室への反逆と見なされれば、この砦の全員が危機に晒されることになる。
「アリア」
歩み寄ってきたレオンハルトが、彼女の肩に優しく手を置いた。
「怪我はないか」
どこまでも穏やかな、慈しみに満ちた声。
その優しさが、今の痛ましいアリアには何よりもつらかった。
「……はい。閣下、申し訳ありません……私のせいで、このような騒ぎに……」
「謝るな」
レオンハルトは力強く首を振った。
「言ったはずだ。お前の価値を理解できぬ連中の戯言に、耳を貸す必要はない。私が、お前を守る」
真っ直ぐな誓いの言葉。
だがアリアは、あふれそうになる感情を必死に押し殺し、深く頭を下げることしかできなかった。
(私は、ここにいてはいけない)
この人の未来を、この砦の平穏を守るためには。
期限が訪れたとき、跡形もなく消え去らなければならない。
決意の刃が、アリアの未熟な恋心を、容赦なく切り裂いていた。




