第7話「縮まる距離と雪割草の影」
柔らかな朝の光が、厚いカーテンの隙間から差し込んでいた。
アリアがまぶたを開けると、視界に飛び込んできたのは、暖炉の火が静かに燻る見知らぬ部屋の天井だった。
身体には何枚もの毛皮が掛けられ、指先まで心地よい温もりに包まれている。
身じろぎをすると、すぐ隣から衣擦れの微かな音が聞こえた。
「目が覚めたか」
低く落ち着いた声に、アリアは不意を突かれ、言葉を失って息を止めた。
長椅子のすぐ傍らの床に腰を下ろし、壁に背を預けていたレオンハルトが、こちらを見つめていた。
すでに黒いウールの上着を端正に着込み、乱れていた黒髪も整えられている。
昨夜の狂暴な熱波や、肌を裂くような赤黒い光はどこにも見当たらない。
その青い瞳は澄み渡り、疲労の影すら綺麗に消え去っていた。
「閣下……私、ずっとここで……」
アリアは慌てて身体を起こそうとした。
しかし、急激な動きに頭がふわりと揺れ、微かなめまいを覚える。
昨夜、レオンハルトの体内の熱をその身に引き受けた代償の脱力感が、まだ手足に残っていた。
「無理に動くな」
レオンハルトが静かに手を伸ばし、アリアの肩をそっと支えた。
その触れ方は驚くほど慎重で、昨夜アリアを強く抱きしめていた腕と同じものとは思えないほど穏やかだった。
「お前が夜通し力を注いでくれたおかげで、竜血の熱は完全に鎮まった。例年なら三日三晩は意識を失い、目覚めた後も半月は剣を握れんほどの痛みが残るのだが……今朝は、身体が羽のように軽い」
レオンハルトは自らの大きな手のひらを開閉し、かすかに眉を寄せた。
彼は、アリアの白くかじかんだ指先を見つめると、無言のまま自らの分厚い外套の裾を引き寄せ、彼女の小さな両手をすっぽりと覆い隠した。
彼の硬い顎の筋肉が微かに動き、視線は決して彼女の目を直視しようとしなかった。
「ゲルハルトに診せたら、奇跡だと騒ぎ立てていたぞ。だが……お前自身がこれほど消耗するとはな。私の業を、お前に背負わせてしまった」
「そんなことはありません」
アリアは首を横に振った。
「私の力は、乱れた魔力を平らに均すことしかできません。痛みを引き受けたのではなく、余計な熱の波長を散らしただけです。少し休めば、すぐに治まります」
自らを顧みないその言葉に、レオンハルトは小さくため息をついた。
彼は立ち上がると、卓の上に置かれていた小さな包みを取り上げ、アリアの膝の上に置いた。
「開けてみろ」
柔らかな油紙の包みを開くと、中から現れたのは、丹念になめされた白銀の毛皮で作られた一対の手袋だった。
内側には上質な羊毛が隙間なく敷き詰められ、手首の部分には繊細な銀の留め具があしらわれている。
手作業で丁寧に縫い上げられたことがひと目でわかる、頑丈で美しい品だった。
「これは……?」
「北方の白銀狐の毛皮だ。風を通さず、どれほど冷たい薬草に触れても指先が冷えん。お前の手は、他人のために酷使されすぎている。調合師の道具として受け取れ」
ぶっきらぼうな口調だったが、その瞳には嘘のない気遣いが宿っていた。
アリアは恐る恐る手袋に指を入れた。
吸い付くような柔らかさと、じんわりと広がる熱。
王都の研究所では、寒風吹きすさぶ洗い場で、赤く腫れ上がった手に霜焼けを作りながら作業するのが当たり前だった。
道具としてではなく、一人の人間として、自分の手を気遣ってくれる誰かがいる。
肋骨の内側に冷たい鉛を流し込まれたような重苦しさが広がり、無意識に手袋の革を強く握りしめた。
「……ありがとうございます、閣下。大切に使わせていただきます」
アリアが頭を下げると、レオンハルトは満足そうに短くうなずいた。
「動けるようになったら、見せたい場所がある。支度ができたら中庭へ来い」
昼下がり、雪解け水が屋根の庇から規則正しく滴り落ちていた。
気温はまだ氷点下に近かったが、風がなく、陽射しには微かな春の予感が混ざり始めている。
アリアが厚手の外套を羽織って中庭へ向かうと、レオンハルトが砦の北側の頑丈な石造りの建物の前で待っていた。
長年使われていなかったのか、重い鉄の扉には錆が浮いていたが、真新しい油が差され、閂が外されていた。
「ここは以前、先々代の領主が作らせた温室だ。山からの地熱を引き込んである」
レオンハルトが扉を押し開けると、中から湿り気を帯びた温かな空気が流れ出してきた。
石造りの壁の足元には、温泉の蒸気を通す陶器の管が張り巡らされ、外の厳寒が嘘のように穏やかな温度が保たれている。
荒れ果てていたはずの土壇は、兵士たちの手によって綺麗に耕され、黒々とした土が整然と盛られていた。
そして、その土の片隅に、淡い青紫色の小さな花がひっそりと咲いていた。
「雪割草……」
アリアは思わず駆け寄り、しゃがみ込んだ。
肉厚の緑の葉の隙間から、雪を割って顔を出したような、小さくも力強い花弁。
厳しい寒さを耐え抜いた土壌でしか育たない、解毒と滋養の極めて高い薬効を秘めた北方固有の薬草だった。
「兵たちに命じて、南の斜面から自生していたものを根ごと掘り出させた。王都から届く薬に頼れぬ以上、この砦で薬草を一から育てる必要がある。お前に、この温室の管理を任せたい」
レオンハルトが、アリアの隣に立って見下ろしていた。
「お前の好きなように使え。必要な資材や種があれば、商隊を手配する」
「私に、ここを……?」
アリアは土に触れた。
温かな土の感触。
指先から、大地の底に眠る植物たちの微かな生命の息吹が伝わってくる。
誰かに搾取されるためではなく、この砦で生きる人々のために、自分の手で命を育み、薬を紡ぎ出すことができる。
それは、アリアがずっと夢見ていた、けれど決して口にしてはならないと諦めていた光景そのものだった。
「お前が来てから、砦が変わった」
レオンハルトの静かな声が、温室の静寂に溶け込んでいく。
「兵たちは怪我を恐れなくなり、医官のゲルハルトは毎日のように調合の記録を嬉しそうに読み返している。麓の村人たちからも、お前の作った軟膏への感謝として、干し肉や蜂蜜が届くようになった。お前は、この過酷な北方の地に、光をもたらしたのだ」
「私は……ただ、当たり前のことをしただけで……」
アリアはうつむき、手袋をはめた自らの両手を握りしめた。
褒められるたびに、感謝されるたびに、胸の奥で温かい喜びと同時に、冷たい刃のような痛みが走る。
(契約の期限まで、あと一ヶ月半)
すでに半分の日数が過ぎ去っていた。
春が来て、雪が解ければ、この偽装婚約の契約は終わる。
レオンハルトが用意してくれた報奨金と身分証を受け取り、アリアはこの砦を出て行かなければならない。
それが、最初に交わした約束だった。
(ここにいたい)
ふと心に浮かんだ願いに、アリアは身震いした。
望んではいけない。
自分はただの身代わりであり、傷ついた彼の一時的な避難所にすぎないのだ。
この温もりに甘え、居場所を求めてしまえば、去る時の痛みに耐えられなくなってしまう。
アリアは感情を押し殺すように深く息を吐き、静かに立ち上がった。
「温室の整備、全力を尽くします。春までに、兵の皆さんが使う常備薬の原料を、ここで自給できるようにしてみせます」
営業用のような、整った一礼。
レオンハルトはそんなアリアの横顔を、じっと見つめていた。
その青い瞳の奥に、わずかな影が差したのを、アリアは気づかないふりをした。




