歩んでいく道
翌朝。
運ばれてきた朝食を前に、シンシアは思わず聞き返していた。
「誰が、いつ、どこへいったのですって?」
キリカは面倒がることなく笑顔をみせる。
「ディーン様が、つい先ほど、ケルター子爵領へ出かけられました。」
「いつ帰って来るの?」
「明後日と聞いております。」
「セルディス公爵の夜会の日じゃない。」
少々声が大きくなってしまった。キリカは遠いどこかを見る目をしている。
「そうですよね。ディーン様は、夜会には出るそうです。ご本人が大丈夫と仰せなのですから、大丈夫なのでしょう。」
シンシアでは絶対に組めない旅程だ。右肩の痛みから片頭痛を起こして翌日いっぱい動けなくなるせいだ。
ディーンにはその心配がないのだろうけれど、天候に恵まれなかったりと、思いがけない理由で足止めされることもある。
「シンシア様、召し上がってください。もう出立されましたから、どうすることもできません。」
キリカの現実的な言葉に、シンシアは素直に頷いた。
昨夜のシンシアの言葉や、渡した書類に気持ちが動かされたのだろうか。
目の前のスープを眺めながら、シンシアは違うかと思った。エレーナが、ケルター領に受け入れられるかを確認に行ったのかもしれない。
どうやって確認するつもりかは知らないが……。
「午前中は、イニッツがオレンジの件でご指示を頂きたいと申しております。」
キリカが楽しげに今日の予定を告げてくる。
「午後から、公爵様の夜会へ行かれるときの形に、御髪を結わせて下さいね。」
それに微笑んで頷いてから、シンシアはスプーンを手に取った。
内宮に納めるオレンジのことを放りだして行ったディーンに、少しばかり苛立つ。
苛立つ自分にも腹が立つ。誰かを自分の思い通りに動かすことなど不可能なのだから。
キリカが一番楽しみにしていた今日の予定は、明日に繰り越しとなりそうだ。
午前中に前触れがあり、午後にセアラがやってきた。
セアラはお行儀よく、ケルター邸の応接室に腰を据えてしまっている。シンシアの母に、引きとめられたのだ。
「ディーンさんは、エレーナさんとの結婚を、心に決めていらしたのでしょうけど、壁に当たるのは初めてではありませんか?」
セアラの労わりを込めた微笑みに、母は憂い顔を見せている。
「いえ、初めてというわけではないようですの。カゼスさんが、カティス家のご長男の方ですけど、反対をされて。」
それに、セアラが深く頷く。
「カティス子爵夫人がお二人の交際を認めるような話をされている時、カゼスさんがそれを遮られたと聞いたことがありますわ。」
それは本当のことなのか、とシンシアは心の中でセアラに問いつつ、お茶を飲む。
シンシアが黙っているうちにもふたりの話は続く。
「セアラさん、エレーナは内宮ではどんな様子ですの?」
「私、ケルター夫人に涙を流させてしまうかもしれませんわ。」
「まぁ、そんなに、その、良くないのかしら?」
「いえ、あまりに面白くてですわ。」
セアラはにっこりと笑ってお茶を一口飲む。
「ポットから、カップにお茶を注ぐことが出来なかったのです。何故だか、カップから随分離れたところでポットを構えられて、お茶を注ぎ始めましたの。ほとんどカップの中に入らず、お茶が跳ねましたから、いっせいに人がテーブルから離れて……。私、笑いをこらえるのが大変でしたわ。」
「そ、それは、カティス家のメイドたちがそうしてお茶を淹れていますから。」
「そうでしたか。見ていただけでしたら、こぼれるばかりですわね。」
さらりと、お茶のひとつも淹れられないのかと思わせる事を言う。母の笑顔のまま、シンシアを見てくる。目があなたはどうなのと聞いてる気がする。
「大丈夫です、お母さま。珍しい茶葉でなければ淹れられます。ハーブも少しはわかりますし、自分で薬湯も煎じられます。」
シンシアは淡々と告げたが、そこまで必要ではなかったようだ。母が少し引く。
「それは、たくましいわね。」
エレーナがではなく、自分が逞しいと言われ、シンシアは少々複雑な気分になる。
「まぁ、ケルター夫人、それは『たくましい』ではなくて『頼もしい』のですわ。」
笑って、セアラが話を戻した。
「それから、エレーナさんはどこか落ち着きのないところがあって、いつも辺りを見回していますの。どうやら警護役侍女として、警戒をしているつもりのようなのですけど、その姿がなんだかリスのようで。」
微笑ましいものを見たのを思い出しているという顔してから、セアラはいたずらを楽しんでいる目を母に向けた。
「他にも、人慣れない子猫だとか、警戒中の子狐だとか、親を探す子犬だとか、いろいろと仰る方がいらして、何に一番似ているか大激論になってしまいました。」
「そうなの。」
母は、今度はセアラから身を引き気味だ。自分の息子の恋人が、こんなふうに話題にされているのは決して楽しくはないだろう。
「エレーナさん自身は、お友達もいらして、楽しそうにお過ごしですわ。アディード王国の内宮の、それなりに長い歴史の中には、侍女に一人くらいそういう方がいらしても構わないと、私は思います。」
褒めてない。
母が少し顔色をなくしているのを見て、シンシアが申し入れた。
「お母さま、私、少しセアラに見てもらいたいものがあるの。お部屋にお招きしてもいいかしら。」
「もちろんよ。」
母は、寛容さを示すように、ゆっくりと頷く。
「ケルター夫人、エレーナのこと、私が言ったのは秘密にして下さいましね。」
『秘密』の約束はたいてい破られる。無邪気に微笑むセアラの腕を取り、シンシアは応接室を出た。
キリカの先導でシンシアの部屋へと向かう。
セアラはのんびりとした様子でついて来た。
「そう言えば、大激論の結果を言っていなかったわ。結局、警戒中の子犬ということで落ち着いたのよ。シンシア、お母さまにお伝えしておいてね。」
「聞かれればね。」
ため息と共に答える。
シンシアの部屋で、セアラがゆったりとくつろいで椅子に腰かけた。
「あれを聞かされて、息子の嫁にと思う親はいないと思うのだけど。どうかしら。」
軽やかに聞かれて、シンシアはセアラを見据えた。
「わざと聞かせたの?」
「こういう事実を知っておいた方が、縁談が消えても仕方がないと思いやすいでしょう。」
セアラの言っていることはわかる気がする。
平たくいえば、ケルターは、カティスに金を要求する。カティス子爵はエレーナとディーンの結婚を喜んで許したりしないだろう。
シンシアは、昨日、家に帰ってから起ったことを手短に話した。
するとディーンの行動について、セアラが予測を立てた。
「子爵家の果樹園の確認と、街の視察。計画的に行動するなら、いくつか村を見てまわることができるのではない?」
シンシアは、キリカが淹れてくれたお茶のカップを両手で持つ。なんとなく緊張して指先が冷たい。
「エレーナのことで、どんな反応があるか、確認しに行ったのだと思う?」
「それだけのためじゃないと思うけど。」セアラは、クッキーに手を伸ばしている。「それがあるから急いだのでしょうね。セルディス公爵の夜会は明後日だし、エレーナをエスコートする約束をしているのでしょう?」
「そのはずよ。」
シンシアは、カップに目を落としてしまう。
「シンシア。」
呼ばれて顔を上げた。
「ケルター家の将来のことは、ディーンが帰って来るまで動きようがないわ。だから今、あなたが考えなければいけないのは、セルディス公爵の夜会対策よ。」
「夜会対策?」
怪訝な顔で聞き返してしまった。
そうよと言って、セアラがカップをテーブルに戻して、座り直した。つられて、シンシアの背すじもなんとなく伸びる。
「何?」
聞き直すと、がっくり肩を落とされた。
「やっぱり考えてない。シンシアって、嫌な事を遠ざけてしまう癖があるわよね。」
聞き捨てならない事を言われた。
「どうしてそう思うの?」
「わかりやすいのは、学院にいた頃の事よ。レンカード殿下に絶対近づこうとしなかったでしょう。普通は挨拶くらいはするものよ。私、何度もそう言ったわよね。」
そう言われれば、そうかもしれない。関わり合いになりたくないという気持ちから、行動が極端になっていたかもしれない。
「それに、今回のカティス家から賠償金を取る話。『忘れられた法』のこと、実行可能だと思ってなかった。」
視線が泳いでしまいそうになるのを必死で止めた。
「それは、長い間放置されていて、適用されたことなんてなかったし……。」
前例がないといい訳している最中に、セアラが言葉をかぶせて来た。
「ロークの事もよ。私が王都見廻りか辺境送りだと言ったら、自領警護役のことは考えなかった。」
「確かに、そうだけど」
「シンシアは、あの時怪我をして熱もあった。ロークの事を、考えるのも嫌だったのはわかる。」
シンシアを見据えてくる。
「でも、他の人のためならどう?」
「他の人?」
「そうよ。法律士として、相談を受けるの。」
「……私に出来るとは思えないわ。」
ケルター領のためにしてきたことを、他の誰かのためにする。
いや違うと、シンシアは思った。ケルター領のことは、自分のことをするのと同じだ。失敗をしても自分一人の過ちで済む。
けれど他の誰かのためとなると、失敗はそのまま相談者も傷つけることになる。
第一、他の人のために法律士になるなど、今まで考えたことがなかった。
資格を取ったのは、ケルター領のため、自分のサインを世の中に成人として通用させるためだった。
いつかはどこかに嫁ぎ、ケルターを出る。
それは考えていたけれど、資格そのものを役立てようと考えたことはなかった。役立てられると思いもしなかった。
「私は、見習い侍女期間が終わったら、王立学院に戻って歴史の研究をする。だけど、社交界と絶縁するわけじゃないわ。悩みを持っている人たちが相談してくれるなら、引き受けるつもりよ。そのために経験を積む修行先も、もう決めているわ。」
セアラはずっと学院の研究室に籠ると愚痴を言い続けていたから、言葉通り、研究を人生の真ん中に置いているのだと、シンシアは思い込んでいた。
「シンシアと出会っていなかったら、私にはなかった道よ。」
とても静かで、どこか悲しげに見える。けれど何かを覚悟した顔を、セアラが見せた。
「もしシンシアがいなければ、私は法律士のための勉強はしなかった。大変なことだとわかっていたもの。けれど私がシンシアを唆してしまったようなものだから、あなた一人が大変な思いをしているのをのんびり見てることは出来なかった。本当は、資格試験に合格できるなんて、全く思っていなかったのよ。」
当時の事を思い出したのかセアラに笑みが戻る。
シンシアは何とか言葉を返す。
「でも、セアラは絶対出来るって、いつも言ってくれた。」
「シンシアはね。自分のことは無理だと思ってた。私はシンシアほど頭がよくないわ。」
「そんなわけない。誰もが認める論文を書いたじゃない。」
「あれは根気の産物よ。オレンジと同じ。歴史が好きだから出来たことよ。だから、法律士の資格試験に合格した時は、心の底から驚いたわ。そして私の人生は変わった。私に出来ることが増えてしまった。」
胸の奥にあった何かをギュッとつかまれたような気がした。結婚したら出来ることはもうない、そう思っていた。それ以前に、ディーンに今までしてきた事を引き継いでしまったら、シンシアの手の中には何もなくなる。
「私は、怖がりだわ。」
シンシアは気持ちを吐露した。
「セアラが指摘した通り、たくさん嫌な事から逃げて来た。そんな私に出来るの?」
「王立学院、女学生の掟を忘れた?」
セアラがいつもの少し悪い笑顔を見せた。
「互いに助け合う。それは卒業後も変わらないわ。まぁ、その輪から外れた人もいるし、卒業後は『報復』は禁止だけどね。」
「法律知識と人脈。」
シンシアは小さくつぶやいた。それは今までもシンシアを助けてくれた。今度はシンシアが誰かを助ける番かもしれない。
「私にできるかしら。」
聞くともなく聞いた。
「もう一度あなたを唆すわ。」
セアラがそんなふうに言った。
「やるのよ、シンシア。学院を卒業した元女学生たちが続けて来た事よ。次の世代の女の子たちのために、未来を引き継ぐの。」
「続けて来たこと?」
今日は聞き返してばかりだ。
「そうよ。一人でも多くの女性の人材を、法的に認めさせて実績を上げるの。前例を作るのよ。今はまだわずかな数で、ささやかな存在だけど、気がついた時には見なかったことにも、潰すこともできない。そういうものになるの。そうすれば女性の行政官だって、女性騎士だって、存在しても当たり前になる時代が来るわ。」
次の世代だなんて考えたこともない。シンシアは十六才になったばかりなのだ。
セアラが少し肩をすくめた。
「王弟妃さまの受け売りだけどね。」
公爵家出身の王弟妃は、王立学院卒業生だ。
「シンシアは、もう立派な業績を上げてる。公的記録にも残る。」
「え?」
「王家御用達としての誓約書は永久保存よ。昨日、あなたがした署名は、内宮で保管される。何百年も先の未来で、私みたいな歴史研究者が、あなたの名前を見つけるの。わくわくしない?」
目の前のことさえ考えていなかったのに、何百年も先のことなど思いもつかない。
話について行けずにいるうちに、セアラが明後日という現実に話を戻してきた。
「話が大きくそれてしまったわね。そちらはゆっくり考えて。今は、目先の対策を立てなくては。公爵の夜会よ。」
「えっと、何だったかしら。」
セアラの話についていけない。
「カイルとエレーナよ。」
カイルと聞いて、緊張した。自分の中では勝手に終わっていたが、カイルには終わっている自覚はないだろう。
「カイルの事はどうする?」
心配の色がセアラの目の中に見える。
「ケルターはシアーズを手放せません。ご縁がなかったようです。もとより子爵家の娘が侯爵家に嫁ぐなど、分不相応でございます。キルティ卿のお幸せをお祈りしております。」
自分でも意外なくらい、言葉が出て来た。セアラに笑って見せる事も出来る。
「そう言えるようにがんばるわ。」
「それでいいの? カイルは、ご親戚方ともう一度話しあうかも。キルティ侯爵は賛成されているのだもの、時間をかければ問題は解決するかもしれないわよ。」
「いいの。」
泣きたい気分にならないのが、シンシアは自分でも不思議だった。ただ落胆があるのみだ。
部屋に残っている花を、シンシアはぼんやりと見つめた。
「まるで物語みたいだった。夜会で助けて頂いて、私のために怒って下さって、お見舞いの花を届けて下さった。お手紙のやり取りもたくさんして…。あんまり素敵すぎて、夢みたいだった。」
ゆっくりとテーブルの上のお茶のカップに視線を落とす。
「考えてみれば、数えるほどしか会ったことがないわ。お手紙のやり取りで、親しくなったような気持ちになっていたけれど、シアーズを私の名義にって話を聞いたとたん、そんな気持ちは弾け飛んでしまったわ。」
難なく笑えてしまう自分は、本物の恋をしていなかったのかもしれない。
少し上目づかいでセアラを見て、告白した。
「セアラは言ったわよね。甘い言葉にぼんやりさせられたら駄目だって。本当はね、騙されても仕方がないかなって思ってたの。」
「シンシア。」
少し困ったような顔をしたセアラに、明るく聞こえるように、シンシアは声の調子を上げた。
「物語みたいに、キルティ卿と親しくなりたいご令嬢方に、冷たくされないうちに、身を引きます。」
「わかったわ。カイルを鍛え直そうかという話も出ていたのだけど、私も手を引く。」
セアラから、思わず聞き返したくなる言葉が出てきた。
鍛え直す?
話が出ていたって、いったいどこで?
セアラが手を引いてもそれは実行されるの?
けれど、シンシアは、それには触れないことにする。
レンカート殿下、キルティ公爵、王太后さま、王弟妃さま。
うっかり聞き返して、どなたの名前が出てきても返答に困る。
セアラもそれ以上言う気はないようで、次の問題に移った。
「エレーナはどうする?」
「どうって。」
シンシアは小首を傾げた。
「挨拶する?」
セアラがまた肩を落とす。
「いつもは、シンシアから挨拶に行っていたでしょう。」
「駄目よね?」
「当然よ。」
きっぱりと言われた。
「いつも通りだと、ロークの事は許したように思われる。そんなことをしたら、他家の方々にも侮られるわよ。何といっても、王家の夜会での暴挙なのだから。」
セアラはまだ相当怒っている。一緒に怒ってくれるのは嬉しい。
こんな話なのに、つい笑顔になってしまう。
「わかった。私からは行かない。もしエレーナから来られたら……、そうね、最低限の挨拶だけして、その場からすぐ離れる。」
「本当はディーンにも、嫌みを言っておきたかったのだけど。」
はっきり『嫌み』と言った。
シンシアは左手をそっとこめかみに置いて、沈黙した。
兄がいたらどれほど殺伐とした状況になっていたかと考えると、領地に行っていてくれてよかったと心から思う。
「シンシアのお母さまも、ロークのことはかなり怒っていたから、カティス家の人たちには自分から近づかないと思うけど、念のため、ね。」
警戒心をおこさせないエレーナの明るい笑顔は、確かに母からいつも通りの親愛の情を引きだすかもしれない。
つまり、エレーナの内宮での話を吹き込んだのは、それを阻止するためだったのか。
可愛いだけで通用するのは、子どもだけだ。
「ロークの暴力事件のせいで、ディーンとエレーナの恋の行方は、社交界で話題になってる。これからカティス家に対してケルター家が起こす申し渡しも、すぐ知れ渡るわ。たぶん『家のために引き離された悲恋』っていうことで、同情を引けると思う。」
セアラは淡々とそう言い、クッキーに手を伸ばしている。
これは聞き返さないではいられなかった。
「ディーンが、エレーナと別れると思う?」
「カティス子爵が許さないでしょう。ケルター子爵もそうでしょう? 無理を通せば反発が生まれるわ。特にケルター領の人たちにね。ディーンに必要なのは、彼の仕事を助けてくれるケルター領の人たちの信頼でしょう。時間があれば、エレーナは受け入れられるかもしれない。けれど、今の彼に、その時間がある? 賠償金請求は時間稼ぎに過ぎないわ。シンシアが起こした事業を早急に展開してケルター領を立て直さなければ、いつまでも危うい状況が続く。なにより、ディーンがエレーナと出会ってから十年もあったでしょう? 子どもの時の方が、受け入れてもらいやすかったはずよ。充分な時間があったのに、それを怠ったのはディーン自身の責任だわ。」
厳しい言葉だと思う。当時ディーンは十才だ。
けれど同じ年頃には、シンシアはケルター領の状況を知っていたが、子どもに出来ることは少ないのも良くわかっている。
「お兄さまは、大丈夫かしら。」
今頃はもう、ディーンは領主館に到着しているだろう。何をしているのだろう。
一瞬で泡のように消えてしまった自分の恋と違って、ディーンはずっとエレーナだけを見て来たのだ。
感傷的な気分を吹き飛ばしたのは、セアラの言葉だった。
「しばらくは、八つ当たりされるかもね。どこかの子爵の後添いにって話、消えてないのでしょう。」
そうだった。
「まさか、八つ当たりで私を結婚させるなんて、ないわよね。」
今度は間違いなく泣いてしまいそうだ。
「潰しましょう。」セアラが笑顔で言う。「明後日の夜会が楽しみだわ。」
シンシアは目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をした。
それからセアラを見る。
「助けてくれる?」
「私がどうしてここにいると思うの?」
優しく問われた。
「言っておくけど、学院の女学生の掟に従っているんじゃないわよ。シンシア・ケルター。」
それだけで、すべて大丈夫な気がした。そう思ったとたん、心が揺れた。
安心を得て、涙が込み上がってくる。
「ありがとう。」
シンシアは小さな声に心を込めた。
セアラが帰って行く馬車を見送っていると、キリカがそっと話しかけて来た。
「シンシア様が、ケルター領のお仕事以外の事をされているお姿を、考えたことがありませんでした。」
シンシアが振り返ると、キリカはまだ馬車が行ってしまった方を見ていたが、すぐにこちらに顔を向けて来た。その微笑みがどこか寂しそうに見える。
「セアラ様が、シンシア様に他の誰かのために相談に乗れるのかどうかを聞かれた時、将来の話をされた時、胸を強く掴まれたような気がしました。一番近くでお仕えしておきながら、私は。」
シンシアは、キリカの左手にそっと手を添えた。
「私は考えたわよ。あなたの将来の事。」
今こそ、からかってやる時だ。キリカの目を覗きこむ。
「ギャッドと結婚したら、領地から一緒に来てもらうことは出来なくなるわね。」
「シンシア様!」
真っ赤になってキリカが声を上げる。澄ました顔で立っている執事とシンシアの間で、キリカの視線が忙しなく動く。
「と、とんでもありません。私、私。」
キリカを落ち着かせるようと、彼女の腕をトントンとたたく。
「少し遅くなったけれど、夕食までまだ時間があるわ。夜会用に髪を結いあげてみてくれる? セルディス公爵の夜会では、かなり頑張らなくてはいけないようだから、大人っぽくお願いね。そうそう、ドレスの飾りの売り込みもしっかりしなくちゃ。春の夜会では、見てもらうことが出来なかったもの。」
まだケルター領のために出来ることはある。その先のことも急がなくて大丈夫。
夏は始まったばかりだ。
その冬、シンシア・ケルターは会計の専門家として最初の依頼を受けることになる。
この時代から後のアディード王国史に、王家以外の女性の名が増え始める。
後世、シンシアとセアラは、「女性同士の間に友情は成立するのか」、「アディードにおける女性の地位向上の草分け」など、切り口を変えていくつもの物語の主人公となる。
その理由は、この時代、ふたりが関わった領地の識字率の高さにある。自分たちの姫君、奥方様に関する多くの資料が残されているのだ。それだけは、誰にも否定できない事実である。
拙い文章に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。