第3話 友との再開
【前回までのあらすじ】マレーヤ共和国の海底で見つかった奇妙な鉱脈。外務省の書記官に扮したスパイの紅梅元は旧友のラザクからあるメッセージを受けとりマレーヤへと飛んだ。一方、アジアの大国「大中華連邦」の情報機関GISAの王は紅梅の動きを監視する。
マレーヤ共和国の首都カルヤ。先ほどまで降っていたスコールが過ぎ去り、直後の強い日差しが濡れたアスファルトをギラギラと照り返している。
ジャカルタの駐在先から緊急でマレーヤへ入国した紅梅は、カルヤ国際空港に降り立った瞬間から全身に向けられた「奇妙な視線」を感じ取っていた。
(……監視されているのか?)
潜入経路にも偽装名義にも抜かりはないはずだ。降り立った直後にマークされているとは考えにくい。念のため大きく迂回しながら、人通りの少ない通路を選んで歩む。
不規則に足を止め、ガラス窓の反射を利用して背後を探った。だが、追尾してくる不審な影も、奇妙な視線も見当たらない。
(過敏になりすぎているか……)
そう自分に言い聞かせると、タクシー乗り場を目指して再び歩き出した。それでも、胸の奥に残る不安を拭い去ることはできなかった。
安全策をとるならば、現地の大使館や政府関連施設、その周辺には近づかないのが鉄則だ。
バティックシャツの襟を正すと、まるで「久しぶりに休暇を取って昔の仕事仲間に会いに来た呑気なビジネスマン」の顔を装い、タクシーを拾ってホテルへと向かった。
タクシーの車内はクーラーがガンガンに効いている。生き返ったような気分だった。心地の良いハワイアンミュージックが流れている。運転手の好みなのだろう。
しかし、ハワイとは比較にならないほど蒸し暑く、空気が肌にべっとりまとわりつく。涼しい車内から窓の向こうに広がる海を見ているだけなら気分はハワイだった。
やがて大きな港が見えてきた。マレーヤの貿易の要所「テレパレス港」。この港はマレーヤという国の状況を物語っている。
11年前の2069年、大中に対する巨額の借金返済が行き詰まったマレーヤ政府は、テレパレス港の運営権を80年間、大中に譲渡するという条約を締結してしまった。
関税による収入は大中に吸い上げられ、港は軍事施設のさながらの物々しい雰囲気を放つ。周辺には巨大なコミュニティが形成され、この一体はもはや大中の国内である。
タクシーがホテルに到着すると、紅梅はスーツケースをベルボーイに預け、チェックインを済ませる。案内された部屋のベットに大の字になって寝転がった。そのまま天井を見つめ考える。
この後、何が起こるのか…。とりあえず、シャワーを浴びることにした。肌にまとわりついた汗をすぐにでも洗い流したかった。夜まで時間はある。シャワーの後は仮眠を取ろう。
夜は、何が起こるかわからない…。
夜のカルヤ繁華街は、目眩く熱気と人波に溢れていた。
東南アジア有数の歓楽街。屋台街から漂う香辛料の蒸気、巨大モールのネオン、クラブから漏れ出る重低音が入り交じる街角のテラス席に、一人の男が深く腰を下ろしている。
マレーヤ情報局の諜報員、ラザク・ビン・マンスール。 午後9時ちょうど。ラザクはズボンの右ポケットに忍ばせた「目的のもの」を指先で何度も確かめていた。
ここに至る道中、ラザクも「奇妙な視線」を感じていた。それは今も消えていない。接触を中止すべきか…脳裏を迷いがかすめる。
だが、すでにマークされている以上、引き返したところで逃げ切れる保証はない。
何より、事態は一刻を争う。どこで計画がバレたのか。自分のルートか、あるいは紅梅のルートか。もしくは両方か…思考を巡らせるが、サイは投げられたのだ。
あとは、紅梅がここに現れるかどうか。その時、行き交う人混みを割って、一人の男がまっすぐ歩み寄ってきた。紅梅だ。
「Hey ポギー! 久しぶりじゃないか!」
ラザクは軽く手を振り、親しげな笑顔で紅梅を出迎えた。
「ラザク、久しぶりだな……ポギーはもうやめろ」
ポギーはラザクが紅梅を呼ぶときのあだ名である。
かつて共同作戦を張った際、ラザクが勝手につけたものだ。もちろん、今このあだ名を持ち出したのは互いが本人であることを確認するための合図だった。
「相変わらず不愛想だな。ジャカルタでの仕事は順調か?」
「まあな。お前が急に珍しい誘い方をするから、無理に休暇を取って飛んできたんだ」
二人はしっかりと握手を交わす。 握手の最中、二人は周囲を鋭く警戒する。
目が合った通行人が数名。さらに通り沿いに停車した黒のセダンからは、スモークのガラス越しに指向性マイクと望遠レンズの気配を感じる。
監視の密度が急激に増している。ラザクは笑みを崩さぬまま、紅梅の耳元へ顔を寄せた。
(なんでお友達が一緒なんだ)
紅梅もまた、目線を変えずに低く返す。
(知るか。お前の招待客じゃないのか)
表面上は旧友との再会―諜報員同士の日常的な擬態だ。だが、交わされる握手の力、目配せから感じ取れるのは「状況は最悪だ」という共通認識だった。
(紅梅を巻き込んだのは間違いだったか……)
ラザクの胸に悔恨が走る。しかし、事態を打開できるのは紅梅しかいない。数々の死線をその卓越した能力と運で潜り抜けてきた男だ。ラザクはふと表情を緩めた。
「こんな湿っぽい場所で話すのも無駄だ。俺の行きつけへ行こう。最高の音楽と酒がある」
二人はテラス席を後にすると、夜の歓楽街の奥へと足を踏み入れた。ラザクが紅梅を引き込んだのは、大型のナイトクラブだった。
EDMの爆音と腹に響く重低音、眩いストロボ光がフロアを満たしている。
外で監視していた大中の工作員たちも客を装って入り込んでくるが、この爆音と密集、そして乱反射するレーザー光線の前では、指向性マイクによる盗聴も、遠距離からの口パク解読(読唇術)も完全に無効だ。
カウンターの一番端に陣取った二人はバーテンダーへ短い視線を送った。 ラザクはテキーラ、紅梅はモヒート。差し出されたグラスを掲げ、二人は静かに目線を交わした。
「完璧な防音室だろ」
ラザクはテキーラを片手に紅梅へ向けて笑みを浮かべた。
「ああ、最高だ。おかげで耳が狂いそうだ。……で、本題は何だ。大中の連中がわざわざ俺らを追ってる理由を聞こうか」
ラザクの笑顔が一瞬で消え、その瞳に冷酷なスパイの光が宿る。
「マレーヤの領海内で、とんでもない代物が見つかった」
「とんでもない代物?」
「今ここでは言えない。詳しい情報はこのデータキューブに入ってる」
店内にはすでに大中の工作員がいる。フロア音楽の爆音が盗聴を防いでいるが絶対とは言い切れない。今ここでデータキューブの中身を口頭で伝え、万一、盗聴されたら全てが台無しだ。
ラザクはそう判断した。ラザクはジャケットの内ポケットから、手のひらに収まる小さなブラックボックスの個体を出し、紅梅に渡した。
「中の情報はガチガチに暗号化している。解読のためのコードは、ここを無事に脱出してから、日本宛ての外交通信に紛れ込ませて送る。データ本体とコードを分ければ、俺たちが殺されても大中に中身は渡らない」
ラザクは周囲を見渡す
「マレーヤ国内の通信網はすでに大中に握られている。ネットに乗せた瞬間に検知されるから手渡ししかなかった…すまない」
「……重い土産だな」
紅梅は手渡されたデータキューブをファスナー付きのポケットにしまい、周囲を見渡した。脱出ルートを確認しながら、左腕に仕込んだ暗器の感触を確かめる。
腹部と右脇腹の中間には、コンシールドキャリーしたリボルバーが収まっている。弾はわずか6発。だがそれで十分だった。映画のようにドンパチやる局面など現実のスパイ活動には存在しない。
銃を抜く事態とは、至近距離で1〜2名を確実に処理する時だけだ。閉鎖不良もなければ、セーフティーの外し忘れもない。万一の不発にも、ただトリガーを引き直せば次の弾が放たれる。
至近距離での絶対的な信頼性―それが紅梅がリボルバーを携行し続ける理由だった。もっとも、これを抜いた時点で作戦は破綻に等しい。
紅梅はポケットにしまったデータキューブの感触を確かめると小さく呟いた。
「連中は、なんとしてもコイツを手に入れたいようだ」
「ん?」
「もうフロアに入ってきたぞ」
ナイトクラブのVIP席の影、そしてフロアの混雑を縫うように、レザーベストやジャケットを羽織った体格のいい男たち。
GISAの手先と思わしき工作員たちが、ジャケットの中に忍ばせた銃に手をやりながら距離を詰めていた。
「まったく…せっかくの再会を邪魔する奴らは嫌いだね…コードは必ず送る。お前はそれを持って先に行け!」
EDMの重低音が鳴り響く店内、ストロボの光が明滅する中で、ラザクは腰の銃を確認する。グラスを置き、同時に立ち上がる紅梅とラザク。
距離を詰めてくる大中の工作員。ラザクはすれ違った客の足を引っかけ、バランスを崩したタイミングで軽くこずいた。客は隣のVIP席に豪快に転倒する。
「テメー何しやがる!!」
VIP席に座っていた男が倒れこんだ男の胸ぐらを掴み、引き起こした途端に殴りかかった。周囲は騒然となり、悲鳴と歓声が起こり乱闘騒ぎになった。
その瞬間、紅梅が動く。店内のストロボが一瞬暗くなったコンマ数秒の間。紅梅は自分に近づいてきた工作員の口を手でふさぎ、首の頸動脈に、隠し持っていた即効性の麻酔針を刺し込んだ。
泥酔した客のふりをしてソファへ倒れ込ませる。周りの客はまったく気づいていない。混乱するフロアの人混みに紛れ、二人は一度も振り返らず、別々の非常口へと消えていく。
ナイトクラブの非常口から別々の闇へ溶け込んだ紅梅とラザク。クラブ内で起きた騒動によって、敵の初動をわずかに遅らせることに成功した。
だが路地に足を踏み入れた瞬間、紅梅は背筋がゾッとする感覚を受けた。こちらを見ていた2人の男と目が合ってしまった。
(…周囲まで固めているのか…二人組…だとするとチームで配置されている)
GISAの工作員は、クラブの出口すべてに人員を配置していた。紅梅に2人、恐らく別の路地へ向かったラザクにも2人。
相手の目的は殺害ではない。生かしたまま拉致し、尋問によって情報を吐かせることだ。暗い路地の先から、手に銃を握った男たちが迫ってくる。距離、およそ15メートル。
(捕まれば終わりだ——)
紅梅は1秒の間も置かず、考えるよりも早く地面を蹴った。
★初回5話 一挙配信中
★毎週2話(水・金配信)で更新予定です
★本作品はフィクションです。物語に登場する人物、団体、組織、地名、イベント、ならびに一切の国家・政府機関・外交関係の描写はすべて架空のものであり、実在のいかなる対象とも関係ありません。本作には、実在の安全保障体制、地政学的リスク、国際情勢、あるいは国家間の情報戦を想起させる描写が含まれますが、これらは物語上の世界観を構築するための創作であり、現実の特定の国家・地域・政府方針・国際関係に対する批判や分析を目的としたものではありません。作中の戦闘・サイバー戦・自律型兵器・情報機関等に関する描写は、すべて物語上の演出および創作によるものです。また、作中で扱われるいかなる思想、主張、政治的立場、歴史的解釈についても、特定の立場を支持・肯定・非難する意図は一切ありません。★




