第2話 大国の野心
【前回までのあらすじ】
マレーヤ共和国の海底で見つかった奇妙な鉱脈。外務省の書記官に扮したスパイの紅梅元は旧友のラザクからあるメッセージを受けとりマレーヤへと飛んだ。
約30年前、アジアの大国は長年の悲願であった統一を成し遂げ、南シナ海を実質的な内海として支配するに至った。
当時、この大国は軍事および産業分野で目覚ましい発展を遂げる一方、国内経済は深刻な不況の渦中にあった。
時の国家元首は苦悩の末、後の歴史家が「完璧なタイミング」と評することになる祖国統一への舵を切ったのだ。
当時の西側諸国、とりわけ米国と日本はこの統一に強く反発し、共同で抑止を試みた。
しかし、度重なる戦費の増大と天文学的な債務、そして基軸通貨であった米ドルの衰退によって国力を疲弊させきった米国と、軍備・実効力の面で足元にも及ばない日本が組んだところで、巨大化した大国を止めることなど不可能であった。
この統一によってアジアのみならず世界の覇権を握った大国は、永遠の栄光と繁栄の願いを込め、自らを「大中華連邦(以下、大中)」と名乗った。
午前9時30分。
大中・中央軍事最高司令部の本庁舎。国家情報安全総局(GISA)をはじめ、軍総参謀部情報局、サイバー空間作戦軍、外事工作部など、大中のあらゆる諜報・軍事部門のトップおよび上級職が顔を揃える絶対的権威の場「中央情報特別聯席会議(ちゅうおうじょうほうとくべつれんせきかいぎ)」
その会議室に、王偉誠の姿があった。彼は誰よりも早く会議室に入り、静けさの中で思考を研ぎ澄ませるのを常としていた。
「おはよう王。相変わらず早いな」
声をかけてきたのは、国家情報安全総局(GISA)のトップである総局主席・温宗和だった。
大中の権力の中枢に身を置く者たちは、幼少期から熾烈な競争社会を勝ち抜いてきた結果、利己心と野心の塊のような人間が大半を占める。
だが温はその中にあって、珍しいほど穏やかな佇まいを見せる男だった。権力を笠に着て自説を押し通すような真似はせず、敵を作らず、上層部の意向を抜け目なく察知して立ち回ることに長けていた。
「おはようございます、温主席。本日の当部門からの提出議題はこちらになります」
王は手慣れた所作で、コピー機の印刷熱がまだほのかに残る資料を温へと差し出した。
「いつもすまないね。君が優秀なおかげで、私は朝のお茶をゆっくり楽しめるよ」
温は穏やかに謝意を口にしたが、王の胸中には冷ややかな不快感だけが残った。
この男が自分の上席に鎮座している事実が、腹の底から許しがたかったのだ。キャリアの頂点を目指す王にとって、温という存在は排除すべき障害でしかない。
近い将来、必ず温を引きずり下ろし、その座を奪い取る──黒々とした野心が、王を突き動かす絶え間ない熱量となっていた。会議室には他の高官たちが続々と顔を並べはじめる。
定刻の午前10時、国家の影の意志を決定する中央情報特別聯席会議の幕が上がろうとしていた。
ジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港。 配車タクシーのトランクから手際よくスーツケースを下ろした紅梅は、雑踏の中をターミナルビルへ向かって歩き出した。
紅梅は無意識のうちに混雑の中心を避け、建物の壁際や構造物の死角をなぞるように歩を進める。空港に一歩踏み入れば、そこは世界各国の情報機関が目を光らせる監視網の目だ。
高精度な防犯カメラ群は、あらゆる国のサイバー部隊によって日常的にハッキングされ、リアルタイムで監視されている。当然、日本の国家情報局も例外ではない。
紅梅は監視カメラの画角を極力避け、動きは無害な一般旅客そのものに見せていた。身体に染み込んだ職業病ともいうべきものだ。
自動チェックイン機に近づくと、自宅から持ち出したマレーヤ共和国のパスポートを読み取らせる。エラーを起こすこともなくシステムは認証を完了し、手荷物用のタグが静かに発行された。
慣れた手つきでシールをスーツケースのハンドルに巻きつけ、カウンターへ預け入れる。
金属探知機とスキャナーが設置された保安検査場も、忍ばせたチタン製のペンやマルチツールなどが引っかかることなく一発で通過した。
出発ターミナルのベンチに腰を下ろした紅梅は、ガラス越しに滑走路の景色に目をやった。周囲の動線や人間の視線に意識を配るが、自身を見張る不審な気配はない。
(あと数時間で、ラザクと会う……)
ラザクが二人だけの暗号を使ってまで自分を呼び出した理由。それが決して明るい知らせではないことは、胸のざわめきが痛いほど告げていた。
ターミナルに流れるアナウンスを背に、紅梅は静かに搭乗の刻を待っていた。
中央情報特別聯席会議を終えた王は、自身の城ともいうべき国家情報安全総局(GISA)司令部の執務室へ満足げな笑みを浮かべて戻ってきた。
会議の席上、GISAからの定例報告を一通り終えた後、王には「とっておきの切り札」が残されていた。
マレーヤ共和国の政財界に深く網を張るスパイの一人から、同国の大手インフラ企業「ラジカ・スルワッタ社」の会長、ランドン・ハッサがマレーヤ情報機関の諜報員ラザク・ビン・マンスールと接触したという一報がもたらされたのだ。
会長のハッサは、マレーヤ政財界における親日派グループの重鎮であり、大中派と鋭く対立する人物だった。王の長年の直感が告げていた。
この不審な接触の裏には何かがある。ただの政争ではない。「何か」が動き出している―。通常であれば、この程度の案件はGISAの独断で処理すれば事足りる。
だが、今回は「何か」に惹かれる強い予感があった。
軍部首脳陣が一堂に会する公の場でこの情報を発表しておいたのは、将来この件が大きな果実となった際、手柄を他部門に横取りさせないための布石だった。
案の定、打ち明けた矢先、他部門のトップたちから返ってきたのは冷ややかな失笑だった。GISAは小国の民間企業の動きまで暇つぶしに追っているのか。周囲の目にはそう映ったのだろう。
(今はせいぜい笑うがいい 嘲笑などは織り込み済みだ)
王は深く息を吐き出すと、執務室デスクの傍らに飾られた一枚の古びた写真に目を落とした。貧しい農村を背景に、幼い自分と両親が佇む写真。あの泥臭い匂いから、ここまで這い上がってきたのだ。
この件はやがて大中国家に多大な利益をもたらし、自らの権力基盤を揺るぎないものにする。その確信だけは揺るぎなかった。しばし感慨に浸っていた王を、卓上の直通内線が現実へと引き戻す。
受話器を取ると、部下の張り詰めた声が響いた。
「王副主席、至急オペレーションルームへお越しください。例の案件に、動きがありました」
「…!? わかった、すぐに向かう」
『果報は寝て待て』とはよく言ったものだ。
会議で撒いた種が、早くも芽を吹き出そうとしている。王は口元に笑みを浮かべると、背後から押し寄せる幸運の波に乗るように、静かに執務室を後にした。
厚い防音壁に遮断されたオペレーションルーム。 中央の巨大なメインモニターには、ジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港に設置された複数の監視カメラ映像が並んでいた。王はモニター正面の席に深く腰を下ろす。すぐ隣に控えたGISA情報部の補佐官が、手元のタブレットでメインモニターの表示を切り替えた。
「約2時間前、日本の外務省関係者がマレーヤ行きの便に搭乗しました。この男です」
画面に映し出されたのは、手荷物をひとつだけ抱え、現地に馴染むバティックシャツ姿で搭乗ゲートを潜り抜ける紅梅の姿だった。
例の情報がもたらされて以降、王はマレーヤ行きの全フライトの搭乗者リストを徹底的に精査するよう命じていた。
ラジカ・スルワッタ社やその会長ハッサ、そしてマレーヤの諜報員ラザクと接触し得る人物の洗い出し――ここ1ヶ月の監視で何人かの該当者が浮上したものの、精査してみれば空振りに終わっていた。
だが、今回は大物が網にかかった。日本の外交官(文官)だ。王の眼光が鋭く光る。
「身元は?」
「肩書は在インドネシア日本大使館の三等書記官。名は『紅梅 元』です」
王は不敵に目を細め、デスクの上で肘を組んだ。
「この男が映っている監視カメラの映像をすべて出せ」
補佐官が手元のタブレットを操作すると、ジャカルタ市内の路上、空港のタクシー降車場、エントランスロビーなど、各所に仕掛けられた監視映像がメインモニターへタイル状に並んだ。
一見すれば、ごく普通の公務員の移動風景に過ぎない。だが、王の長年の感覚が「異質感」を捉えていた。
歩行時の身体の軸、周囲への視線の配り方、監視カメラの位置を把握し、可能な限り避けて歩いているようにも見える。一連の所作をしかるべき者が見れば、ただの公務員ではない。
「この男がチェックイン時に提示したパスポートのデータを出せ」
「イミグレーション(出入国管理)を照会します。少々お待ちを」
補佐官の合図を受け、コンソールに座る分析官が手慣れた作業でハッキングを開始し、データリンクを確立させる。
他国の出入国管理のシステムにリアルタイムでアクセスするなど、一国の情報機関であっても易々とできるものではない。
しかし大中は、長年にわたりマレーヤ全土のデジタルインフラ基盤を支えるネットワーク機器を提供し続けてきた。当然、それらの機器にはバックドアが仕込まれ、大中からは容易にアクセスできてしまう。
1分も経たぬうちに、空港のチェックイン・データベースから抽出された旅券情報がメインモニターへ投影された。
「……やはり当たりだ」
画面に表示されたパスポートの顔写真は紅梅本人のものだったが、名義はマレーヤ国籍の民間人名義の偽造旅券だった。外交パスポートではなく、偽装名義でマレーヤへ潜入しようとしている。
「この男を最優先警戒対象としてマークしろ!」
補佐官へ力強く命じた瞬間、王の胸の奥で高鳴りが生じた。わずか1ヶ月で目覚ましい成果をあげられるかもしれない。
全身を駆け巡る高揚感に耐えかね、王はすでに自国の司令部でじっと座して待つことなどできない衝動に駆られていた。
「私もこれからマレーヤへ飛ぶ。GISAのマレーヤ支局へ連絡を入れろ!」
★初回5話 一挙配信中★
★毎週2話(水・金配信)で更新予定です★
★本作品はフィクションです。物語に登場する人物、団体、組織、地名、イベント、ならびに一切の国家・政府機関・外交関係の描写はすべて架空のものであり、実在のいかなる対象とも関係ありません。本作には、実在の安全保障体制、地政学的リスク、国際情勢、あるいは国家間の情報戦を想起させる描写が含まれますが、これらは物語上の世界観を構築するための創作であり、現実の特定の国家・地域・政府方針・国際関係に対する批判や分析を目的としたものではありません。作中の戦闘・サイバー戦・自律型兵器・情報機関等に関する描写は、すべて物語上の演出および創作によるものです。また、作中で扱われるいかなる思想、主張、政治的立場、歴史的解釈についても、特定の立場を支持・肯定・非難する意図は一切ありません。★




