第4話「吹雪の夜の熱と誓い」
山から吹き下ろす地吹雪が、砦の外壁を激しく叩きつけていた。
風の咆哮は夜が更けるにつれて激しさを増し、頑丈な石造りの部屋にいても、窓枠がかすかに震えるのが分かった。
気温は急速に低下し、室内の暖炉に薪をいくら焚べても、部屋の四隅からは冷気がじわじわと這い寄ってくる。
アリアは調合室の作業台で、ランプの灯りを頼りに作業を続けていた。
すり鉢の中で、薬草の粉末が静かに混ざり合っていく。
この三日間、アリアはほとんど眠らずに常備薬の調合に没頭していた。
手の荒れは、レオンハルトから渡された軟膏のおかげで綺麗に治まり、指先はかつてないほど軽快に動いていた。
(まずは凍傷用の軟膏が五十壺。気管を広げる吸入薬が三十本)
完成した薬瓶が、棚の上に整然と並んでいく。
自分の調合した薬が、確実に誰かの役に立つ。
その実感が、疲れを忘れさせていた。
突然、砦の警鐘が鳴り響いた。
乱打される鐘の重い金属音が、猛吹雪の風音を切り裂いて調合室まで届く。
続いて、中庭のほうから兵士たちの緊迫した叫び声が上がった。
「哨戒第二小隊が帰還! 重傷者あり!」
「担架を持ってこい! 急げ!」
アリアは弾かれたように、反射的に調合室を飛び出した。
救護所へ駆け込むと、そこは阿鼻叫喚の様相を呈していた。
雪まみれの外套を着た騎士たちが、血を流しながら壁際にもたれかかっている。
そして部屋の中央の台の上には、一人の屈強な男が横たわっていた。
黒竜騎士団の副長を務める、歴戦の剛勇で知られるバルツだった。
「副長! しっかりしてください!」
同僚の騎士たちが呼びかけるが、バルツの巨体は痙攣を繰り返し、唇は青黒く変色していた。
胸当てを外された彼の胸部には、異様な傷口があった。
氷の槍で穿たれたような刺し傷の周りから、黒紫色の結晶のようなものが皮膚を侵食し、蜘蛛の巣のように血管を伝って広がっている。
「……凍氷蜘蛛の猛毒だ」
駆けつけてきたレオンハルトが、厳しい声音で言った。
彼の甲冑にも薄く雪が積もっており、先ほどまで自ら外壁の指揮を執っていたことが窺える。
だが、その表情に寒さを感じる気配は微塵もなく、怒りを感じた彼の首筋の血管が微かに赤く明滅していた。
「ばかな……あの魔獣は、厳冬期の最深部にしか現れないはずだぞ」
ゲルハルト医官が、震える手で器具を揃えながら叫んだ。
「毒の結晶化が心臓に達したら終わりです! 既存の解毒薬では、この冷気魔力を帯びた毒を溶かせない! 患部を焼き切るしか……しかし、心臓に近すぎて焼き切ればショック死します!」
「方法はないのか」
レオンハルトの声が低く沈む。
ゲルハルトは顔を歪め、首を横に振った。
「私の手には負えません……高位の火系魔導士がいれば、あるいは……!」
砦に常駐する魔導士は、吹雪の防壁維持で魔力を使い果たしていた。
バルツの呼吸が、急速に細くなっていく。
皮膚の下を這う黒紫の結晶が、すでに喉仏のあたりまで不気味に這い上がっていた。
「下がってください」
静かな、だが凛とした声が救護所に響いた。
人混みを割り、アリアがバルツの横へと進み出た。
彼女の顔には、恐怖もためらいもなかった。
ただ、目の前で失われようとしている命に対する、強い集中だけがその瞳に宿っている。
「アリア、何をする気だ」
レオンハルトが彼女の腕を掴んだ。
その握力は強いが、アリアを傷つけまいとする加減が感じられた。
「この毒は、通常の薬草では分解できません。冷気の魔力が強すぎて、生薬の薬効を凍りつかせてしまうからです」
「ならばどうする」
「私の力を使います。毒の魔力波長を、私の身体を通して直接中和します」
その言葉に、ゲルハルトが息を呑んだ。
「ばかな! 魔力を持たない者がそんな魔獣の毒を直接受け止めれば、あなたの命が持ちませんぞ!」
「大丈夫です。私には、魔力を霧散させる体質がありますから」
アリアは小さく微笑んだ。
それは、嘘だった。
他者の魔力や毒素を直接引き受けることが、どれほどの苦痛を伴うか、アリア自身が一番よく知っていた。
研究所時代、ギルベルトが暴走させた薬品を素手で抑え込むたびに、アリアの身体には激しい熱と悪寒が走り、数日間の高熱に苦しめられてきたのだ。
だが、今ここで引けば、この男は確実に死ぬ。
自分を人間として受け入れてくれた砦の人々を、見殺しにすることなどできなかった。
「閣下、手を放してください」
アリアはレオンハルトの瞳を真っ直ぐに見つめた。
男の青い瞳が、苦悶に揺れるのをアリアは見逃さなかった。
冷酷なはずの男が、自分のような身代わりの少女のために、心を痛めている。
それだけで、命を賭ける価値は十分にあった。
レオンハルトの手が、ゆっくりと離れた。
「……死ぬな。私の命だ」
「はい」
アリアは深く息を吸い込み、両手の手のひらを、バルツの胸の傷口へと直接押し当てた。
その瞬間、凍りつくような冷気が、アリアの指先から腕へと一気に駆け上がった。
骨の髄まで凍結するような激痛。
血管の中をガラスの破片が流れていくような錯覚に、アリアの喉から声にならない悲鳴が漏れそうになる。
歯を食いしばり、必死に耐える。
(鎮まれ。元の無に還れ)
アリアは自らの内面深くへと意識を沈めた。
魔力波長をゼロにする力。
あらゆる不純な魔の力を、凪いだ湖面のように平らにならす力。
アリアの胸の中心から、透明な波紋が広がっていく。
黒紫色の結晶が、アリアの手のひらに触れた部分から、カチカチと音を立てて砕け始めた。
毒の魔力が中和され、ただの汚れた体液へと変化していく。
代わりに、アリアの顔色が急速に土気色へと変わり、唇が紫に染まっていく。
体温が奪われ、呼吸が浅くなる。
視界が白く霞み、周囲の音が遠のいていく。
(あと、少し……心臓の、手前まで……)
最後の一筋の毒素を自らの手のひらへと引き抜いた瞬間、バルツの口から大きな吐息が漏れた。
胸の紫の結晶が完全に消え去り、止まりかけていた心臓が、力強く脈打ち始めた。
「毒が……消えた……!?」
ゲルハルトの驚愕の声が、遠くの霧の向こうから聞こえた。
役目を終えたアリアの手が、力なくバルツの胸から滑り落ちる。
膝の力が抜け、身体が床へと倒れ込みそうになった。
だが、冷たい床に触れることはなかった。
強い腕が、倒れゆくアリアの身体を宙でしっかりと受け止めた。
硬い甲冑の感触と、暖炉よりも熱い体温。
レオンハルトが、彼女を抱き留めていた。
「アリア!」
男の張り詰めた声が、耳元で響く。
アリアは重いまぶたをわずかに持ち上げ、彼を見上げた。
いつも冷静沈着な男の顔が、見たこともないほど歪んでいた。
その瞳には、隠しようのない焦燥と、深い痛みが浮かんでいた。
「……副長様は、助かりました……」
かすれた声でそう告げると、アリアの意識は暗闇の中へと沈んでいった。
◆ ◆ ◆
目を覚ましたとき、肌を刺すような寒さは消え去っていた。
アリアは、柔らかな革の長椅子の上に横たわっていた。
身体の上には、何枚もの分厚い毛皮が重ねられ、すぐ隣では大きな暖炉が轟々と炎を上げていた。
部屋を見回すと、壁には大きな古地図と無数の剣が掛けられている。
ここはアリアの部屋でも救護所でもない。
砦の最上階にある、レオンハルトの執務室だった。
自らの指先を動かしてみる。
酷い脱力感と微熱はあるものの、凍りつくような冷気毒の感覚は綺麗に抜けていた。
「気がついたか」
暖炉の前の椅子から、低い声が届いた。
レオンハルトが、じっとアリアを見つめていた。
手元には書類の束があったが、ペンは置かれたままだ。
彼がずっと、アリアの目覚めを待っていたことが分かった。
「閣下……申し訳ありません、私、倒れてしまって……」
起き上がろうとするアリアを、レオンハルトは片手を挙げて制した。
「動くな。まだ体温が完全には戻っていない」
レオンハルトは立ち上がり、長椅子の脇に膝をついた。
そして、アリアの細い右手を、自らの両手で包み込んだ。
大きな、硬い手。
その熱が、冷え切っていたアリアの指先へと染み込んでいく。
「……なぜ、あそこまでした」
レオンハルトの声は、静かだった。
だが、その底には押し殺した感情が渦巻いている。
「お前は、三ヶ月の契約で雇われた身代わりの調合師にすぎない。自分の命を危険に晒してまで、他人のために戦う義務などないはずだ」
アリアは、包まれた彼の手を見つめた。
その温もりが心地よくて、引き抜くことができない。
「義務だからでは、ありません」
アリアは小さく息を整え、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「あの場所で、私を嘲笑う人はいませんでした。ゲルハルト様も、カイル様も、砦の皆さんも……私を、一人の人間として見てくれました。王都の研究所では、私は誰からも必要とされていませんでした。だから……私にできることがあるなら、命を救いたかったのです」
「お前を必要としていない奴など、この世にいるはずがない」
レオンハルトは遮るように言った。
その語気は強く、アリアの胸を真っ直ぐに貫いた。
「お前が己をどう思っていようと関係ない。お前のその手は、奇跡を起こす手だ。そして……二度と、私に断りなく命を捨てるような真似はするな。お前を失えば、私は――」
男は言葉を飲み込んだ。
その青い瞳の奥に、激しい後悔と、長い歳月にわたって押し殺されてきた何かが揺らめいていた。
レオンハルトはふっと視線を落とし、アリアの荒れた指先の古傷を親指でなぞった。
その触れ方は、あまりにも慎重で、まるで壊れやすい宝物を扱うかのようだった。
「……お前は、昔からそうだったのか」
「え……?」
「昔から、その手で……見返りも求めず、名も名乗らず、誰かを救ってきたのか」
問いかけの意味が分からず、アリアはまばたきを繰り返した。
「いいえ……私はずっと、孤児院の片隅で薬草を千切っていただけの子供でした。誰かを救ったことなど、一度も……」
レオンハルトはそれ以上何も言わなかった。
ただ、痛ましそうに唇を結び、アリアの手を包む力をわずかに強めただけだった。
(この人は、誰を見ているのだろう)
アリアの胸に、小さな疑問が芽生えた。
冷酷無比の黒竜騎士が、なぜ自分のような落ちこぼれに執着し、これほどまでに優しい目を向けるのか。
その理由を知る術は、まだアリアにはなかった。
だが、彼の手から伝わってくる熱だけは、凍てつく冬の夜にあって、紛れもない本物だった。




