16.リップ-⑦
「どう? 何か分かった?」
口元に笑みの形を残しながら前髪をかき上げている蓮の様子を見て、中に入っていたゴミを一つずつ拾い出しながら時間を稼いでいた百合が、そう覗き込むように尋ねてくる。それに蓮は小さく頷いて、けれど同時にあることにも気付いてしまい、途端に渋い顔をする。
「うん、色々分かったんだけど……。ちょっと、まずいことになってるかもしれない」
「まずいこと?」
そのまま蓮は先ほどと同じく百合にだけ聞こえるような小声で、偶然が重なりゴミ箱の中にリップが落ちてしまっても誰も気付けなかったこと、そしてそのまま清掃時に回収されてしまっていたことを告げたのだった。
「ってことは、もしもそのゴミが回収されてしまっていた場合は……」
「そう。もう手遅れになってる可能性があるってこと」
事故の影響で清掃会社の人間が遅れていたくらいなのだから、劇場が契約しているゴミ回収業者も普段より到着が遅れていてもおかしくはない。とはいえ、必ずしも今日が回収日とは限らないので、まずは劇場のスタッフに確認するのが先だ。そのことは、蓮も百合もよく分かっている。だが問題は、この場で正直にそれを話すべきかどうか、だろう。
「どうする?」
再び前髪をかき上げつつ、先ほどよりも強くなってきた眠気に抗いながら、蓮は百合に向かってそう問いかける。それは蓮自身が、この状態で正確な判断を下せるとは思えなかったからに他ならない。
そのことが分かっているからなのか、百合は腕を組んで一瞬強く悩むような表情を見せるが、すぐに決断を下すと。
「ゴミとして捨てられてしまっている可能性があることだけ告げて、二人で探しに行くのが無難ね」
蓮にそう告げた。
いくつか問題は出てしまうかもしれないが、それが一番効率のいい方法であることは間違いないと蓮にも理解できたので、深く頷いて同意を示す。
「そうだね、それがいいかも」
それを受けて百合もゆっくりと頷くと、善は急げとばかりに立ち上がり、その場にいる全員に聞こえるようなハッキリとした声で話し始めた。
「すみません。もしかしたら間違って捨てられてしまっているかもしれないので、一度確認に行ってきますね」
だが、急なその言葉に誰も反応しないはずがなく。
「え!?」
「捨てられてるって、どういうことですか?」
驚いた様子の河口と、どこか怒りのこもった声で聞き返すそのマネージャー。しかし、百合はあえて少し困ったように微笑んでみせると、穏やかに告げる。
「実は、今日のゲネプロ中に楽屋に清掃が入っていたみたいなんですよね。なので、もしかしたらその時に偶然ゴミ箱の中に入ってしまっていて、そのまま気付かれずに捨てられてしまった可能性もあるかもしれないなと思ったんです」
「それは……」
何かを言いかけて、けれど最悪の事態を想像して言葉を失ってしまったのか、口元を両手で覆いショックが隠せない様子の河口。その姿を横目で確認した彼女のマネージャーは、言いづらそうに口をつぐむ。
そんな二人に向かって、今度は安心させるような笑みを浮かべた百合が、両手で小さくガッツポーズを作ってみせた。
「大丈夫です。今から劇場のスタッフに確認して、ひとまず私と蓮で今日のゴミ袋の中身を確認させてもらってくるので。もし人手が必要になりそうだったら、その時には呼びに来ますね」
さらにそう言い切った直後、蓮に向かって「行くよ」とひと言声をかけると、そのまま百合は扉を開いて廊下へと出て行ってしまった。それを見て、蓮も急いで後を追う。
こうして、二人はこれ以上の質問が飛んでくる前に楽屋を出て、まずは劇場スタッフが一番いそうな受付へと向かったのだった。
「というか、あとは私一人でなんとかするから、あんたは先に車に行って寝てなさい。荷物もあとで全部回収しておくから」
だが、その途中で百合がポケットから車の鍵を取り出すと、歩きながら後ろにいる蓮に向かって差し出してくる。
「短時間に二回も力を使ったんだから、今もうだいぶ眠いでしょ」
「うん、まぁ……結構眠い、かな」
それは事実だった。なので本来蓮としては、その申し出は大変ありがたいことのはずなのだ。しかし今回ばかりは、百合の差し出した鍵を受け取るようなことはせず、逆にその手を押し返す。
「けど、ここまできたらちゃんと最後まで見届けたいんだよね。できれば、河口さんにリップ返してあげたいし」
眠気も手伝ってか、にへらと笑う蓮のその表情は明らかに普段のアイドルとしての顔とは別物で、あまりにも気が抜けたようなものだった。けれど、だからこそ百合には理解できてしまったのだ。これが蓮の本心なのだということが。
そして同時に、こうなった蓮は意外と頑固なのだ。本能のほうが強くなってしまっている分、子供っぽいと言っても間違いではないのかもしれない。
そんな弟を誰よりも知っている百合は、言葉の代わりに一つだけため息をついて、手に持っていた鍵をポケットの中に戻す。
だが、これだけはどうしても譲れなかったらしい。
「無理はしないって、約束しなさい」
決して振り向くことなく告げられた言葉に、蓮は数回瞬きしてから苦笑をこぼすと、まるで聞き分けのいい子供のようにこう返事をしたのだった。
「はーい」
そのゆるすぎる言い方に、百合は一瞬だけ振り向いて蓮に胡乱気な視線を送るのだが、何か言葉を発するようなことはせず、すぐに前を向く。これ以上は無駄だと判断した、というわけではないのだろうが、視界に受付カウンターが見えてきたので、いったん目の前のことに集中することにしたのだろう。
「すみません」
その証拠に、百合はカウンターの中で作業をしていた劇場スタッフに素早く声をかけたのだった。
「はい、どうしました?」
「今日の楽屋の清掃時に、こちらの手違いで必要なメイク道具まで回収されてしまったようなのですが、ゴミの確認は可能でしょうか?」
「!! 少々お待ちください」
穏やかそうな女性スタッフが対応してくれたのだが、途中まで頷いていたその表情から一変して、緊張の面持ちで百合にそう告げると、すぐさまどこかへと走っていった。おそらく、上司に確認を取りに向かったのだろう。
「今日が回収日じゃなければいいんだけど……」
「そうね」
そんなふうに蓮と百合が話していると、ほどなくして先ほどの女性スタッフが壮年の男性スタッフを引き連れて戻ってきた。
「お待たせいたしました。出演者の方のメイク道具がゴミとして回収されてしまったとのことですが、よければ形状などお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「女性用のリップで、淡いピンク色をした円筒状のパッケージです」
物腰柔らかで低姿勢な男性スタッフは、いくつかの質問ののち、百合にこう提案する。
「明日の昼までお時間をいただければ、こちらでお探ししてお届けすることも可能なのですが、いかがですか?」
男性スタッフが言うには、今日はもう劇場のスタッフ側の退勤時間も迫っているため、明日の朝一ならば本日分のゴミ袋の中身を確認しておくことも可能なのだそうだ。
その言葉が出てきたということは、今日はゴミの回収日ではなかったのだろうと、蓮と百合はひと安心する。だが同時に、明日の昼ではメイクの時間に間に合わない可能性も出てきてしまった。
「できれば、今日中に見つけたいのですが……。自分たちで探すことを許可していただくのは、難しいですか?」
「難しいわけではないのですが、その……今からですと、お手伝いする人員を割ける余裕がなくてですね……」
それでは申し訳ないから、ということのようなのだが、今も楽屋で必死に探し続けている面々や河口の心境を思うと、今日中に見つけてあげたいというのが蓮と百合の本音なのだ。
「大丈夫です。人数が必要そうであれば、まだこちらでも数人待機していますので」
「そう、ですか? でしたら、今すぐご案内することも可能です」
ここで食い下がるわけにはいかないとばかりに百合が告げると、男性スタッフもそこまで言うのであればと納得してくれたのか、ゴミ収集所まで案内してくれたのだった。ただその場所は、現在夜のため電気をつけなければまともに作業をすることもできず、さらには盗難防止のため収集所に置いてある金属製のメッシュのゴミのボックスには鍵がついているので、男性スタッフはわざわざ電気をつけたうえで鍵まで開けて。
「作業が終了しましたら、あとはこちらで施錠・消灯いたしますので、先ほどの受付スタッフにお声がけください」
話は通しておきますのでと告げて、自分の仕事場へと戻っていったのだった。あまりにもありがたい対応に、蓮と百合はひたすら頭を下げて謝罪と感謝の言葉を述べることしかできない。
しかし。
「え、待って。これ、どうしよう……」
メッシュタイプの金属製のボックスを開いた百合が、絶望にも似た声を出す。それを横から覗き込んだ蓮も一瞬息を飲むと、同じく絶望の乗った声でこう呟いたのだった。
「……今日のゴミ、どれ?」




