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第10話 混乱と脱走

【前回までのあらすじ】紅梅、もとい五十嵐の記憶に深く刻まれた、忌まわしくも切ない始まりの記憶。アジアの小国における作戦失敗により拘束された五十嵐は自力での脱出を試みる。

地獄の拘束から解放された五十嵐は、数分の間、冷たい床に倒れ込んだまま天を仰いでいた。


激痛と酸欠で視界の端から急速に闇が広がり、このまま永遠に意識を失ってしまいそうだった。だが、すんでのところで踏みとどまり、本能が彼の眼に光を連れ戻す。


(動け。ここから脱出するんだ)


軋(きし)む身体を無理やり引き起こし、部屋の周囲を見渡す。床の隅に、自分が着ていた衣服が無造作に放り出されていた。


血まみれのTシャツ、拘束時に強引に引きちぎられて破れたズボン、そして泥まみれのスニーカー。


衣服を身に纏(まと)うたび、引き裂かれた手のひらの傷がズキズキと悲鳴を上げたが、構わず身体を布切れの中にねじ込んだ。


視線を床へ落とすと、2人の男が横たわっている。


先ほど喉元をナイフで仕留めた尋問官の腰から拳銃を引き抜いた。


さらにその死体を貪(むさぼ)るように漁(あさ)ると、タクティカルベストのポーチに、【手榴弾らしきもの】が収められていた。


局の訓練でも実戦用の手榴弾(グレネード)など触れたことはない。だが、安全レバーを握り込み、ピンを引き抜いて標的へ投げつけるだけだという知識は、机上論として頭の片隅に残っていた。


幸運はまだあった。キャスターテーブルの上に、男たちが飲み残したウォーターボトルが2本、ほぼ手付かずのまま置かれていたのだ。


五十嵐はキャップを開け、夢中でその水を体内へ流し込んだ。


喉を灼くような渇きが癒え、細胞の一つ一つに水が行き渡るにつれて、わずかだが思考力の回復と、肉体に力が戻るのを感じた。


手榴弾を破れたズボンのポケットへ深く押し込み、奪った拳銃のグリップを汗と血が混ざった手で強く握り締める。


五十嵐は音を立てぬよう細心の注意を払いながら、監禁室の重い鉄扉をゆっくりと外側へ押し開けた。


扉の隙間から通路の安全を凝視する。人の気配はない。どこが出口なのか、方位すら定かではなかった。


五感のすべてが疲弊した今、頼れるのは生き残ろうとする野生の勘だけだ。構造からして、おそらくここは地下の監禁区画だろう。


ならば、どこかに地上へ繋がる階段かエレベーターがあるはずだ。


(あの二人は完全な密室で、音も立てずに始末した。死体が発見されるまでには、

まだ猶予がある。冷静にやれば、絶対に抜け出せる)


五十嵐は破裂寸前の心臓をなだめるように、頭の中で呪文のように何度も自分に言い聞かせた。


拳銃のグリップを握り締め、冷たいコンクリートの通路を進む。入り組んだ角をいくつか曲がる。思った以上に広大な施設のようだ。


その瞬間、最悪のタイミングで曲がり角から二人の男が現れた。距離、約30メートル。互いの存在を認識した刹那、五十嵐は迷わず銃口を向け、トリガーを引いた。


鉢合わせた男たちも、突きつけられた銃口に反射的に顔を覆い、上半身を大きくのけぞらせる。だが、響いたのは、乾いた金属音だけだった。


「カチッ」


弾が出ない。初弾を薬室に送り込む「スライドを引く」という初歩的な動作を、焦りのあまり忘れていたのだ。


五十嵐の脳内が一瞬で真っ白なパニックに染まる。男たちもまた、恐る恐る顔を覆っていた指の隙間から、引き金を引いたまま固まっている五十嵐を覗き込んだ。


生死を分かつ極限のシリアスな状況であるはずが、そこにはあまりにも奇妙で滑稽な「無音の間」が生まれた。


先に硬直を解いたのは五十嵐だった。「クソッ!」と心の中で叫びながら、役に立たない拳銃を敵に向けて投げ捨てると、全速力で今来た道を引き返した。


巨大な足音が追いかけてくる。背後で男たちが「止まれ!」と何ごとか叫んでいるが、鼓膜を打つ激しい心音のせいで五十嵐の耳には一切届かない。


必死の思いで通路の角を曲がった。しかし、神はどこまでも無慈悲だった。通路の向こう正面から、さらにもう一人の男が歩いてくるのが見えた。


前後を完全に塞がれた挟み撃ち。絶体絶命の瞬間、五十嵐の視界の右端に、上へと伸びる階段が飛び込んできた。考えるより先に身体が動いていた。


無我夢中で階段を駆け上がる。最上段のドアに辿り着き、狂ったようにドアノブを回すが、非情にもビクともしない。


施錠されている。逃げ場を失い、完全に追い詰められたその瞬間、五十嵐の脳裏に電撃のようなひらめきが走った。尋問室の死体から剥ぎ取った、あの手榴弾だ。


ズボンのポケットから強引にそれを引き抜く。安全レバーを必死に握り込み、震える指で割ピンを引き抜いた。


階段の下から、追跡してきた三人の男たちの影が迫るのが見えた瞬間、五十嵐はありったけの力でそれを投げつけた。


本来、こうした閉鎖空間の階段で手榴弾を使う場合、優しく下へ転がすようにアンダースローで滑らせるのがセオリーだ。


しかし、実戦経験ゼロの諜報員にそんな技術があるはずもない。完全にパニックを起こした五十嵐が放ったそれは、階段下の壁に激しく激突し、乾いた音を立てて通路へ跳ね返った。


コツン、と床を叩いた硬質な金属音。だが、プロの兵士たちを恐怖に陥れるには、その音だけで十分だった。


「グレネーーーード(手榴弾)!!!」


先頭の男が雷鳴のごとき大声で絶叫した。


その瞬間、三人の男たちは一目散に散らばり、爆片の遮蔽角となる通路の角をめがけて、まるで飛び込み選手のように必死にダイブした。


床に伏せ、耳を塞ぎ、衝撃波に備えて身を硬くする。誰もが凄惨な爆発を予期した、その数秒後。


「プシューーーーーッ……」


響いたのは、拍子抜けするほどマヌケな噴射音だった。爆発の衝撃波の代わりに通路を満たしたのは、視界を真っ白に染め上げる濃密な煙だ。


五十嵐が手榴弾だと思って投げつけたそれは、ただの「スモークグレネード(煙幕弾)」だった。

【あとがき】今回は9話、10話の同日配信です。囚われの身から脱走に成功した五十嵐。果たして無事に脱出できるのか。次回もご期待ください。。


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★本作品はフィクションです。物語に登場する人物、団体、組織、地名、イベント、ならびに一切の国家・政府機関・外交関係の描写はすべて架空のものであり、実在のいかなる対象とも関係ありません。また、作中で扱われるいかなる思想、主張、政治的立場、歴史的解釈についても、特定の立場を支持・肯定・非難する意図は一切ありません。

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