21.幼馴染-①
九十九家の明るい日の当たるリビングで、ソファーに腰かけた蓮は持っていた紙袋を隣に置いて、その中から一通の手紙を取り出す。淡い青色の封筒の表には、大きな文字で【九十九蓮様】と書かれていた。
嬉しさを隠そうともせず笑みを浮かべながら、貼られていたシールを丁寧に剥がしつつ差出人の名前を確認すると、中から封筒よりもさらに淡い色の便箋を取り出して、そこに書かれている文字を愛おしそうに目で追っていく。それは前日の東京公演の千秋楽でもらった、直筆のファンレターだった。
無事に全四都市での公演を終え、久々の丸一日オフとなったこの日、蓮はずっと楽しみにしていたファンからの手紙をゆっくり読もうと、朝から一人で準備をしていたのだ。紙袋の中には公演を見に来たファンからの手紙以外にも、事前に事務所に届いていた蓮宛てのファンレターも入っている。それは最終公演前に、百合が頑張ったご褒美にと蓮のために用意してくれていたものだった。
誰がどう見ても至福の時間だと分かるような蓮の表情や雰囲気を、百合はダイニングテーブルでゆっくりとコーヒーを飲みながら満足そうに眺めていたのだが、二通目の手紙に蓮が手を伸ばした瞬間、唐突に家のチャイムが鳴り響く。
宅配や誰かの訪問の予定はあっただろうかと、お互いに顔を見合わせる蓮と百合だったが、どちらも覚えがなく首をかしげるだけ。しかしそのままというわけにもいかないので、百合は立ち上がりインターホンのモニターのスイッチを押す。
「はい」
それを確認して、今度こそ二通目の手紙を読もうと蓮が紙袋の中に手を入れた、その時だった。
『ユリ~! 久しぶり~!』
聞き慣れた声が広いリビングの中に響いて、思わず蓮は手を止め顔をしかめる。どう考えたところで、声の主にこの至福の時間を邪魔されるだろうと分かり切っていたからだ。
「ガブちゃん! 久しぶりー! 今玄関あけるから、ちょっと待っててー」
『は~い』
いい返事が部屋の中に響いて、インターホンに表示されていた映像が消える。そのまま、パタパタとスリッパの音を響かせながら玄関へと向かう百合の後ろ姿を見送って、蓮は大きくため息をついたのだった。
「いらっしゃーい」
「おじゃましま~す」
廊下から響いてきた声を聞きながら、蓮は紙袋の中を確認する。そこには色とりどりのファンレターが何通も入っているが、先ほどとは打って変わって蓮の表情はどこか残念そうでもあった。
「ゆっくり読みたかったのに」
そう呟く蓮の声は、完全に沈んでいる。とはいえ、今日はこのために時間を使うと決めて楽しみにしていたというのに、ソファーの前に置かれたローテーブルにはまだ最初の一通分の手紙しか置かれていないのだから、そうなるのも仕方がないかもしれない。
「ガブちゃん、いつ帰ってきてたの?」
「帰国自体は三日前だけど、昨日もおとといも別の雑誌の撮影だったから、実質今日からがお休みかな~」
「そっか~。ガブちゃんも忙しいね~」
そんな蓮の心の内など知る由もないまま、先ほどから百合に「ガブちゃん」と呼ばれている人物がリビングの中に入ってくる。
日に当たるとキラキラと光る明るいブロンズヘアを、肩に届かない程度に伸ばしハーフアップにしている長身の男。その横顔は、まるで海外の有名な彫刻家が彫ったかのように整っており、スッと通った鼻筋も細い顎のラインも、まさに端正な顔立ちという言葉がピッタリと当てはまるようだった。
その彫刻のような顔が何かを探すように動いて、深い青の瞳が蓮の姿を捉えた、次の瞬間。
「レン~! 久しぶり~!」
嬉しそうな笑みを浮かべたその表情は、先ほどまでの芸術作品を思い起こさせるようなものとは一転して、まるで大型犬が大好きな主人を見つけたかのよう。
「久しぶり、ガブ。っていうか、お帰り」
「うん! ただいま~!」
喜びを一切隠す気のないそれは、蓮や百合にとっては見慣れたもの。そして彼が両手で段ボールを持っている姿も、九十九家ではよく見られる光景だった。
先ほどからガブと呼ばれているこの人物は、九十九家の近所に住んでいる百合と蓮の幼馴染でもあり、同時にガブリエルの名前で国内外で活動している、正真正銘のモデルでもある。
ちなみに、このガブリエルという活動名はミドルネームから取っているので本名といえば本名でもあるのだが、見た目に似合うからという理由で蓮と百合は昔から呼び方が変わっていない。それが、まさか今になって功を奏することになるとは二人とも微塵も思っていなかったが、仮に今後仕事現場で会うことがあったとしても呼び方に気を遣わなくていいという点では、実は非常に気が楽だったりするのだ。
「あ、そうそう! これ、お土産! ユリには、いつものフランスの化粧水も買ってきてあるからね!」
そう言って、笑顔のままのガブリエルがダイニングテーブルの上に段ボールを置く。これもよくある光景なので、百合は嬉しそうにその中身を覗き込むのだった。
「うわぁ! さっすがガブちゃん! ありがとう!」
「姉さん、いっつもそれガブに頼んでるじゃん。ガブはコレクションに出るためにフランスに行ってるのであって、姉さんのお使いに行ってるんじゃないからね?」
「分かってます~。時間があったらついでに買ってきてねってお願いしてるだけなんだから、別にいいでしょっ」
九十九姉弟のいつものやり取りに、楽しそうな笑顔を見せているガブリエルだが、蓮の言う通り本業はモデルなのだ。いわゆるパリコレクションやミラノコレクションなどに出るために、その時期はあちらこちらを忙しく行き来している。
日本ではあまり知名度は高くないが、実はガブリエルはランウェイを歩く回数もかなり多く、海外では割と名の知れたトップクラスのモデルである。そのため、蓮はあまりお使いみたいなことをさせるなと毎回百合に言っているのだ。しかし、基礎化粧品にこだわっている百合の女性らしい一面を知っているガブリエルからすれば、百合の喜ぶ顔が見たいからというただそれだけ。だからガブリエルは必ず同じものを購入してくるし、九十九姉弟も同じやり取りをすることになるのだった。
「そういえば、今回もちゃんと祖父母孝行できたの?」
「うん! ゆっくりお家でごはん食べたり、近所の公園にお散歩に行ったりして、三人でゆっくりしてきたんだ~」
日本人の母とフランス人の父を持つガブリエルは、毎年メンズのファッションウィークの時期には父親の実家に宿泊しており、コレクション終了後には父方の祖父母と共にゆっくりと過ごすのが定番になっていた。母国語は日本語だが、両親の影響でフランス語と英語はネイティブ並に話せるトリリンガルのため、コミュニケーションにも別段問題はないからこそできることだった。
「でも、今年はいつもより長かったよね」
すでに今年のメンズのファッションウィークはひと月ほど前に終わっているため、祖父母孝行をしていたとしてもだいぶ長かったのではと百合は思ったようなのだが、それにガブリエルはふるふると首を振って否定を示す。
「ううん。ファッションウィークが終わってからフランスに滞在してたのは十日ぐらいで、あとは別の仕事の関係でニューヨークと香港に行ってたんだ」
ガブリエルが言うには、ニューヨークにはとあるアーティストのミュージックビデオの撮影に参加するため、香港には現地のコマーシャルに出演するために、それぞれ移動していたのだそう。そうして海外での全ての仕事を終え、ようやく帰国したのが三日前ということなのだ。
「それで帰ってきてすぐ仕事なんて、本当に忙しいんだね」
「でも、その分しばらくはお休みなんだ~。だから今日からはちょっとゆっくりしようかなって」
日本だけではなく海外の事務所とも契約しているため、ガブリエルの活動はまさにワールドワイド。場合によっては、日本で仕事をした直後に香港に飛んで、すぐに次の仕事ということもあり得る。売れっ子と言えば聞こえはいいが、時にはハードスケジュールになることもしばしばなのだ。そのためガブリエルはこうして定期的に休みを取ることで、リフレッシュするように心がけていた。
百合と話すガブリエルの近況を聞きながら、これならば少しくらいはファンレターを読めるのではないかと思った蓮が、再び紙袋に手を伸ばす。指先に触れた手紙独特の感触に思わず笑みをこぼしながら、ダークブラウンのシンプルな封筒にオシャレなシールが貼られたそれを手に取って、封を開けようとしたのだが――。
「レン~!」
嬉しそうな笑顔と共に駆け寄ってくるガブリエルに、白い大型犬の耳と尻尾が見えたような気がして。今は手紙を読むのを諦めるべきなのかと、蓮はそっとため息をこぼしたのだった。




