18.リップ-⑨
☆ ☆ ☆
「リップ、見つけました!」
楽屋に駆け込んできた百合が手に持つソレに、全員が一斉に目を向ける。
「私のリップ……! ありがとうございます!!」
一番最初に声を発したのは、持ち主である河口だった。百合がその淡いピンク色のリップを差し出すと、大切そうに受け取って胸元で握りしめる。
「ということは、やっぱり間違って捨てられていたってことですか?」
「みたいですね」
結局あのあと、眠ってしまった蓮の傍ら、百合は一人で袋の中身を確認していた。
人を呼ばなかったのは、眠ってしまった蓮の姿を見られないようにするためでもあったが、それ以前にゴミ袋三つ程度であれば一人で確認したほうが早いと判断したからでもある。実際、人を呼びに行っている間でひと袋は確認できただろうし、なによりも運がよかったのか最初の袋の中に探していたリップが入っていたので、その判断は間違っていなかったと言えるだろう。
「でも、どうしてそんなことに……」
「愛梨ちゃんも、全然気付いてなかったんだもんね?」
「はい。いつどうしてゴミ箱の中に入ってしまったのかも、よく分からないです」
「それに、誰かが気付きそうなのにね」
見つかったことに安堵したのか、口々に話し始める面々。だが、百合は今もあの場に置いてきた蓮のことが気がかりだったので、なるべく早く話を終わらせるために右手を上げつつ声をかけた。
「あの~……。ちょっと、いいですか?」
全員の視線が向いたことを確認して、百合は若干困ったような表情で言葉を続ける。
「たぶんなんですけど、事故の影響で朝の時点ではまだ前日分のゴミが残っていたので、そのせいで偶然リップが落ちた瞬間も音がしなくて気付けなかったんじゃないでしょうか。特にゲネプロ前は全員がバタバタしていたので、他の人のメイク道具にまで意識が回っていなかったと思いますし」
もっと具体的に言ってしまえば、ゴミ箱にぶつかってよろけた女優を全員が気にしていたせいで、それどころではなかったのだ。その瞬間にリップがゴミ箱の中に落ちていようと、誰もそこに意識を持っていっていなかったのであれば仕方がない。しかも、直後にゴミ箱がテーブルの下という死角に移動させられてしまったことも、それに拍車をかけたのだ。
だが、百合はそこまで説明する必要はないと思っていた。大切なのは原因の究明ではなく、リップが見つかったというその一点のみだと考えていたからだ。
事実、その場にいる誰もがそこまで気にしていなかったようで。
「確かに」
「でも、見つかってよかったね」
「はい! 九十九さん、ありがとうございます!」
安堵の空気に包まれた楽屋の中は、一瞬にして笑顔が広がっていたのだった。
「いえいえ、そんな。それよりも、もう結構遅い時間ですし、皆さん急いで帰りましょう」
河口から満面の笑みを向けられた百合も、いつものように両手を振って話題をすぐに変える。むしろ百合としては、こちらのほうが本題のようなものなのだ。
だが、ここで河口のマネージャーがあることに気付いてしまう。
「あれ? そういえば、九十九さんお一人ですか?」
その声に、再び百合に全員の視線が集中した。
(そうですよね。気になりますよね)
マネージャーという職業柄、細かい部分に気付きやすいことは百合もよく知っている。だが、今はそのことには触れないで欲しかったと思いながら、ここまで戻る間に考えた言い訳を口にした。
「実は、一生懸命探しすぎた蓮が結構汚れてしまったので、その場で待機してもらっているんです。さすがに劇場内を汚すわけにはいかなかったので」
苦笑しながら告げてみせれば、あちらこちらから微笑ましそうな表情が向けられる。
待機させているのは事実だが、実はすぐそばでビニール袋を漁っていても目を覚まさないくらい深い眠りについているうえに、本当はリップを見つけるのに一番貢献したのは蓮だったという真実など、色々と言えないことが多すぎて百合は若干の罪悪感に苛まれてしまう。しかし、すぐにいつものことだと切り替えて、百合はさらに言葉を続けた。
「なので、私はこのまま蓮の荷物を持って、急いで拾いに行ってあげないといけないんです」
それにはさすがに誰もが同意を示してくれて、「早く行ってあげてください」や「お疲れ様でした」など、様々な声が飛んできたのだった。
「それじゃあ、お先に失礼します」
「あ、あのっ……!」
だが、百合が楽屋を出ようとした直前、河口に呼び止められてしまう。そのままどうしたのかと振り返った先で、河口は勢いよく頭を下げ。
「本当にありがとうございました! 九十九さん……あ、えっと……弟のほうの九十九さんにも、ありがとうございましたとお伝えいただけますか?」
感謝の言葉を伝えるとともに、少々申し訳なさそうな表情でそう告げてきた。その目には感謝だけではなく、若干の不安も含まれているような気がした百合は、内心急いではいるのだがそんな様子は微塵も見せずに、弟とそっくりな表情でふわりと微笑んでみせる。
「はい、必ず伝えておきますね。蓮も見つかって喜んでいたので」
「あ、ありがとうございます!」
そんな微笑ましいやり取りをして、直後に河口のほうから「引きとめてすみません。お疲れ様でした」と言葉をかけられたので、百合はそれに「お疲れ様でした」と告げ、今度こそ女性用の楽屋をあとにしたのだった。
そうして宣言通り、誰もいなくなっていた男性用の楽屋から蓮の荷物を回収し、そのまま急いで駐車場へと百合は走り、すぐに蓮を回収に向かう。
実はこの時ゴミ袋はまだ片付けていなかったので、劇場スタッフもこのあと呼びに行かなければならず、それ以前に万が一にも蓮が寝ているところにスタッフがやってきてしまっていたらと、百合は気が気ではなかったのだ。
幸いなことに、蓮の寝ている場所へ到着した際に人影はなかったので、誰にもこの状況は見られていないはずだと百合はほっと胸をなでおろしていた。
「蓮~。ちょっとだけでいいんだけど、起きれる?」
「んー……」
声をかけながら軽く肩を揺らし、覚醒を促す。とはいえ、完全覚醒をさせようということではない。いくら弟とはいえ成人男性を持ち上げる力は百合にはないので、なんとか自力で車に乗り込んでもらわなければならないからという、いたってシンプルな理由からだった。
「ほら、帰るよ。あと、リップちゃんと見つかったから。河口さんもすごく喜んでたし、ありがとうって言ってたよ」
「ん~……そっかぁ。それはよかったぁ」
にへらと笑い、百合に支えられながらやっとのことで車の後部座席に乗り込んだ蓮に、百合は急いでシートベルトをつける。
「ねー、よかったねー。蓮が頑張ったからだよー」
「ふふっ。うん、おれがんばったー」
もはや受け答えすらふわふわしているが、この状態になるのを見るのは百合も久々なので、つい思っていることが口からこぼれ出てしまった。
「私の弟って、こんなに可愛かったっけ……?」
その頃には、すでに蓮は完全に夢の世界へと旅立ってしまったあと。穏やかな寝息を立てつつ、車の中で眠っている。
「……うん。まぁとりあえず、蓮も回収できたしゴミだけ片付けて、受付のスタッフの方に報告しないとね」
その寝顔を数秒見つめてしまっていた百合だったが、まだ仕事が残っていることを思い出しあえてそれを口に出すと、蓮の乗る後部座席のドアを静かに閉めたのだった。




