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第9話 作戦失敗と拘束

【前回までのあらすじ】マレーヤでラザクの命と引き換えに託されたデータキューブ解析のため日本へ帰国する紅梅は、機内で自身の過去を振り返る。紅梅の記憶に深く刻まれた、忌まわしくも切ない始まりの記憶だった。

「煙草を吸ってくる。戻るまでに起こしておけ」


二人の尋問官のうち、大柄な方が低く吐き捨てた。 小国の国境沿い、生い茂る密林の奥深くに不気味に沈黙する隔離施設。


五十嵐はその地下深くにある尋問室に囚われ、終わりなき地獄の中にいた。


完全な誤算だった。 データの受け渡し地点で待ち受けていたのは、大国が放った直属の工作員たちだった。信頼していたアセットの裏切り。


最悪のシナリオを警戒し、念のために同行させていた二人の諜報員は、武装した8名の敵工作員により蜂の巣にされ死亡。残った五十嵐は拘束された。


五十嵐は衣類をすべて剥ぎ取られて全裸にされ、両手首を頑強なロープで縛られ、腕を天井に伸ばした状態で吊るされていた。


足の爪先が、冷たいコンクリートの床にギリギリ届くかどうかという残酷な高さ。度重なる過酷な肉体的苦痛により、彼の意識はすでに半分沈みかけていた。


煙草を吸いに行った男が、重い鉄扉を開けて出ていく。閉まる扉が、ガチャンと不吉な金属音を室内に響かせた。


部屋に残ったもう一人の尋問官が、五十嵐の肉体を激しく痛めつけた拷問器具を、銀メッキの剥がれかけたキャスターテーブルの上へと放り出した。「カチャリ」と冷たい音が響く。


男の気配が、一歩、また一歩と近づいてくる。吊るされた五十嵐の網膜の奥で、停止しかけていた思考の火花がパチパチと光を放ち始めた。


(相方は外へ出た。今、この部屋にいる敵は一人)


五十嵐はだらりと首を垂らし、完全に意識を失った体を装いながら、酸欠寸前の脳で最後の「一手」を静かに計算していた。


五十嵐の近くまできた男は、ポケットから小さなプラスチック製のアンプルを取り出す。気絶した人間の鼻腔を強烈な刺激臭で強制的に灼き、強引に目覚めさせる気付け薬、アンモニア・インヘラントだ。


五十嵐の鼻の前で男が指先でアンプルを「パチン」とへし折った次の瞬間、五十嵐の体内で、死に体だった細胞が一斉に牙を剥いた。


気絶したと思わせていたのは、この一瞬の油断を誘うためだ。五十嵐は辛うじて床に触れていた両足の爪先に全神経を集中させ床を蹴った。


同時に、縛り上げられた両手首で吊り下げロープを固く掴み、ありったけの力で体を天井へと引き上げる。


「なっ!?―」


驚愕する尋問官の視界が跳ね上がるより早く、五十嵐の剥き出しの両脚が男の首を挟み込んでいた。右足首と左の膝裏を強固にクロスさせる。


格闘術における「三角絞め」の形だ。五十嵐の脚は男の頸動脈を確実に捉えていた。


男は狂ったように暴れ、五十嵐の脇腹を拳で殴りつけてくる。肋骨が悲鳴を上げたが、脚の鎖を解くわけにはいかない。解けば死だ。


五十嵐は歯が砕けんばかりに噛み締め、頸動脈へ全体重を乗せて締め上げた。数秒後、男の身体から急速に力が抜け、引きずられるようにして床へ崩れ落ちた。


息を荒々しく吐きながら、五十嵐は宙吊りのまま下を見下ろす。男は気絶した。だが、まだ自分は囚われたままだ。


五十嵐は器用に右足の親指と人差し指を動かし、男のベルトにあるナイフの柄を挟み込んだ。ゆっくりと引き抜く。冷たい鋼の刃が鈍く光った。


次は、このナイフを頭上の手首まで届けなければならない。


腹筋の力だけで下半身を吊り輪の体操選手のように持ち上げようとするが、何日も水を与えられていない肉体は無情にも重力に逆らえない。


縛られた手首の引き千切れそうな痛みが限界を告げる。その時、視界に横たわる男の肉体が映った。五十嵐は両脚を伸ばし、男の背中に足の裏を預けた。


踏みしめると、自重が分散され、ピンと張り詰めていた手首を吊るしていたロープにわずかな「たるみ」が生まれた。


(今だ!)


五十嵐は男の背中を全力で蹴り上げ、その反動を利用し、バク転の要領で背中を激しく反らす。キチキチと手首の肉にロープが食い込み、皮膚が裂ける音がする。


しかし、遠心力を得た爪先のナイフが、縛られた手首の前に到達した。その時、掴んだのはナイフの柄ではない。剥き出しの刃(ブレード)だった。


鋭利な鋼が手のひらを深く切り裂き、鮮血が腕を伝って流れ落ちる。だが、アドレナリンに支配された脳は痛みなど感じない。


五十嵐は血塗れの手にもう片方の手を添えて柄へと持ち替え、己を吊るすロープを一気に切断した。


ドサリと、冷たいコンクリートの床に全身を叩きつけられる。悶絶する間もなく、手首のロープにナイフを滑らせて切断した。


自由になった両手で、血を滴らせながらナイフを握り直す。その時、カチャリと最悪のタイミングで鉄扉のロックが外れた。


煙草の臭いを漂わせたもう一人の尋問官が、部屋の中の異常な光景に目を見開く。男の手が腰の銃へと伸びかけた。だが、五十嵐の踏み込みの方がわずかに早かった。


手首の血を撒き散らしながら間合いを詰め、男が銃を抜くより早くナイフの切っ先を男の喉元へ深く突き刺した。

【あとがき】今回は9話、10話の同日配信します。紅梅元、もとい五十嵐潤の壮絶な過去の体験…思い出すだけでも身の毛がよだつ戦慄の記憶ですが、彼の中ではそれが「生」への原点へと結びつきます。次回もご期待ください。


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★本作品はフィクションです。物語に登場する人物、団体、組織、地名、イベント、ならびに一切の国家・政府機関・外交関係の描写はすべて架空のものであり、実在のいかなる対象とも関係ありません。また、作中で扱われるいかなる思想、主張、政治的立場、歴史的解釈についても、特定の立場を支持・肯定・非難する意図は一切ありません。

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