第7話 紅梅の過去
【前回までのあらすじ】国家情報局のマレーヤ支局へ到着した紅梅は、支局長の岩下へラザクの死、GISAとの逃走劇を報告する。岩下は日本の本部でデータキューブのを解析するよう紅梅に帰国を命じる。帰国途中の機内で紅梅は自身の過去を振り返る。
紅梅元。2052年生まれの28歳。本名は五十嵐 潤。彼が本名を捨て、過去のすべてを抹消したのは2年前のことである。
誰もが疑わないエリート街道の体現者だった。一流大学を首席クラスで卒業し、国家公務員試験(旧一種)を上位で突破。
本来であれば外務省に入省し、洗練されたスーツを纏って華やかな外交舞台を歩むはずの人生だった。
その運命を大きく変えたのは、学生時代に半ば気まぐれで足を運んだ、就活フェアでの出会いだ。
この時代、国家情報局は優秀な学生を青田買いするため、一般の就活市場へ普通にブースを出展している。
21世紀中盤以降、日本の国力が劇的に向上し、国際社会における地政学的地位が跳ね上がる過程で、日本政府は海外での情報戦・諜報活動へ文字通り桁違いの予算とリソースを投じるようになっていた。
過去の歴史を振り返れば、かつての日本には諜報機関など存在しないに等しかったが、今やそのシステムは完全に変貌している。
選び抜かれた優秀な“種子”を、外務省や大手商社、メガバンクなどの民間企業に紛れ込ませ、合法的な身分を持ったスパイとして世界各国へ送り込む。
映画さながらの高密度なスパイ工作網が、この時代の日本には確立されていた。
それゆえに、ネット上の陰謀論には事欠かない組織だが、そのミステリアスな実態に惹かれ、毎年数万人のエリート学生がエントリーシートを提出する。
しかし、書類選考を通過し、面接へと進む者はごく僅かだ。五十嵐は、その狭き門をくぐり抜けた数少ない一人だった。
国家情報局の採用面接は強烈の一言に尽きる。防音仕様の静寂な面接室で、面接官たちは五十嵐の過去をすべて掌握していた。
生い立ちや家族構成はもちろん、友人関係、果ては本人すら忘れかけていた昔の恋人の事まで。自身の人生を完全に裸にされている事実に、寒気すら覚えた。
採用にあたって弱点や不審な点がないか、国家権力を総動員した徹底的な身辺調査が行われていたのだ。
さらに、旧時代の遺物とも言える古典的な「嘘発見器」を取り付けられての質疑応答もあった。
現代の技術からすれば、あのような機械自体に科学的な嘘を見抜く精度はない。しかし、狙いは別のところにあった。
異様な機械を装着された人間の心拍数の変化、視線の泳ぎ方、発汗、そして窮地に立たされた時の受け答えのトーン。
極限状態における一挙手一投足を、面接官たちは冷徹な観察眼で見極めていたのである。
数日後、手元に一通の内定通知書が届いた。封筒の中に入っていたのは、わずか一枚の紙切れだった。
そこには一行「諜報員訓練課程への参加を許可する」とだけ記されていた。集合日付も、場所も、時間すらも書かれていない。
この手紙を受け取った瞬間から、すでに諜報員としての最初の訓練、選別は始まっていたのだ。
五十嵐は手紙から場所と集合日時を割り出した。指定された場所に辿り着くと、巨大な施設があり、そこには数十名の同期がいた。
五十嵐と同じ新卒の若者もいれば、すでに社会人経験を積んできたと思われる30代手前の人間も混ざっている。
経歴はバラバラだったが、全員に共通している点が一つだけあった。それは、誰もがどこか「変わり者」であるという点だ。
組織の駒として盲目的に従順すぎる人間は一人もいない。かといって、青臭い反骨精神で無意味に反抗するような者でもない。
与えられた目的を達成するために、既存のルールに縛られず「より合理的で、より確実な方法はないか」を常に模索し続ける人間。
国家情報局が求めているのは、そのような種類の人間だった。
訓練課程は大きく二つに分かれていた。前半の座学では、現役のトップ分析官たちが教壇に立ち、濃密な講義が驚愕のスピードで進行した。
世界各国の複雑な権力構造、巨大テロ組織の資金源、違法兵器の流通ネットワークといった「表には決して出ないリアルな国際情勢」を頭に叩き込む。
さらには高度な暗号・データ分析手法、読唇術、そして人間の心理を掌握して協力を取り付けるヒューミント(対人諜報)の技術に及んだ。
その情報量と習得スピードは、一流大学の講義などお遊びに思えるほど苛烈極まるものだった。
後半の実技では、純粋なスパイとしての生存・潜入技術が教えられる。尾行を撒く、あるいは自身への尾行をいち早く検知するテクニック。
瞬時に人物の身体的特徴や室内の物体を識別・完全記憶する空間認識能力。市街地を最短ルートで突破するための逃走術。脳内に完璧な三次元地図を描くナビゲーション力。
そして護身術から、日常品を凶器に変える暗器の使用法、各種銃火器の扱い、果ては拷問に耐える技術まで、身体に恐怖と技術を文字通り染み込ませていった。
この狂気的なカリキュラムの過程で、同期の半分は精神と肉体を疲弊させ、静かに脱落していった。すべての訓練を生き残り、最終的に合格を掴み取った者だけに、それぞれの能力に適した最初の「配属先」が言い渡されることになる。
【あとがき】主人公・紅梅元の過去、所属する国家情報局とは。その片鱗が少しずつ解き明かされていきます。次回も引き続き、紅梅の過去をお届けします。ご期待ください。
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★本作品はフィクションです。物語に登場する人物、団体、組織、地名、イベント、ならびに一切の国家・政府機関・外交関係の描写はすべて架空のものであり、実在のいかなる対象とも関係ありません。また、作中で扱われるいかなる思想、主張、政治的立場、歴史的解釈についても、特定の立場を支持・肯定・非難する意図は一切ありません。




