11.リップ-②
朝の事故の影響も夕方にはかなり緩和され、定刻通りに開演し問題なく東京公演初日を終えることができ、誰もがホッとした様子で帰り支度を進める中。河口のリップはどうなったのだろうかとトイレからの帰り道ふと気になった蓮は、女性用の楽屋が近付いてきたところで少しだけ進む速度を落とす。
と、その瞬間。
「私、九十九マネージャー探してくる! 探し物名人なら、もしかしたら見つけられるかもしれないから!」
勢いよく開いた扉の向こうから、ショートボブにメガネをかけた河口愛梨のマネージャーが飛び出してきた。それに驚いて、思わず歩みを止めてしまう蓮。
だが河口のマネージャーからすれば、廊下に出てすぐに蓮と遭遇できたことは幸運だったのだろう。「あっ!」と小さく声をあげて早足で歩み寄ると、どこか安堵した様子で蓮に話しかけた。
「よかった、まだ帰ってなかったんですね。あの、不躾で大変申し訳ないんですが、九十九マネージャーをお借りできませんか?」
「え、っと……姉さんを、ですか?」
目的もその理由も分かり切ってはいるが、さすがにいきなりすぎるうえに本人の了承も得ていないので、蓮はわずかに首をかしげながらそう聞き返す。だが、それに対して河口のマネージャーは大きく頷いて、強い意思の宿った瞳で蓮を見つめた。
「はい。うちの河口が大切なものを失くしてしまったので、少しだけでもお力をお借りできないかなと思いまして」
百合に協力を仰ぐとなると、当然ながら担当タレントである蓮の帰りも遅くなる。だが明日からは一日二公演あるので、今日は誰もが早く帰路につきたいと彼女も知っているはずだった。しかし、それを分かっていても力を貸してほしいと口にするほど、専属マネージャーとして河口愛梨というタレントを大切にしているということなのだろう。
(親身になってくれる、いいマネージャーなのかも)
そしてそれを知ってしまえば、蓮個人としてはノーとは言いにくい。
とはいえ、今回に関しては百合に協力を頼みたいと言われている以上、蓮が勝手に判断を下すわけにはいかないのだ。
「その……。俺が勝手にいいですよとは言えないので、一度姉さんに確認して――」
「蓮! あんたまたトイレにハンカチ忘れて……って、あれ? もしかして、お話し中でした?」
噂をすれば影が差すとは言うが、まさに絶好のタイミングで現れた百合は、その手にチェック柄のハンカチを持っていた。言葉通り、それは蓮がトイレに忘れてきたものである。
「あ」
そして残念ながら、本人は今の今まで気付いていなかったらしい。急いでポケットの中を探って、先ほどまであったはずのそれがなくなっていることを、今言われてようやく知ったのだ。
「ごめん、姉さん」
「ホントにね。劇場のスタッフの方が名前の刺繍に気付いて、わざわざ持ってきてくださったんだから。感謝しなさい」
「はい」
あまりにも物を失くしすぎるので、ある時からハンカチにまでローマ字で蓮の名前の刺繍を入れるようになったという経緯がある。さすがにこの歳にもなって、子供の頃のように名前のシールを貼ったり直接名前を書くのは問題があるだろうということで、この形に落ち着いたのだ。ハンカチに名入れをしたところで今時はそこまで値段も高くないうえに、こうして誰かが見つけてくれる可能性が高くなるのだから、蓮に持たせる必要がある以上やらない手はないだろう。実際、百合が探しに行かなくとも蓮の手元に戻ってくる回数は以前よりも増えたので、姉弟揃ってこのサービスは重宝しているのだ。
だが、今はハンカチのことよりも、この珍しい組み合わせに百合は疑問を抱いているらしい。
「えっと……。それで、何かあったんですか?」
先ほども一度、百合は河口のマネージャーに話しかけてはいたのだが、それよりも先に蓮がハンカチの件に反応してしまったため、流れてしまっていたのだ。そのため、百合は改めてそう質問する。
「あ、その……九十九マネージャーのお力をお借りできたらと思いまして、今からお願いに行くところでした」
「私に、ですか?」
河口のマネージャーからの返答に、百合はわずかに首をかしげながらそう聞き返した。先ほどの蓮と同じような仕草をしてみせるその姿には、やはり実の姉弟なのだという血のつながりを感じざるを得ないものがあったのだが、残念ながら今ここにそれを口にできるほどの余裕がある人物は存在していない。それどころか、河口のマネージャーは若干早口になりながら、事の経緯を説明し始める。
「実は、うちの河口が本番用に用意していたリップを紛失してしまいまして。本人が言うにはゲネプロの時点ではそれを使用していたらしいんですが、昼食後に確認してみたらそれだけなくなっていたそうなんです。それで、みなさんにも協力していただいて部屋中探したんですが、どこにも見当たらなくて。ただ、友人から誕生日プレゼントでもらった大切なものらしいので、どうしても見つけてあげたいんです。どうか、お力をお貸しいただけないでしょうか?」
言いたいことを全て言い切って頭を下げるその様子に少々引き気味の百合とは対照的に、蓮は心の中で密かに感心していた。というのも、必要な情報は今の時点でほとんど出揃っているからである。そしてこの時点で、やはりゲネプロの際にはそのリップを使用していたことが確定したのだ。となれば、確かに楽屋の中だけを探しているのも納得できる。
返答があるまで頭を上げるつもりはないらしい目の前の人物から、横に立つ姉に蓮がちらりと視線を向けると、困ったような悩んでいるような表情の百合と目が合った。その雰囲気や様子から蓮は、百合が自分に対してどうするのかと無言の問いかけをしているのだと受け取る。能力の使用の有無以前に、帰宅時間が遅くなることは明白なのだから、それも当然といえば当然のことだろう。けれど蓮はここで、あえてふわりと微笑んで見せたのだった。
「力になってあげてよ、姉さん。ちょっとくらい帰りが遅くなっても、俺は大丈夫だからさ」
本人だけではなく、共演者やマネージャーまでもが一緒になって必死に探しているのだ。その状況で、しかも河口本人にとって大切なものだというのであれば、むしろ協力しない理由が蓮には存在していなかった。失くし物や忘れ物が多い蓮にとって、一つのモノを大切にして一生懸命に探すという行為は、自分にはできないからこそ尊いもののように感じられるのだ。
「まぁ、蓮が大丈夫なら、私はいいんだけどね」
とはいえ、百合が探し物名人と言われている理由の半分近くは蓮の能力による部分が大きいのは事実であり、そして残りもほとんどが蓮の失くし物や忘れ物を見つけてくるだけなので、どこまで役に立てるのかは百合としても未知数なのだということを蓮は理解している。なにより、この流れは蓮が能力を使用する可能性が高い。となれば、そのあとにどうなるのかを知っている百合としては、やはり心配なのだろう。だからこそ、先に蓮に視線で確認を取ったのだ。
(なんなら、本当はあんまり俺に力を使ってほしくないんだろうな)
百合の本音も含めそれら全てを分かったうえで、それでも蓮は念を押すようにこう告げる。
「何かできることがあれば、俺も手伝うから」
つまり、必要があれば能力も使うと宣言してみせたも同じ。そんな蓮に対し、百合はどこか複雑そうな表情を浮かべている。だがその直後に、勢いよく顔を上げた河口のマネージャーが何度も何度も感謝を述べながら百合の手を取るので、結局百合も曖昧な笑みを浮かべるしかできないまま。
こうして二人は彼女に連れられ、紛失してしまった河口のリップを探すべく、女性用の楽屋に足を踏み入れたのだった。




