第6話「竜血の宿命と孤独の吐露」
夜が更けるにつれ、砦を包む静寂は異様な重苦しさを帯びていった。
アリアは自室の寝台に横たわっていたが、どうしても眠りにつくことができなかった。
頭から毛布を被っても、昼間にバルツが見せた暗い表情が瞼の裏に焼き付いて離れない。
あの冷徹で頑強なレオンハルトが、一人で耐えている何か。
(私には、関係のないこと)
そう言い聞かせようとしても、あの日、救護所でアリアの手を包み込んだ彼の温もりが蘇る。
『二度と命を捨てるような真似はするな』
そう言ったときの、彼の苦痛に満ちた瞳。
突然、上の階から微かな物音が響いた。
重いものが床に倒れ伏すような、鈍い衝撃。
続いて、獣の唸り声にも似た、押し殺された呻き声が聞こえた。
アリアは跳ね起き、外套を羽織って部屋を飛び出した。
冷え切った石の階段を駆け上がる。
最上階の廊下には、ゲルハルト医官が数名の衛兵とともに立ち尽くしていた。
頑丈な鉄張りの扉の前で、全員が青ざめた顔で立ち往生している。
「ゲルハルト様! 一体何が起きているのですか!」
アリアが駆け寄ると、ゲルハルトは驚いて振り返った。
「アリア様! 来てはなりません! ここは危険です!」
「部屋の中で、閣下が苦しまれているのではありませんか!」
「……竜血の発作です」
ゲルハルトは苦渋に満ちた声で吐き捨てた。
「代々のアルスヴァン家が背負う呪い……かつて北方の守護竜を討ち果たした際、その血をその身に宿した代償です。厳冬期になると、体内の竜血が暴走し、内側から肉体を焼き焦がすほどの高熱を発する。近づけば、漏れ出る魔力の熱波で常人なら皮膚が爛れてしまうのです!」
「治療法はないのですか!?」
「ありません! 神殿の解呪魔法も、王都の最高級霊薬も一切効かない! ただ、閣下ご自身の強靭な生命力で、熱が引くまで耐えていただくしかないのです……!」
扉の向こうから、再び激しい苦悶の声が漏れた。
爪で石壁を削り取るような、絶望的な音。
男が一人で、その身を苛む業火と戦っている。
(耐えるしかないなんて、そんなこと……)
アリアは自らの手のひらを見つめた。
魔力波長をゼロにする手。
あらゆる暴走を凪へと還す、自分の力。
(ただ混ぜるだけではない。魔力とは不規則な振動だ。ギルベルト様が注ぎ込む過剰な魔力波長は、常に素材の飽和限界を突破し、薬効を破壊していた。私がやっていたのは、その余剰な魔力の乱れを自らの肉体を通してゼロに調律し、強制的に薬液を安定させることだけだった)
それがどれほど異常な魔力制御の極致であるかを、アリア自身はまだ理解していなかった。
「鍵を開けてください」
「な、何を言っているのです! 焼け死ぬ気ですか!」
「私は死にません。私には、魔力を中和する体質があります」
アリアはゲルハルトの制止を振り切り、扉の閂に手をかけた。
「閣下は、私の手を必要だと言ってくださいました。私の手で、人を救えると信じてくださいました。ならば今、私がその手を使わずに、誰が閣下をお救いするのですか!」
凛とした声には、一切の迷いがなかった。
衛兵たちが気圧されて道を空ける。
アリアは深呼吸を一つし、重い鉄張りの扉を押し開けた。
部屋の中に踏み込んだ瞬間、熱風がアリアの頬を打った。
まるで溶鉱炉の前に立ったかのような、肌を焼く熱気。
家具は薙ぎ倒され、床には砕けた陶器や引き裂かれた書類が散乱していた。
そして部屋の奥、壁際にもたれかかるようにして、一人の男がうずくまっていた。
レオンハルトだった。
上着は引き裂かれ、露出した胸元から首筋にかけて、血管が真っ赤に発光していた。
皮膚の下を溶岩が流れているかのように、赤黒い光が脈動している。
彼の息は火を吹くように荒く、額からは滝のような汗が流れ落ちていた。
「……来るな……!」
レオンハルトが、濁った声で絞り出した。
その青い瞳は熱病のように充血し、焦点が合っていない。
「下がれ……アリア……殺してしまう……私に、近づくな……!」
彼は自らの爪を胸元に食い込ませ、激情を抑え込もうとしていた。
肉体が内側から引き裂かれる激痛に、全身の筋肉が小刻みに痙攣している。
アリアは逃げなかった。
熱波に髪を揺らされながら、一歩、また一歩と真っ直ぐに歩み寄る。
「閣下」
「聞こえないのか……! 私は、呪われた竜の血を引く化け物だ……! お前のような脆弱な人間など、触れるだけで灰になるぞ……!」
男の言葉は、拒絶の形をとった悲鳴だった。
誰にも見せたくなかった弱さ。
守るべき民の前で、決して晒してはならなかった無様な姿。
それを今、最も見られたくなかった相手の前に晒している屈辱と恐怖。
アリアは彼の前にひざまずいた。
そして、ためらうことなく、両手を伸ばした。
「アリア――!」
レオンハルトの叫びを遮るように、アリアの冷たい両の手のひらが、彼の赤く発光する胸元へと直接押し当てられた。
じゅっと、皮膚が焼けるような嫌な音が響く。
手のひらに走る激痛に、アリアは小さく顔を歪めた。
だがアリアは手を引かなかった。
それどころか、身を乗り出し、火のように熱い男の身体を両腕でしっかりと抱きしめた。
「……っ、熱い……ですが、離しません」
アリアは歯を食いしばり、自らの胸の奥の力を呼び覚ました。
純化調律。
すべてを無に還す、静謐なる力。
(鎮まりなさい。この人を、苦しめないで)
アリアの身体から、目に見えない透明な波紋が幾重にも広がっていく。
彼女の小さな身体が、レオンハルトの体内から溢れ出る狂暴な竜血の熱を、スポンジが水を吸い上げるように受け止めていく。
アリア自身の背中を冷や汗が伝い、肋骨の内側に冷たい鉛を流し込まれたような重苦しさが広がる。
身体の芯が焼けつくように痛い。
だが、腕に込める力は決して緩めなかった。
発光していたレオンハルトの血管の光が、徐々に弱まり始めた。
赤黒い脈動が収まり、肌の色が元の白い肌へと戻っていく。
男の荒い呼吸が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「あ……ぁ……」
レオンハルトの口から、掠れた吐息が漏れた。
暴れ狂っていた体内の業火が、アリアの腕の中で、静かに鎮火していく。
激痛から解放された彼の巨体から、完全に力が抜けた。
レオンハルトの頭が、アリアの細い肩へと力なく倒れかかる。
彼の額の熱い汗が、アリアの首筋を濡らした。
「……なぜだ……」
耳元で、弱々しい声が響いた。
あの冷徹な辺境伯の面影はどこにもない。
傷つき、疲れ果てた一人の男の声だった。
「なぜ、逃げない……お前まで、死ぬぞ……」
「逃げません」
アリアは彼の背中にそっと手を回し、優しくなでた。
子供をあやすように、静かに、一定のリズムで。
「私は、あなたの調合師です。そして……あなたの婚約者ですから」
契約と言う言葉を、アリアはあえて飲み込んだ。
今この瞬間に必要なのは、冷たい取り決めではなく、ただ体温を分かち合うことだけだと分かっていたからだ。
レオンハルトの大きな手が、震えながらアリアの背中の外套を掴んだ。
縋り付くように、布地を強く握りしめる。
「……置いていくな」
掠れた声が、アリアの胸を貫いた。
「一人にするな……アリア……私を、暗闇の中に置いていかないでくれ……」
それは、強大な武力と地位を持つ男が、生まれて初めて他人に漏らした本音だった。
ずっと一人で背負い続けてきた呪い。
誰も近づけず、誰も助けてくれなかった、凍てつく冬の孤独。
アリアの目頭が、熱くなった。
「はい。ここにいます」
アリアは抱きしめる腕に力を込めた。
「どこへも行きません。夜が明けるまで、ずっとここにいますから」
レオンハルトの手の力が、少しずつ緩んでいった。
安らかな寝息が、アリアの肩口に吹きかかる。
男は長い緊張の糸を解き、深い眠りの中へと落ちていった。
散乱した部屋の中、薄明かりの中で寄り添う二人。
アリアは眠るレオンハルトの黒髪をそっと撫でながら、窓の外の暗闇を見つめていた。
(私は、この人の力になりたい)
契約だからではなく。
身代わりだからでもなく。
ただ、この孤独な男の痛みを、少しでも和らげてあげたい。
その想いが、アリアの胸の奥で、小さな灯火のように灯っていた。




