14.リップ-⑤
なんの変化もない暗闇の楽屋の様子を蓮はかなりの時間視ていたが、結局ここまで怪しい人物が侵入してきたり、誰かが河口のポーチからリップを盗むようなこともなく。ようやくゲネプロ直前まで鏡の記憶を遡り、河口が急いで楽屋をあとにするところからの逆再生までたどり着くことができた。
願いが通じたのか、この時点で全員すでに衣装に着替えていたので、中途半端な部分で記憶の確認を終わらせずにすんだことにひと安心する蓮。
すると、ここで今回の女性陣の中で最も芸歴の長い女優が鏡に近付きリップを塗り直していたのだが、メイク中の河口と言葉を交わすと、突然しゃがみ込んだのだ。と同時に、焦ったように声をかけている河口や他の女優の面々、そしてマネージャーたちの姿。
(何かあったのか?)
その答えは、次の瞬間明らかになる。
立ち上がった女優がバランスを崩した様子は、逆再生でもハッキリと理解できた。鏡に近付こうとして、何かにつまずいたのだろう。それを見て、全員が焦って大丈夫かと声をかけていたようだ。
(でも、あの方は普段の役柄的にハイヒールは履き慣れてるはずなんだけど……)
珍しいこともあるものだとは思うが、弘法も筆の誤りと言うくらいなのだから、どんなに長く芸能の世界で生きてきていても人間なのだ。日常的な失敗の一つや二つ、あってもおかしくはない。
などと考えていた蓮だが、ふと目に入った河口が手に持つソレに、咄嗟に反応する。
(淡いピンクのリップ!)
確かに河口が口にしていたように、彼女の手には今、淡いピンク色のパッケージのリップがあった。そしてそれは、これまでの鏡の記憶の中で一度も目にしていないものでもある。つまり、紛失してしまったリップとは、コレのことなのだ。
本当にあったと思うのと同時に、蓮はここで本格的に頭を悩ませてしまうことになる。なにせ、今まで見てきた記憶の中の映像では、リップが紛失してしまった決定的瞬間を捉えることができなかったのだ。そして河口がリップを手にしている時間軸まで遡ってしまったということは、この先にはこれ以上の情報はない。
(いつだ!? いつ、このリップはなくなったんだ!?)
明らかに怪しい場面というものはなかった。だが現実的にリップが消えている以上、今の記憶の中のどこかで必ず紛失の瞬間があったはずなのだ。
(これだけの人数で探しても見つからないってことは、もう楽屋の中にはない可能性のほうが高い。となると……)
この場にいない人物となると、劇場スタッフと清掃員の女性二人だけになる。しかし、彼女たちがリップを手にした様子もなかった。
いったいどういうことなのだろうと、完成形からほぼすっぴん状態になった河口がソファーへと下がり、別の女優が鏡前の席に座ったことを確認した蓮は、あることに気付いて――
「あっ……」
――急いで、鏡から手を離したのだった。
「蓮? どうかした?」
普段とは違う様子にいち早く気付き心配そうに見つめてくる百合に、蓮はふるふると首を振る。
「な、なんでもないっ」
「そう?」
まだ納得がいっていなさそうな表情の百合だったが、さすがの蓮もこの場どころか百合と二人きりの状態であっても、真実を口にする気はなかった。言えるはずがないのだ。危うく、河口の生着替えシーンを見てしまうところだった、など。
(あ、っぶなかったー……)
一歩間違えれば、本当に気分は犯罪者だったのだ。間一髪のところで急いで鏡から手を離したその判断に、蓮は自分で自分を褒めてもいいほどのファインプレーだったと、本気で思っている。
だが、自分を褒めるよりも先にやるべきことがあると、蓮はそっと鏡に触れる。
「ありがとう。助かったよ」
その瞬間、鏡が反射する光がほんのわずかに強くなった。
リップの行方はいまだに分からないが、少なくとも河口が嘘をついているわけではないということだけは証明された。それだけでも御の字なのだ。
とはいえ、このままで終わるわけにもいかない。次の手掛かりを探るべく新たな情報を手に入れるか、見落としている別の可能性を見つけない限り、いつまで経っても先には進めないし、帰宅することもできないのだ。
だが悲しいかな、ほぼ半日分の鏡の記憶を一気に視たせいで、蓮の頭はかなりお疲れモードだった。自然と瞼が落ちてきてしまい、出てきそうなあくびを必死でかみ殺す。
鏡は大量の情報を手に入れることが可能かつ、失くし物を探す際にはそれ一つだけで解決することも多いため、大変便利なモノではあるのだ。しかし、それは同時に膨大な記憶のデータを脳が短時間で処理しなければならないという、それはそれは大きなデメリットも存在している。にもかかわらず、今回のように明確な情報を手に入れられなかったとなると、蓮としては少々骨折り損のくたびれ儲けのようになってしまう部分もあるのだ。
「で、どうだったの?」
だが、それでもまだ完全に睡魔に負けてしまうような状態ではないので、自分よりも勘の鋭い百合に持ち得る情報の全てを提供して、あとはどうにか推理してもらうというのが普段の流れだった。
とはいえ、今回はそれも難しそうだと、真剣な表情で見つめてくる百合に対し蓮は渋い顔をして口を開く。
「う~ん。正直、これっていう決定打は見つからなかったんだけど……」
前髪をかき上げながら、情報の精査もせずに、ただひたすらに視たものを小声で百合に伝えていく蓮。その本心をひと言で表すのであれば、あとはなんとかしてくれ、といったところだろうか。
実際、蓮が能力を使わずとも百合が忘れ物や失くし物を見つけて持ってくることがほとんどなので、探し物が得意と言われているのも、あながち間違いではないのだ。それは、実の姉だから弟のことが分かるということもあるのだろうが、それ以上に百合の観察能力が優れているからともいえる。だからこそ、蓮はモノの記憶を視たあと、百合に全てを任せることができているのだ。
「不審者の侵入も盗難もなかったことは、確実なのよね?」
「確実だね。とはいえ、これだけの人数で探しても見つからないって、それはそれでちょっとおかしいと思わない?」
「そう、ねぇ……」
腕を組んで考え込むような仕草を見せた百合の姿に、蓮は急いで開きかけていた口を閉ざす。こういう時に姉の思考を邪魔するべきではないと、長年の経験からよく知っているのだ。
余談だが、百合はこうして自らの思考に没頭する際、必ず右腕が上で左腕が下になる。これは左脳を使って情報を論理的に処理する傾向が強い人の特徴とも言われているのだが、それは科学的な根拠に基づくものではなく、あくまで心理的な俗説のようなものである。とはいえ、現実的に百合は感情よりも理性を優先させるところが多々ある人物なので、この場合においてはあながち間違いではないのかもしれない。
そんな百合が、ふと何かに気付いたように顔を上げると、先ほどまで蓮が記憶を視ていた鏡をジッと見つめてこう口にする。
「もしも、リップがすでにこの楽屋の中にはないと仮定すれば……一番可能性がありそうなのは、清掃員の女性よね?」
確かに、蓮も同じことを考えはしたのだ。だが同時に、不審な動きを一切していないことも蓮は知っている。
「盗むにしても劇場スタッフの目があるから無理だと思うし、それ以前に普通に掃除してるだけに見えたけど?」
だが、百合の考えは少しだけ違ったらしい。蓮に視線だけを向けると、小さく首を振ってみせる。
「たぶんだけど、今回リップが紛失したのは誰も意図していなかったことが起きていたんだと思うの。ということは、どこかで偶然が重なったはず」
つまり、なんらかの偶発的な出来事によって、清掃員が楽屋からリップを持ち出してしまったのではないかと百合は考えているのだ。
「もう一度、どこをどう掃除してたのか詳しく教えてくれる?」
「えっと……鏡を拭いて、ソファーやテーブルを拭いて、それから掃除機をかけてゴミを捨てて、だったと思う」
モノの記憶は脳内で常に逆再生となっているため、順序だてて話す際にはそのあたりが難しくなるのだが、能力の特性に慣れている蓮は百合のその質問にスラスラとよどみなく答えてみせる。
すると。
「一番ありそうな可能性は、ゴミ箱の中に紛れてた、とかじゃない?」
「!!」
百合の指摘に、言われてみればという表情を見せる蓮。なぜ今まで気付かなかったのだろうとも思うが、同時に探していたのはリップが紛失した決定的な瞬間であって、それ以外の出来事は事象の一つとして捉えていたと、今さらになって蓮は気が付いたのだった。
「でも、いったいどこで……?」
「それが分からないから、確実とは言えないのよね」
困ったような表情の百合が、そのまま小さくため息をつく。しかし、可能性があるのであれば試してみる価値はある。
「姉さん。俺、帰りの車の中ずっと寝ててもいい?」
「……うん。言うと思った」
蓮の言葉に百合はもう一度小さくため息をつくが、その声色には否定するような意味合いは含まれていなかった。




