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第4話 繁華街の逃走

【前回までのあらすじ】マレーヤ国内でラザクとの再会を果たした紅梅。受け取った情報を狙ってGISAの工作員が忍び寄る。情報の鍵となる解除コードは後で送るとラザクは言い残し、二人は工作員から逃れようとする。

「なっ……!?」


GISAの工作員たちは突如、全力で走り出した紅梅に一瞬の虚を突かれた。


スマートなスパイの仮面を捨て去った紅梅は、猛然と繁華街の雑踏へ飛び込んだ。工作員たちも一斉に走り出し紅梅を追う。紅梅との距離は30メートルほどに開いた。


これだけの距離があれば十分だ。どこか良いタイミングで道を曲がり群衆に溶け込んで逃走劇は終了。そんなシナリオが頭をよぎる。


しかし、走っている方向に見えた人影がこちらに気づき、次の瞬間、こちらに向かって走ってきた。


(くそ、他にもいるのか!)


紅梅はとっさに左にあった細い路地へ入り込んだ。前後からの追手も同じく左の路地へ入る。紅梅は路地に転がっていた空き缶やバケツを蹴飛ばしながら必死に逃げた。


やがて路地の先が薄くぼんやり光り始めた。街灯が見える。その先は行き止まりで袋小路だった。背後から迫る追手、しかし紅梅は焦っていない、むしろチャンスの糸口が見えていた。


行き止まりの壁の前にはゴミ箱が置いてある。紅梅はそれを踏み台にして一気に壁へ跳躍した。そ


こから古びた雑居ビルのエアコンの室外機に飛び移り、非常階段の鉄柵をつかみ、そのまま屋上へと駆け上がる。紅梅を追っていた工作員は、ビルから別のビルに飛び移る紅梅を地上から目撃した。


すぐさま無線で紅梅の逃走経路を伝え、来た道を引き返す。紅梅は手ごろなビルを見つけると、そのビルの壁面に付いていた鉄パイプをスルスルと滑り降り、地上に立った。


(上手くいったか!?巻けたか?)


少し歩いて息を整えたが、次の瞬間、黒い2人の影がこちらに向かって走ってきた。


(クソ!しぶとい連中だ)


再び全速力で走り出した瞬間、紅梅の耳元を何かがかすめた。


(銃弾ではない、銃声はしなかった。何だ・・・麻酔銃!?)


工作員たちは紅梅を生け捕りにしようとした。もし麻酔銃で眠らされて拉致されたら…その時はいっそ、あの時死んでいたほうがマシだったと思うだろう。


紅梅の脳裏に一瞬の恐怖とその時の光景がよぎった。しかしその衝動に乱されることなく、すぐに思考をリセットした。


(今は全神経を集中して逃げ切るんだ)


スパイとして受けた訓練の賜物だった。麻酔銃の弾速は拳銃に比べれば遅い。


射線を切るため、直線ではなく、密集する露店の陰に入ったり、積み上げられたスコール用の土嚢や街灯を蹴りつけながら不規則なジグザグで加速していく。


やがて追手との距離が開いてきた。再びダストボックスを見つけると、それを踏み台にして繁華街に面した通りに抜ける壁に飛び乗り、民家の屋根に飛び移った。


トタン屋根を激しい音とともに駆け抜け、観光客で溢れている大通りの雑踏をめがけて飛び降りた。一瞬周囲は何事かと紅梅を見たが、誰一人気にするものはいなかった。


追手を振り切り群衆の波に姿を消した。


追手を振り切る激走の最中でも、紅梅の脳細胞は冷徹に機能し続けていた。闇雲に逃げていたわけではない。


この街に点在する国家情報局のセーフハウス(隠れ家)──その位置とルートは、事前に脳内へ叩き込んであった。


途中で敵の増援に阻まれ、当初の予定より大きく迂回を強いられたものの、目指す方角に狂いはなかった。


繁華街の喧騒から3ブロック離れた裏通り。湿った夜気の中に青白い蛍光灯の光がうっすらと浮かび、年季の入った雑居ビルが墓標のように並ぶエリアだ。


強烈な香辛料の匂いを漂わせる商店を通り過ぎた先にある「For Rent」の煤(すす)けた看板。それこそが、目指すビルだった。


追手がいないことを確認し、ビルに入る。カビの匂いが立ち込める狭い階段を地下へ降りた先に現れたのは、無機質な黒い鉄扉だ。


ドアノブすら存在しないその扉の中心には、周囲よりわずかに肉薄になった、大きな真円の模様が刻まれている。


「たしか、4時25分だったな」


紅梅は息を整えながら、その円模様を時計の文字盤に見立てた。4時25分が示す短針と長針の位置を円模様に重ね合わせ、4と5の数字が位置する場所の中間部分を指で押し込む。


『カチリ』と小さな金属音が鳴り、その部分が沈み込む。指を離すと『パカッ』と小さなカバーが開いた。中から現れたのは、緑色に点滅する指紋認証端末だ。


紅梅が右手親指の腹を強く押し当てると、今度は「カチャ」とロックが解ける音が響き、黒い鉄扉が静かに奥へと開いた。


倒れ込むように中へ入り、背後の鉄扉を完全に閉ざす。外界と断絶された安全な空間──そう認識した瞬間、緊張で極限まで張り詰めていた全身の筋肉から一気に力が抜けた。


膝の関節が笑い、視界がぐにゃりと歪む。倒れそうになる身体をどうにか壁に預けたが、直後、胃の底から猛烈な身体への拒絶反応が突き上がってきた。


目に入った洗面台へよろめきながら駆け寄り、這いつくばるようにして激しく嘔吐した。蒸し暑い東南アジアの夜中を、一体何分、全開のパルクールで疾走し続けたのか。


限界を超えていた身体の臓器が狂ったようにうねりをあげている。


(……ハァ……、ハァ……ッ……)


喉を焼く胃酸の痛みに耐えながら、紅梅はそのまま洗面台の下の床へずり落ちるように腰を下ろした。冷たいコンクリートの感触が心地よかった。


(逃げ切った……。今回も、生きてる。俺はまた、生き延びたんだ)


外の光が一切届かない暗い地下室で、紅梅は自分の胸の鼓動を確かめるように深く息を吸った。


死の境界線を紙一重で潜り抜けた直後、いつも決まって訪れる圧倒的な「生」の実感だった。次第に呼吸の乱れが収まり、脳内を支配していたアドレナリンが潮が引くように去っていく。


(ラザク……お前は無事か)


ふと思い出し、ポケットからデータキューブを取り出した。指先で触れて確認するが、傷や外傷はない。無事だ。一体、この中にどんな秘密が眠っているというのか。


GISAの工作員たちが、あれほどなりふり構わず、必死になって奪いに来るほどのデータだ。ただの外交問題では済まない何かが、この中にある。


一息つくと、紅梅は部屋の隅に積み上げられていた備蓄用の段ボールをこじ開けた。ペットボトルの水を取り出し、もどかしい手つきでキャップをひねり開けると、乾ききった喉へ一気に流し込んだ。


ぬるい水が五臓六腑に染み渡っていくのを感じながら、専用端末が設置されたデスクへと移動した。


予想に反して清潔に保たれた室内には、専用ノートPCのほか、長期保存の食料や医療キット、ベッド、ソファー、果ては予備の銃火器までが整然と備え付けられている。


PCの電源ボタンを押すと、静かな駆動音とともに液晶画面の光が紅梅の顔を照らし出した。


国家情報局の諜報員IDとパスワードを素早くタイピングし、キーボードの端にある指紋センサーに再び親指をあてる。画面が切り替わり、デスクトップ画面が表示された。


紅梅は即座に、二重暗号化された外交通信ソフトを起動し、受信待機状態へと移行させる。ラザクは『解除コードはこれで送る』と言い残していた。


今はその言葉を信じて待つしかない。壁の時計に目をやると、時刻はすでに23時を回っていた。データの受信を待つ間、紅梅は国家情報局のマレーヤ支局へ連絡を入れた。


【ID:6577-cvg カワセミ 10時間後 親鳥。ハゲワシ。以上】


待機中のセーフハウスは『カワセミ』。『親鳥』は迎車。『ハゲワシ』は敵を意味する。送信が完了すると、紅梅はそのままベッドの上に仰向けに寝そべった。少しでも身体を休めるべき時間だった。


しかし脳裏には、先ほどの逃走劇の残像が焼き付いており、全身の細胞が鎮まらず脈打っている。長い夜になりそうだった。眠りに落ちることなど、到底できそうにない。

★初回5話一挙配信中★


★本作品はフィクションです。物語に登場する人物、団体、組織、地名、イベント、ならびに一切の国家・政府機関・外交関係の描写はすべて架空のものであり、実在のいかなる対象とも関係ありません。本作には、実在の安全保障体制、地政学的リスク、国際情勢、あるいは国家間の情報戦を想起させる描写が含まれますが、これらは物語上の世界観を構築するための創作であり、現実の特定の国家・地域・政府方針・国際関係に対する批判や分析を目的としたものではありません。作中の戦闘・サイバー戦・自律型兵器・情報機関等に関する描写は、すべて物語上の演出および創作によるものです。また、作中で扱われるいかなる思想、主張、政治的立場、歴史的解釈についても、特定の立場を支持・肯定・非難する意図は一切ありません。★

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