10.リップ-①
東京公演初日の金曜日は、朝からトラブル続きだった。
出演者のスケジュールの関係で、この東京公演だけは初日の朝にゲネプロを行うことが以前から決定していた。だというのに、この日に限って劇場近くの踏切内で接触事故が起き、その影響で朝の通勤通学ラッシュに大変な混雑が生まれ、各道路もあちらこちらで渋滞ばかり起きている状況だったのだ。もっとも、開演自体は夕方のため、さすがにそこまでこの状態は続かないだろうという判断のもと、ゲネプロの開始は予定通りとされたのである。
ちなみにゲネプロとは、本番と全く同じ条件で最後まで通して行う最終リハーサルのことだ。そのため照明や音響はもちろんのこと、演者も衣装やメイクは当然本番と同じように準備が必要になる。そしてその準備にはある程度の時間が必要なため、ゲネプロのスタート時間に間に合うように各自劇場入りする必要があるのだ。
この日のゲネプロ開始予定時刻は、朝の九時から。つまり関係者は全員、それまでに準備を終わらせている必要がある。だが事故の影響で、誰もかれもが本来予定していた時刻よりも遅い劇場入りになってしまったため、全員が朝からバタバタしていたのだった。そしてその影響は劇場のスタッフや、果ては劇場の清掃を受け持っている会社にまで影響を及ぼしており、それらに関するイレギュラーな事態が発生する可能性があると、ゲネプロ開始前に舞台監督から全員に周知されたのである。
防ぎようのないトラブルにより若干予定時刻を過ぎてスタートしたゲネプロだったが、それ自体は特に大きな問題もなく最後に少々の手直しをする程度で終了した。とはいえ事前に知らされていた通り、最後に照明の色味の調整を行っている際に座席の清掃のために人が入ってきたのは、確かにイレギュラーだったと言えるだろう。
「はぁ~……。本当、こんな日に事故なんてやめてほしいよねぇ」
昼食後、いつも通り特定メーカーの水の段ボールを持ち込んでいた仲多は、ゲネプロが始まる前に冷蔵庫に入れていた飲みかけの水のペットボトルを取り出しながら、その場にいる演者たちに向かってそう呟いた。ちなみに各々のマネージャーはそれぞれの理由で席を外しており、この場には不在である。
「劇場の近くで事故がありました、なんて聞いたら、朝から憂鬱になりますからね」
名古屋公演最終日に仲多と軽い言い合いになっていた人物ですら、さすがにその言葉には苦笑を浮かべながらも同意を示した。そんな彼は今回の舞台ではメインの役どころではないが、舞台俳優を多く抱える事務所が次に売り出そうとしている若手俳優の一人である。
「そうだよね! しかもそのせいで、危うく間に合わなくなるところだったし。普段から早めに出るようにしてるからなんとかなったけど、そうじゃなかったら完全に遅刻してたよ~」
言いたいことだけ言って満足したのか、ソファーに座り直した仲多は手に持ったペットボトルの水を喉の奥へと流し込む。その様子を見ながら、用意されていた楽屋弁当の最後のひと口を飲み込んだ蓮も、軽く言葉を添えた。
「あとは開演時間に影響が出ないことを祈るしかないですよね」
「そうだね~」
ペットボトルのキャップを閉めながら仲多が肯定の言葉を口にするが、事故はいつどこで起きるのかなど予測できないから事故なので、こればかりはどうしようもない。それを分かっているからこそ、結局最後は未来の心配をするしかできることはないのだ。
と、ここで仲多が何かに気付いて声をあげる。
「ちょちょっ、蓮くん何してるのっ」
蓮が全員分の食べ終わったゴミを集めて立ち上がったのだが、あまりにも自然な流れで動いているものだからすぐには気付けなかったらしい。対する蓮はといえば、不思議そうな顔をして首をかしげている。
「え? 何って、空になった容器を片付けてこようかなって思って――」
「いやいやいやっ。そんなこと、主演がやらなくていいんだよっ。マネージャーが戻ってきたらやってくれるんだからっ」
「でも、トイレに行くついでなんで。それに主演とはいっても、この中で一番芸歴が浅いのは俺ですし」
アイドルの世界では先輩が直接後輩を指導する機会も多いため、上下関係は比較的厳しく教えられることがほとんどだ。だからこそ、この場では一番下の後輩にあたる蓮が小さな雑務や気配りをすることは、本人の中では当然の習慣として染みついている。作品上の役どころがどうであろうと、それは変わらないことだった。
しかし仲多からすれば、雑務は基本的にスタッフがやるべきことという認識があるらしい。
「だからって、役者がそんなことしなくても……」
「回収場所は通り道にありますし、本当についでなんで。それにさすがの俺でも、ゴミを手に持ってることを忘れてトイレまで行ったりはしないんで、心配しなくても大丈夫ですよ」
「いや、そういう心配はしてないけどね」
「じゃあ、任せてください。行ってきます」
最後は有無を言わさぬような笑顔を見せて、これ以上反論される前に蓮は素早く楽屋をあとにする。そのため、この直後に仲多が「今時のアイドルの子って、みんな蓮くんみたいな感じなのかな?」と呟いた言葉は、蓮の耳に届くことはなかった。
空になった容器を手に廊下を歩く蓮だが、しばらく進んだところで明るかった廊下の電気が一瞬、消えかかっているかのように点滅する。
「あれ……?」
だが、すぐに元の明るい廊下へと戻り、その場で立ち止まった蓮が見上げた先でも今の点滅は幻だったのかと思うほど、照明器具たちはしっかりとした光を放っていた。
「気のせい、ではないと思うけど……」
誰かがどこかで照明のスイッチを誤って押してしまったのかもしれない。そう蓮は自分の中で結論づけて、再び歩き出そうとした、その時だった。
「ないねぇ」
「ソファーの下にも落ちてないよー」
女性用の楽屋の中から、困ったような声が聞こえてくる。どうやら扉が完全には閉まっておらず、話し声が廊下にも漏れてしまっていたようだ。
「淡いピンク色のパッケージなんだよね?」
「はいっ」
「大事なものなの?」
「友人から誕生日プレゼントでもらったリップなんです」
姿は見えないが話の内容と声の感じから、蓮は舞台の相手役である河口愛梨が大切なリップを失くしてしまったらしいとあたりをつける。
「それは大事ね」
「ちなみにそのリップ、本番のメイクで使う予定なの?」
「今までの公演、全部使ってました」
「それは確かに、見つからないと困るね」
さらには、探している理由が友人からの誕生日プレゼントだからというだけではなく、本番でも使用するメイク道具でもあるからとなれば、それは必死にもなるだろう。実際女性用の楽屋からは、その事実を知った誰かの「もう一度探してみようか」という言葉が聞こえてすぐに、あちらこちらで物を動かすような音も漏れてきていたのだから。
とはいえ、今日が東京公演初日であることを考えれば、ゲネプロ前に失くしてしまっていたとは考えにくい。仮に朝のメイク時点ですでに失くしていたのであれば、ゲネプロでは別のリップを使用していたことになるのだから、それを使えば問題はないはずだろう。だが河口は、探しているリップを本番に使う予定だという。つまりゲネプロ前のメイク時点では、まだ手元にあったと考えるのが妥当なのだ。
「見つかるといいんだけど」
リップ一つとはいえ、本番前に急な変更をしなければならないのは、精神的にも負担になるだろう。そうなれば、芝居にもそれが影響するかもしれないのだ。
一抹の不安を抱えながらも、蓮は早く見つかりますようにと心から願いながら、その場をあとにしたのだった。




