第5話「暴かれた不在の重み」
帝都の天蓋を覆う冬の雲は、重苦しい鉛色をしていた。
中央魔導薬師研究所の最上階、豪華な絨毯が敷き詰められた会食室に、陶器が粉々に砕け散る乾いた音が響き渡った。
「弁解は聞き飽きたぞ、ギルベルト卿!」
怒声を浴びせたのは、帝室の健康管理を統括する主席侍従長、ボルドー伯爵だった。
磨き上げられた黒檀の長机の向こうで、白髪の老貴族が鋭い眼光で睨みつけている。
絨毯の上には、割れた硝子瓶から流れ出した黒い液体が染みを作り、鼻を刺す硫黄のような悪臭を放っていた。
「これが、皇帝陛下に献上するはずだった『天上の雫』か? ただの濁った泥水ではないか! 先代の陛下より続く霊薬の調合を、貴様は一体何だと思っているのだ!」
ギルベルトは金糸の刺繍が入った法衣の裾を泥濘で汚すまいと引き寄せながら、深く頭を下げていた。
額からは脂汗が絶え間なく流れ落ち、床の絨毯へと染み込んでいく。
「も、申し訳ございません、侍従長閣下……! しかし、これは私の過失ではございません! 先日追放いたしました見習いのアリアが、退去の直前に保管庫の触媒へ呪詛の細工を施していったのです! その悪意が今になって現れ、調合槽全体を汚染して――」
「見苦しいぞ!」
侍従長は机を拳で激しく叩いた。
「アリア・レンフィールドと言えば、魔力を一切持たぬ落ちこぼれとして貴様が地下牢へ放り込んだ小娘ではないか! 魔力を持たぬ者に、どうやって最高級の魔導触媒へ呪詛を刻むことができるのだ! 筋の通らぬ嘘を申すな!」
ギルベルトの喉がひきつった。
返す言葉が見つからない。
魔力がないからこそ、全責任を押し付けて地下牢へ放り込んだのだ。
その設定が、今になって自らの首を絞める縄となって跳ね返ってきていた。
「次の満月までだ」
侍従長は冷たく言い放ち、立ち上がった。
「次の満月までに、完全な状態の『天上の雫』を陛下へ献上せよ。もし叶わぬ時は、ハインツ伯爵家の宮廷薬師職の剥奪、および所領の査察を行う。帝室を謀った罪、一族郎党の首が飛ぶと心得よ」
重い扉が叩きつけられるように閉じられ、部屋にはギルベルト一人だけが取り残された。
ギルベルトは膝から崩れ落ち、荒い呼吸を繰り返した。
爪が手のひらに食い込むほど、拳を強く握りしめる。
(なぜだ……なぜできない!? あの女がいなくなっただけだぞ! ただの雑用係が一人消えただけで、なぜすべての霊薬が腐るのだ!)
ギルベルトには、どうしても理解できなかった。
かつてアリアが毎日、夜明け前に一人で調合室を清掃していたこと。
棚に並ぶ数百種類の薬草を、その指先で触れて湿気と灰汁を抜き、魔力の乱れを均一に整えていたこと。
ギルベルトが雑に注ぎ込んだ過剰な魔導触媒の残滓を、彼女が素手で濾過し、奇跡的な調和へと導いていたこと。
それらすべてを『自分の才能』だと信じ込んでいた男にとって、現実の崩壊はあまりにも唐突で、不条理に思えた。
「ギルベルト様……」
恐る恐る部屋に入ってきたのは、研究所の副主任だった。
「近衛騎士団からも苦情が届いております。納品された止血剤を塗った兵の傷口が爛れ、高熱を出したと……回収を命じられました」
「黙れ! 回収などするな! 使い方が悪かったのだと言い張れ!」
ギルベルトは喚き散らしたが、その瞳には隠しようのない恐怖が渦巻いていた。
すでに帝都の貴族たちの間でも、研究所の薬の変質は噂になり始めていた。
ギルベルトが築き上げてきた名声という砂の城が、足元から音を立てて崩れ去ろうとしていた。
◆ ◆ ◆
一方、吹雪が去ったアルスヴァン砦には、澄み切った青空が広がっていた。
切り立った城壁に積もった新雪が、陽光を浴びて銀色に輝いている。
中庭では、兵士たちが威勢のいい掛け声を上げながら、雪かきと訓練に汗を流していた。
「アリア様! こちらへどうぞ!」
調合室から渡り廊下へ出たアリアに、朗らかな声がかかった。
駆け寄ってきたのは、右腕の傷が綺麗に塞がったカイルだった。
彼はすでに軽装の鎧を身につけ、腰に訓練用の木剣を下げている。
「カイル様、もう腕を動かしても大丈夫なのですか」
「はい! アリア様の軟膏のおかげで、引きつりも痛みもまったくありません! ほら、この通りです!」
カイルが腕をぐるぐると回して見せると、周囲にいた他の騎士たちからも笑い声が上がった。
彼らの手首や首元には、アリアが調合した凍傷除けの白いクリームが薄く塗られている。
「本当に助かっているよ、アリア嬢」
背後から声をかけてきたのは、副長のバルツだった。
あの猛吹雪の夜、死の淵にいた巨漢の男は、今や以前と変わらぬ血色を取り戻し、堂々と立っていた。
胸元に走る傷痕はまだ痛々しいが、毒の気配は完全に消え去っている。
「例年なら、この時期は凍傷で指を落とす兵や、寒さで肺をやられる兵が何十人も出たものだ。だが今年は、お前の薬のおかげで脱落者が一人も出ていない。砦の飯が美味く食えるのは、お前のおかげだ」
バルツは太い腕組みをし、厳つい顔をほころばせた。
その真っ直ぐな感謝の言葉に、アリアは気恥ずかしさでうつむいた。
「私は……皆さんが集めてくださった素材を、決まり通りに混ぜただけです。お礼を言われるようなことでは」
「またそうやって自分を小さく見せる」
カイルが不満そうに口を尖らせた。
「砦のみんなは知っていますよ。アリア様が毎日、夜遅くまで調合室の明かりを灯して、一つ一つの薬瓶を丁寧に確かめていること。僕たちの命を、誰よりも大切にしてくれていることくらい、鈍感な兵士だって分かります」
「カイルの言う通りだ」
バルツが深くうなずいた。
「お前はもう、この砦の立派な一員だ。誰一人として、お前を身代わりなどと思っておらんよ」
砦の仲間たちから向けられる温かい視線に、アリアの胸の奥が微かに熱くなった。
王都にいた頃は、どれほど働いても罵倒と嘲笑しか返ってこなかった。
誰かの役に立ち、その命を救い、こうして笑顔を向けられること。
それがこれほどまでに心を震わせるものだとは、知らなかった。
(でも、私は三ヶ月の契約でここにいる)
ふと頭をよぎる事実に、肋骨の内側に冷たい鉛を流し込まれたような重苦しさが広がり、無意識に白銀狐の手袋を強く握りしめていた。
爪が柔らかな革に食い込む鈍い感触だけが、かろうじて彼女を現実に繋ぎ止めていた。
春が来れば、この温もりから離れなければならない。
自分はここにずっといていい人間ではないのだと、冷たい理性が囁きかけてくる。
「ところで、バルツ副長……閣下のお姿を、今朝からお見かけしないのですが」
アリアが尋ねると、バルツの表情がわずかに曇った。
歴戦の戦士の顔に、隠しきれない懸念の色が走る。
「……ああ。閣下は、執務室に籠もっておられる。立ち入りは禁じられている」
「ご体調が悪いのでしょうか」
「いつものことだ。冬の深まるこの時期、閣下はお一人で耐えねばならん試練がある。誰も手出しはできんのだ」
バルツはそれ以上語ろうとせず、無理に作ったような笑みを浮かべて部下たちの訓練へと戻っていった。
アリアは一人、中庭に残された。
見上げる先にあるのは、砦の最上階、レオンハルトの私室がある黒い石の尖塔だった。
窓は厚いカーテンで閉ざされ、暖炉の煙突からも煙が上がっていない。
(耐えねばならん試練……?)
胸の奥に、ざらりとした不安が広がっていくのを、アリアは抑えることができなかった。




