第32話 毒殺
ソフィア・リムが主催するレセプションに潜入した紅梅と百目鬼。一方、彼らを捕らえようと待ち構える王率いるGISA警備員。不穏な空気が漂うレセプションが間もなく始まる。
開始時刻を迎えると、パーティー会場を照らしていた豪華絢爛なシャンデリアが一斉に消灯し、会場は暗転した。
一瞬の静寂の後、中央ステージへ向けて幾筋ものスポットライトが一斉に照射される。
壮大な音楽と共にステージ中央の円形床が競り上がり、眩い光の渦から、真っ赤なイブニングドレスを身にまとったソフィア・リムが優雅に姿を現す。
会場からは、割れんばかりの拍手と歓声が巻き起こった。ソフィアは胸元の純金モチーフを揺らし、自信に満ちた笑みでマイクの前へと歩み寄った。
「皆様、こんばんは。本日は我がアストリア・プライベート・キャピタルが主催する『プレミアム・アワード2080』へ、ようこそお越しくださいました。マレーヤの、そしてアジアの輝かしい未来を拓く皆様と、こうして祝杯を挙げられることを心より嬉しく思います」
政財界へのありきたりな方便と、自社の繁栄を誇張する退屈なスピーチ。会場の壁際に佇む紅梅にとって、内容などどうでもよかった。
タキシードのポケットに忍ばせた毒のカプセルと注射針、リボルバーの感触を確かめながら、紅梅は冷ややかな視線でソフィアの動きと会場内に潜む警備員の配置を淡々と記憶していく。
「マレーヤの輝かしい未来と、ここに集いし同志たちの発展に祝杯を!」
ソフィアがグラスを掲げると、会場全体にグラスの触れ合う華やかな音が広がった。
乾杯の発声を皮切りに、会場は賑やかな歓談の時間へと移行する。政財界の重鎮や著名人たちが、我先にとソフィアの周りへ群がり、挨拶や名刺交換に勤しみ始めた。
その人だかりのわずかな隙間を狙い、紅梅と百目鬼は互いに付かず離れずの距離を保ちながら、獲物を狙う獣のように、じりじりとソフィアの背後へと間合いを詰めていく。
この時、紅梅の頭の中では二つのシナリオが天秤にかけられていた。受付のセキュリティゲートをあっさりと通過できたことは、紅梅の思考にノイズをもたらしていた。
(ノーマークで本当に気づかれていないのか?それともGISAの泳がせ作戦か……もし本当に気づかれていないのなら、毒殺するのが最もスマートだ。毒を盛った飲み物を渡し、ソフィアが飲んだ後に死ぬまで時間がある。その間に余裕をもって脱出できる。毒を仕込んだ人間が誰かすらバレない可能性もある。だが、もし自分たちの潜入が察知されていて、会場全体が王の監視下にあるとしたら……。手ぬるい毒殺など見破られ即座に阻止される。ここは電光石火のごとく、すれ違いざまに毒針を叩き込んで一瞬で仕留めるべきか……)
「どうする?」
百目鬼が静かな目で指示を求める。紅梅はソフィアの周囲に視線を走らせ、改めて状況を確認した。警備員たちが全方位を隙なく固めている。一定の距離を保ってはいるが、事となれば一足飛びで囲い込める距離感だ。
ほんの一瞬の迷いの後、紅梅は腹を決めた。
「毒を盛る。奴らがこちらを警戒していれば、俺がソフィアに近づいた瞬間に動かれる。だが、君なら顔は割れていない。別行動を取ればマークは確実に薄くなる。そのわずかな差が、作戦の成否を分ける」
紅梅は目線を動かさず、壁際を巡回するGISAの警備員やセキュリティーたちの動きを捉えながら静かに続けた。
「ドリンクカウンターを探しているふりをして、少しずつソフィアへ間合いを詰めろ。君が仕留めてくれ」
「了解。もし監視されていて失敗しそうになったら? 」
「その時は躊躇するな。力づくでも彼女を仕留めろ」
「分かったわ」
百目鬼は短く応じると、紅梅から離れ、華やかなドレス姿のまま人混みの隙間をすり抜けるように歩き出した。
別の位置では、GISA警備主任の陸 崇明が王に無線で状況をつぶさに報告していた。
「女がターゲットから分かれて動き出しました。」
「ソフィアに近づく可能性がある。引き続きソフィアの周囲を警戒しろ。」
ルーは鋭い視線で百目鬼を追い続ける。 王もモニター越しに百目鬼の動きを警戒する。
「間違いない、ソフィアに接触するぞ。会話の内容を確認した後、すぐに取り押さえる。全員準備しろ」
ソフィアの胸元で輝く純金ペンダントには、極小のマイクが仕込まれていた。王は接触してきた相手の会話から真意を探り、その上で取り押さえる算段だった。
ソフィアにも「接触してきた怪しい人物からは巧みに会話を引き出せ」と示し合わせてある。
紅梅と共に動くレベルの工作員なら、拘束したところで口は割らない。それどころか即座に自決する可能性が高い。現状はこちらの情報が不足している。まずは唯一得られる音声を確実に確保したかった。
ステージ下のソフィアを取り巻く人だかりは途切れることがなかった。挨拶が終わるや否や、次のVIPが途切れなく押し寄せる。
最初は満面の笑みで応対していたソフィアだったが、次第に疲労を隠しきれなくなり、相手によって表情や態度、会話の時間に明らかな違いが見え始めていた。
百目鬼はその隙を見逃さなかった。近くを巡回していた、水入りのグラスを載せたウェイターの腕を静かに掴む。
「すみません。ソフィアさんからお水を持ってくるよう頼まれたの。一緒に来てくださらない?」
優雅な微笑みでウェイターを納得させると、百目鬼はそのままソフィアのいる人だかりへと歩き始めた。
「私も喉が渇いたわ……一ついただいていいかしら」
そう囁きながらトレイからグラスを一つ手に取ると、指先に忍ばせた毒のカプセルを静かに落とした。
毒の入ったグラスをそのまま手に持ち、ウェイターを伴ってソフィアの至近距離まで踏み込み、可憐な声でソフィアを呼びかけた。
「マダム・ソフィア、お水をお持ちしました。いかがですか?」
「……あら?」
ソフィアにとって百目鬼は見覚えのない顔だった。だが、数多の人間と対峙するビジネスパーソンである彼女の身体は無条件で反応する。
たとえ忘れている人物であっても、ここで不躾な対応をすれば命取りになりかねない。「まずは笑顔で相手に合わせる」という経験則が即座に優先されたのだ。
ソフィアは一瞬の迷いを完璧な笑みで覆い隠した。
「あら、ありがとう。ちょうど喉が渇いていたの、いただくわ」
百目鬼はこの瞬間、作戦の成功を確信した。ソフィアに笑みを向けつつ、素早く反転して背を向ける。
ウェイターのトレイから水の入ったグラスを手に取り、再び反転してソフィアと向き直り、先ほどから自分が持っていた毒入りのグラスをソフィアに勧めた。
手元を体で隠すことで、どちらのグラスを渡したのかソフィアにもウェイターにも見抜けない、単純ながらも完璧な手際……のはずだった。 モニター越しにその一連の動作を注視していた一人の男を除いては。
「この女、不自然な動きをした!ソフィアの周囲を固めろ。合図をするまでは手を出すな!」
王から無線で指示が入り、ソフィアの周囲にいた警備員たちが不自然に距離を詰め始める。
疲労を隠す笑みを浮かべ、ソフィアが毒入りのグラスへ手を伸ばそうとした──まさにその時だった。
「おお、マダム・ソフィア! 素晴らしいスピーチでしたぞ!」
強引に割り込んできたのは、マレーヤの大中派政治家として知られるロザリ・テオ議員だった。
ロザリ議員は泥酔に近い勢いでソフィアに迫り一方的に捲し立てる。その露骨なうっとうしさにドン引きしたソフィアは、伸ばしかけた手を思わず引っ込めてしまった。
「ありがとう。でも、今はまだ要らないわ。こちらのロザリ議員にさしあげて」
「おや、水ですか? ちょうどいい、喉がカラカラでしてね! いただきます!」
ロザリ議員が、百目鬼の差し出した毒水のグラスを手に取ろうとする。不測の事態に、流石の百目鬼も一瞬息をのんだ。
本来なら自然を装ってグラスを渡すべき場面だが、百目鬼は反射的にグラスを自らの胸元へと引き寄せてしまった。
「失礼、議員。こちらは……私が長らく手に持っていたため温くなっております。冷たいお水をお持ちしますので、少々お待ちを」
苦し紛れの対応だった。ソフィアを含め周囲の VIP たちでさえ違和感を覚えるほどの不自然さ。
そして、その一部始終をモニター越しに凝視していた王が、その異様さを見逃すはずもなかった。
(……用意した水を議員に渡さない……まさか、毒か!?)
その瞬間、王の脳内に浮かんだ推測は確信となった。
「毒だ! 飲むなーーーっ! ソフィアを止めろ!!」
王の怒号が無線を通じ、警備主任のルーへ叩きつけられる。
「毒だ! 飲むなーーーーっ!!」
ルーの大声がバンケットルーム全体に響き渡り、参加者全員が「何事だ」と周囲を見渡す。驚きのあまりグラスを落とす者もいた。
「チッ……!!」
作戦の破綻を悟った百目鬼は迷わず強硬手段へと舵を切った。ドレスのスリットに隠していた毒入りの注射針を抜き、ソフィアの首すじへ向かって一直線に踏み込む。
だが、完全に警戒モードに入っていたルーが、間一髪で割り込んだ。
「させるかぁー!」
ルーの手甲が百目鬼のしなやかな腕を強烈に払い飛ばし、そのままソフィアを庇うようにして百目鬼の胸元を強く突き飛ばした。
「くっ……!」
激しい衝撃で後方へ吹き飛ぶ百目鬼。だが、彼女は受身をとると同時に、滑らかな動作で身体を反転させ、ドレスの太もも内側のホルスターから小型サブコンパクトガンを引き抜いた。
起き上がりざま、射撃体制を整える間もなくソフィアの胸元へ銃口を向け、引き金を素早く2回引く。
ダブルタップの連射で放たれた銃弾は、寸分の狂いもなくソフィアを捉えていた。 しかし、怯えるソフィアの前にGISA警備員が盾となって飛び込んできた。
ドスッ! と重い音を立て、分厚い防弾ベストに弾丸がめり込む。警備員は大きな衝撃にうめきながらも壁となってソフィアを守った。
この混乱をモニター越しに見届けた王は、さらに無線で指示を叩きつけた。
「館内の出入り口を塞げ!あの女と、紅梅を押さえろ!」
この暗殺未遂によって、王の中でくすぶっていた思考のピースが一気に噛み合わさっていった。なぜ日本の工作員がリスクを冒してまでソフィアの命を奪いに来たのか。その決断が何を意味するのかを。
★「おもしろい!」と思っていただけたら、ページ下部の【★で応援】や【作品フォロー/ブックマーク】をしていただけると、毎日の執筆と更新の大きな励みになります!
★本作品はフィクションです。物語に登場する人物、団体、組織、地名、イベント、ならびに一切の国家・政府機関・外交関係の描写はすべて架空のものであり、実在のいかなる対象とも関係ありません。また、作中で扱われるいかなる思想、主張、政治的立場、歴史的解釈についても、特定の立場を支持・肯定・非難する意図は一切ありません。




