第1話 海底の不審物と外交官
西暦2080年、東南アジアに一つの新しい国家が誕生していた。マレーヤ共和国。大国の脅威から国を守るための決断だった。
この国の進むべき方向性については、大きく二つの世論に分かれている。大国の一部となり脅威とは無縁の未来に向かう道。もう一つは日本との関係を深め、独立国家として歩む道。
いずれにしても新たな国家には課題が山積みで、根本的な問題は解決していなかった。
マレーヤ共和国は、かつて日本のODA(政府開発援助)によって目覚ましい発展を遂げた歴史がある。それを支えた現地の大手インフラ企業がラジカ・スルワッタ社だ。
財閥系企業の規模とまではいかないが、従業員数は6,000人を超えている。同社の会長ランドン・ハッサは大の親日家であった。
ラジカ・スルワッタ社はマレーヤ政府から海底ケーブルの敷設工事を受託している。広大な南シナ海の海底、数千キロにわたる一大プロジェクトだ。
工事は終盤にさしかかり、マレーヤ共和国の沖合、数百キロの地点まで到達している。洋上の強い日差しが照りつける中、ケーブルシップ(敷設船)を操縦するニバル、船長のヤーコン。
そして海底に溝を掘ってケーブルを埋める埋設担当のダリオの3人はブリッジにいた。ここ最近は特に忙しく、休みなしの日々が続いている。
「まったく休みも無しで働き詰めかよ」
今日もニバルは船の舵を握りながら悪態をついている。
「しかたないだろ、予定より遅れてるんだからよ」
船長のヤーコンはタバコ片手に雑誌を読みながらボヤいていた。工事も終盤に差し掛かっており、働き詰めの日々ではあるが、終わりが見えてきた。
あと一踏ん張りで、この長い船内生活からも解放される。そう思えば、自然と心に余裕も生まれていた。そのとき、海底の溝を掘っていた作業モニターに奇妙な反応が出た。
「なんだこれ、やたら硬い岩盤の層か?」
海底の掘削とケーブルの埋設を担当するダリオは、溝を掘る爪とウォータージェットを一時停止した。隠れ岩の可能性がある。
砂地だと思って掘り進めていた場所に、泥に埋もれた巨大な岩や強固な岩盤が現れでもしたら大変だ。爪がやられて工事が大幅に遅延してしまう。
すぐにマルチビーム測深機とサイドスキャンソナーを起動し、海底面を調べる。モニターに表示された内容は、脈状に伸びる硬い岩盤層が、半径2キロほどのエリア一帯に広がっていた。
「おいおい、そりゃないぜ。これじゃケーブルを設置できやしねえ」
ダリオの嘆くような声がブリッジに響いた。タバコ片手に雑誌を読んでいた船長のヤーコンがダリオの操作席へ駆け寄る。測深機とソナーのモニター画面を食い入るように見つめると、思わず天を仰いだ。
「このエリアの地質は調査済みじゃなかったのか!? 一体どうなってんだ!」
ヤーコンは声を荒げた。これでまた工事の遅延だ。そうなれば、今よりもさらに仕事はハードになる。不眠不休を強いられるかもしれない。
工事の終わりが見えてきたこのタイミングで起こった、あまりにも不吉な状況。ヤーコンはたまらず責任を転嫁すべく、一旦このケーブル敷設工事に区切りをつける方法を模索し始めた。
「俺らのせいじゃないよな。ちゃんと調査しなかったお偉方のせいだぜ」
船長のヤーコンの発言に、ニバルもダリオもすかさず同調した。
「ああ、当然だ。俺らは悪くねえ」
「ケチつけられちゃ、たまんないからな。証拠に突き出てる岩の1つか2つぐらいプレゼントに持って帰るか。証拠写真も撮ったよな?」
ダリオは操作席のモニター画面のキャプチャを取得すると、ニヤリと笑みを浮かべた。
「ああ、バッチリだ! 岩盤のサンプルも回収中だぜ」
息の合った二人の免罪符獲得のやりとりを見た船長のヤーコンは、最終決断を下した。
「よっしゃ!工事は中止だ!中止、中止っと!」
かつてのインドネシアの首都ジャカルタ。2045年にインドネシアは首都をジャカルタからボルネオ島東部の都市ヌサンタラへ遷都した。
ジャカルタの深刻な交通渋滞、大気汚染、および地下水くみ上げによる急速な地盤沈下が懸念されたためだ。また、ジャワ島一極集中から地方への経済バランスの是正という目論見もあった。
とはいっても、未だにジャカルタの存在は大きい。日本の外務省は首都のヌサンタラとジャカルタに大使館を置いていた。
インドネシアの伝統的な染色布地「バティック」のシャツを身にまとい紅茶を片手にデスクワークに勤しむ男、紅梅元は外務省インドネシア大使館駐在の三等書記官だ。
とにかく蒸し暑いこの国でワイシャツやスーツなど着ていられない。
赴任当初はこのラフすぎる正装が気に入らなかったが、大臣との面会やレセプション、日常の執務まで幅広く利用できる便利さに、いつしか慣れてしまっていた。
日々のルーティン業務といえば、メールチェックから始まる。今日もノートPCを開きメールをチェックするが、その中に思いもかけない一通が届いていた。
件名:どうしても会いたい。ラザクより
(……!? ラザク……マレーヤのラザクか)
懐かしさよりも先に、メールの件名から伝わる切迫感が胸を突いた。紅梅は他の未読通知をすべて後回しにし、そのメールを開く。
「親愛なる紅梅。カメロンハイランドのアイスピックが懐かしい季節になったな。すぐにマレーヤに来てくれ。渡したいものがある。マレーヤと日本の未来にかかわるものだ。頼む。いつもの店で会おう。──ラザク」
本文にはそれだけが記されていた。
ラザクは紅梅にとって盟友だった。かつて東南アジアの任務を共にし、窮地のたびに幾度となく助け合ってきた間柄だ。その男が具体的な理由を明かさず、突然「すぐに会いたい」と連絡してきた。
(間違いない、このメールはラザクからだ。冒頭のカメロンハイランドの意味は俺たちしか知らない話だ……だが、突然どうした。この内容から察するに『俺たちにとっての大ごと』が起きたのか……。正規の外交ルートを使わず、捨てアドレスで直接送ってくるなんて)
紅梅はふと窓の外へ視線を向けた。その後、PC画面に戻り残りの未読メールをなぞるようにスクロールしたが、内容は一切頭に入ってこなかった。
(……ラザク)
午後の日程に外せない重要公務は入っていない。仮に入っていたとしても、今の紅梅にとって表の外交業務など二の次だった。
形式上の午後の予定をキャンセルし、すぐさまマレーヤへ向かう決断を下す。大使館の職員に車の手配を頼むと、足早に館外へ出た。
まずはジャカルタ市内にある自宅へ向かう。大使館から自宅までは車で5分ほどの距離だ。かつてのジャカルタは殺人的な交通渋滞で知られ、5分の距離すら歩いた方が早いと言われるほどだった。
しかし、首都がヌサンタラへ遷都して十数年が経過した今、過密が和らいだジャカルタの路上は驚くほどスムーズで、車移動もストレスなく機能していた。
車は順調に市街地を抜け、緑豊かなコンドミニアムのゲートを滑り抜ける。
エントランスで車を降りた紅梅は、オートロックを潜り、エレベーターで21階へと向かった。外務省の若手、独身在外公館員が身を置く住拠としては、ごく標準的なクラスの物件だ。
自室の寝室に入り、クローゼットからコンパクトなスーツケースを取り出す。中には着替えや日用品など、最小限の必需品がすでにパッキングされていた。
突発的な出張や隠密行動は日常茶飯事であり、この手の準備に抜かりはない。クローゼットの最奥に設置された、一人暮らし用の小型冷蔵庫ほどの大きさを持つ防磁耐火金庫。
暗証番号を打ち込み、親指を押し当てて指紋認証を行うと、静かな電子音とともに重厚な扉が開いた。
内部には拳銃やライフル、各種弾薬に特殊ナイフといった武器が所狭しと収められている。だが、紅梅はそれらには目をくれず、上部の棚に置かれた磁気遮断ケースへと手を伸ばした。
ケースから取り出したのは、複数冊のパスポートだ。写真の顔はすべて紅梅だが、発行国と名義が異なっている。日本の外交旅券、シンガポールの永住権付きパスポート、そしてマレーヤの民間ビジネスマン名義。
いずれも日本の諜報機関『国家情報局』が極秘裏に用意した、完全な「裏の身分」だった。今回はマレーヤ名義のパスポートを選び、ジャケットの内ポケットへ滑り込ませる。
続いて、手慣れた所作でEDC(Everyday Carry=日常携帯)ツールを身につけていく。空港の荷物検査をクリアするため、金属製の銃器は一切持ち込まない。
選んだのは、医療用チタンで作られた頑丈なタクティカルペン、非金属の超高密度セラミック製のマルチーツール、そして高出力のフラッシュライト。
どれも保安検査場ではただの「文房具と日用品」として通過できるが、いざ近接格闘となれば一瞬で致死性の暗器へと変わる代物だ。
一通りの身支度を終えた紅梅は、鏡の前でバティックシャツの襟元を整えた。そこに映っていたのは、どこからどう見ても「呑気で無害な日本の外交官」の顔だった。
紅梅は静かに自室のドアを閉め、彼の本来の仕事へと踏み出していった。
★初回5話 一挙配信中★
★毎週2話(水・金配信)で更新予定です★
★本作品はフィクションです。物語に登場する人物、団体、組織、地名、イベント、ならびに一切の国家・政府機関・外交関係の描写はすべて架空のものであり、実在のいかなる対象とも関係ありません。本作には、実在の安全保障体制、地政学的リスク、国際情勢、あるいは国家間の情報戦を想起させる描写が含まれますが、これらは物語上の世界観を構築するための創作であり、現実の特定の国家・地域・政府方針・国際関係に対する批判や分析を目的としたものではありません。作中の戦闘・サイバー戦・自律型兵器・情報機関等に関する描写は、すべて物語上の演出および創作によるものです。また、作中で扱われるいかなる思想、主張、政治的立場、歴史的解釈についても、特定の立場を支持・肯定・非難する意図は一切ありません。★




