第3話「小さな調合室の朝露」
東の山並みから昇った薄い朝日が、凍てついた硝子窓の霜をゆっくりと溶かしていた。
アリアは、冷え切った空気の中で目を覚ました。
見知らぬ高い天井。
太い木組みの梁が規則正しく並び、暖炉の底には昨夜の炭が微かな赤い光を残している。
羽毛布団の温もりから身を起こし、アリアは小さく息を吸い込んだ。
鼻腔をくすぐるのは、古びた石の匂いと、微かに混ざる乾いた針葉樹の脂の香りだった。
王都の地下牢で染み付いた、湿った泥と黴の気配はどこにもない。
(夢では、なかった)
アリアは寝台から足を下ろし、用意されていた服へと着替えた。
昨夜、砦の侍女が届けてくれたのは、仕立てのいい上質なウールの執務着だった。
裾の広がらない実用的な濃紺のスカートに、袖口を絞った生成りのシャツ。
宮廷の研究所で着せられていた、汚れの目立つ薄手の白衣とは違い、保温性と作業性を考え抜かれた作りだった。
身支度を整えて部屋を出ると、昨夜の初老の医官が廊下で待っていた。
名をゲルハルトと言うその男は、昨夜の刺々しい態度は影を潜め、どこか落ち着かない様子で深々と頭を下げた。
「アリア様、おはようございます。閣下より、あなた様のための作業場を整えるよう仰せつかっております。こちらへどうぞ」
「『様』はおやめください。私はただの見習いで、身分も罪人のままですから」
アリアが伏し目がちに言うと、ゲルハルトは困ったように眉尻を下げた。
「とんでもない。昨夜のカイルの命、あなたが救ってくださらねば今頃冷たくなっておりました。それに、閣下の命令は絶対です。どうか私どもに、礼を尽くさせてください」
案内されたのは、居住区の東端にある日当たりの良い一室だった。
重い樫の木の扉を開けると、そこには驚くほど充実した調合設備が広がっていた。
石造りの頑丈な作業台、壁一面に作り付けられた無数の引き出しを持つ薬草棚。
窓辺には、ハーブを乾燥させるための真鍮製の網棚が何段も並んでいる。
蒸留器や乳鉢、天秤といった器具は、どれも手入れが行き届き、刃こぼれ一つなく磨き上げられていた。
「ここは以前、先代の領主様がお抱えの薬師のために作らせた部屋です。ここ数年は空き部屋となっておりましたが、清掃と道具の補充を済ませてあります。足りないものがあれば、何なりと申し付けてください」
「こんなに素晴らしい部屋を……私のような者が使ってよいのでしょうか」
アリアは恐る恐る作業台に歩み寄り、滑らかな石の表面を指先でなでた。
研究所では、ギルベルトたち正規の薬師が使い古した道具しか与えられなかった。
欠けた乳棒、狂った天秤、底の濁ったフラスコ。
それでも文句を言わず、道具の癖を指先の感覚で補いながら調合を続けてきたのだ。
傷一つない道具を前にして、胸の奥が微かに震える。
部屋の入り口から、遠慮がちなノックの音が響いた。
振り返ると、右腕に包帯を巻いた若い騎士が、照れくさそうに立っていた。
昨夜、死の淵から引き戻されたカイルだった。
まだ顔色は青白いものの、その足取りはしっかりとしている。
「あの、アリア様……昨日は、本当にありがとうございました」
カイルはぎこちなく一礼すると、抱えていた小さな木箱を作業台の上に置いた。
「これ、麓の村から届いた干しアンズです。大したものじゃないですが、甘くて美味いので……その、助けていただいたお礼です」
「カイル様、お気遣いは無用です。私はただ、手元にあった薬草を混ぜただけで」
「そんなことありません!」
カイルは身を乗り出し、真っ直ぐな瞳でアリアを見つめた。
「医官長が匙を投げた毒だったんです。あのとき、全身が凍りつくみたいに痛くて、息もできなくて……でも、アリア様の手が触れた瞬間、すうっと氷が溶けていくのが分かりました。あんな温かい薬、生まれて初めてでした」
温かい薬。
その言葉に、アリアは言葉を失った。
魔力がないからこそ、薬草の持つ自然な力だけに寄り添い、不純物を削ぎ落とすことだけに集中してきた。
それを『温かい』と言われたのは、人生で初めてのことだった。
「受け取ってください。食べないと、カイルが拗ねますぞ」
ゲルハルトが横から助け舟を出すように笑う。
アリアはためらいながらも、木箱に手を伸ばした。
「……ありがとうございます。大切にいただきます」
アリアが深々と頭を下げると、カイルは嬉しそうに顔をほころばせ、同僚たちに呼ばれて部屋を出て行った。
一人残された調合室で、アリアは干しアンズを一つ口に含んだ。
凝縮された甘酸っぱさが、舌の上に広がる。
王都では味わったことのない、素朴で力強い大地の味がした。
背後で、再び扉が開く気配がした。
足音だけで、誰が来たのかが分かった。
アリアは姿勢を正し、振り返って頭を下げた。
「閣下」
入ってきたレオンハルトは、甲冑を脱ぎ、黒いウールの上着に身を包んでいた。
胸元には銀の留め具が光り、腰には常に長剣が帯びられている。
その青い双眸が、部屋の中を静かに見回した。
「部屋は気に入ったか」
「もったいないほどの場所です。道具も、素材も、王都の中央研究所に劣らないものが揃っています」
「そうか。ならば早速だが、頼みたい仕事がある」
レオンハルトは作業台の端に歩み寄り、羊皮紙の束を置いた。
「北方の冬はこれからが本番だ。吹雪に巻き込まれた兵の凍傷、魔獣の襲撃による裂傷、そして寒さによる肺の病。例年なら王都から送られてくる薬品に頼っていたが……先日の荷を見る限り、今年の中央薬は当てにならん。砦の備蓄素材を使い、必要な常備薬を一から揃え直してほしい」
アリアは羊皮紙に目を走らせた。
記されていたのは、数百人規模の兵士たちが冬を越すための、膨大な薬品のリストだった。
凍傷用の油脂軟膏、鎮痛剤、止血粉末、滋養強壮の煎じ薬。
派手な霊薬など一つもない、現場で生きるための泥臭い薬ばかりだ。
「……私一人で、これほどの量を調合するのは時間がかかります。それに、私の手を通した薬には、魔導士が好むような華々しい魔力反応はありません」
「構わん。昨夜、お前の薬が本物であることは証明された。魔力のかすり傷に惑わされるような軟弱な兵は、この砦には一人もいない」
レオンハルトは淡々と言い捨てると、懐から小さな陶器の壺を取り出し、作業台に置いた。
「これは?」
「羊の脂と蜜蝋を精製したものだ。手荒れに効く」
アリアは思わず自分の手を見た。
昨夜の急造調合で、寒さとアルコールに晒された指先は赤くひび割れていた。
レオンハルトは、そんな些細な傷に気づいていたのだ。
「調合師の手が動かなくなっては困るからな。業務の一環として使え」
ぶっきらぼうにそう言い残すと、レオンハルトは背を向けて部屋を出て行った。
残された壺の蓋を開けると、精製された油脂の微かな甘い香りが漂った。
アリアは指先で少しだけすくい、荒れた手の甲に塗り広げる。
冷え切っていた皮膚に、じんわりとした油膜が広がり、痛みが引いていく。
(冷酷無比の黒竜騎士、というのは……誰が言い出したのだろう)
王都で流れていた恐ろしい噂と、目の前にいる男の行動が、どうしても結びつかない。
アリアは首を振って雑念を振り払い、薬草棚の引き出しを開け始めた。
今はただ、与えられた役目を果たすことだけを考えよう。
三ヶ月という短い猶予の中で、この砦の人々の命を繋ぐために。
◆ ◆ ◆
一方、遠く南に位置する帝都の中央魔導薬師研究所では、怒号が響き渡っていた。
「なぜだ! なぜ分離する!」
筆頭薬師ギルベルト・フォン・ハインツは、豪華な金糸の刺繍が施された薬師法衣の袖をまくり上げ、巨大なガラス製の調合槽を睨みつけていた。
槽を満たしているのは、皇帝陛下に定期献上される最高級延命霊薬『天上の雫』の調合液だった。
本来であれば、淡い黄金色の輝きを放ち、周囲に甘美な芳香を漂わせているはずの液体。
だが今、槽の中にあるのは、濁った泥水のような液体と、底に沈殿した黒いヘドロだった。
「配合比は完全に記録通りです! 素材の投入順も、魔力触媒の量も、ギルベルト様のご指示通りに……!」
若い薬師が震え声で弁明するが、ギルベルトはその横面を平手で打ち据えた。
「黙れ! 言い訳など聞きたくない! 皇帝陛下の侍従長から、次の満月までに納品できねばハインツ家の名誉に関わると圧力をかけられているのだぞ! 貴様ら全員、首を刎ねられたいのか!」
調合室にいた十数名の薬師たちが、一斉に青ざめてひざまずく。
ギルベルトは荒い息を吐きながら、自らの手のひらを見つめた。
(あり得ない。私は帝都で最も優れた魔導薬師だ。魔力操作も完璧なはずだ)
ギルベルトは名門貴族の出身であり、膨大な魔力を持っていた。
だが、彼がこれまで成功させてきた数々の霊薬は、すべてある『からくり』の上に成り立っていた。
調合の最終工程において、槽の洗浄や残渣の処理という名目で、常にアリアを立ち会わせていたのだ。
魔力を持たないアリアが、作業の一環として素手で槽をかき混ぜ、不純物を濾過する。
その行為が、ギルベルトの過剰で荒削りな魔力の暴走を吸い取り、薬液を絶妙な均衡へと落ち着かせていた。
ギルベルト自身、アリアが何をしているのか正確には理解していなかった。
ただ、彼女に雑用をさせた後の調合槽は、なぜか常に最高の仕上がりになっていた。
それを己の才能の証明だと信じ込み、アリアを『ただの掃除係』として見下し、手柄を独占してきたのだ。
「ギルベルト様、昨夜届いた北方のアルスヴァン砦からの報告書ですが……」
書記官がおずおずと羊皮紙を差し出す。
「先日納品した解毒薬の効力が著しく低下しており、使い物にならなかったと……辺境伯閣下より、納入停止の通告が届いております」
「何だと!? あの野蛮な北方の犬め、帝都の薬に難癖をつける気か!」
ギルベルトは報告書をひったくり、乱暴に床へ叩きつけた。
「アリアだ……あの役立たずの女が、去り際に何か呪いでもかけていったに違いない! あんなゴミを拾っていったレオンハルトも同罪だ!」
怒りに任せて叫ぶギルベルトの額には、嫌な脂汗がにじんでいた。
もし、このまま『天上の雫』の調合に失敗し続ければ、横領の罪をアリアに着せて追放したことすら、監査官に洗われかねない。
焦燥と恐怖が、ギルベルトの理性を確実に蝕み始めていた。




