第19話 天才君
【前回までのあらすじ】マレーヤでラザクから託されたデータキューブの解析を始める分析局のリーダー真島。しかし、施された高次元の暗号セキュリティの前に糸口すら見出せず時間だけが過ぎていた。
かなりの時間が経過したが、解析作業に進展はない。だが、紅梅はこのような展開をある程度、想定していた。
マレーヤでラザクの死を知った瞬間から、解除コードなしでの解読が、どれほど無謀な試みであるかは理解していた。
しかし今、自分にできることは何もない。真島をはじめとする分析官たちの手腕を信じるしかない。
紅梅は紙コップに入った温かい紅茶にそっと口を付け、一口すする。立ち上る湯気の向こうで、取り乱す分析官たちを見つめていた。
ふと、紅梅の視線に一人の若者が映り込む。ダボついたパーカーに無造作なヘアスタイル。どこか幼さが残る若者。澤村龍斗だった。
(……ん? あいつが噂の分析局の異端児か?)
紅梅は目の奥をわずかに細めた。
(恐らくそうだろう。あの表情と視線を見ればわかる。(大人達が寄ってたかって何やってんだか)そう顔に書いてある…確か小学生の時に政府の機密サーバーに侵入して捕まったとかいう奴だったな。まあ…あの真島がここまで苦戦しているんだ。いくら天才君と言えど無理だろうがね)
紅梅はそう思い直し、再び紅茶のカップに視線を戻した。そのまま、いたずらに時間だけが過ぎていく。
紅梅が本部に到着してから既に10時間が経過していた。過去、これほどの人員と最先端設備を投じて解析できなかったデータなどない。
確かに、強固に暗号化されたデータを解除コードなしで解読するのは至難の業だ。しかし、国家情報局の分析局は幾度となく、その不可能を可能にしてきた。
だが、今回は明らかに様子が違っていた。何重ものアルゴリズムが複雑に絡み合い、計算を進めると、直ちに構造そのものを変形させる悪魔のような暗号。
真島を含めチーム全体に決定的な「手詰まり感」が漂い始めていた。
時計の針は、すでに23時を回っている。日勤の一般分析官たちは、重苦しい空気の中に諦めの色を滲ませながら、別のことを考え始めていた。いつ解放されるのだろうか…と。
だが、澤村だけは違っていた。仕事も無いのに自分のデスクに残り、手詰まりで頭を抱える真島たちを横目でチラチラと見ながら、「仕事をしている風」を装っていた。
キーボードを叩くフリをしながら、チラッ。エナジードリンクを飲むフリをしながら、チラッ。
そのぎこちない仕草は、百戦錬磨のスパイである紅梅の目には、こう映っていた。
(……フッ。『なんだよ、手こずってるじゃん。楽しそうだから俺も混ぜてくれよ』……そう言いたくてたまらない顔だな)
紅梅は何杯飲んだかわからない紙コップの山に、また一つを積み上げ、静かに立ち上がった。
大人たちの限界と退屈に飢えた異端児の化学反応を、深夜の分析局で実験してみようと思ったのだ。
23時45分。PCやサーバーの排気音だけが響くフロアで真島は顔を両手で覆い、重い溜め息をついた。
その背中は、疲労と挫折感で限界を迎えている。そこへ、静かな足取りで紅梅が近づいてきた。
「真島、調子はどうだ?」
真島は覆っていた手をどけ、血走った目で紅梅を見上げた。額には嫌な汗が浮かんでいる。
「……こんなの初めてだ……らちがあかねぇ」
「少し休んだらどうだ。もう10時間近くぶっ通しだぞ」
「そうだなぁ……でもなぁ……」
手ぶらで引くわけにはいかないという現場責任者のプライドが、真島の足を重く縛り付けている。
紅梅はそんな彼の葛藤を汲み取り、珍しく笑顔を見せ、ふっと悪戯な光を宿らせた。
「まあ、少し休め。その代わりと言っちゃなんだが……あの若造にメインをやらせてみないか?」
紅梅はチラリとデスクで「仕事をしているフリ」を続けている澤村の方を顎でしゃくった。
「例の異端児なんだろ。お手並み拝見……なんてどうだ?」
真島は一瞬呆気にとられた顔をしたが、すぐにフッと鼻で笑った。
「あー……あいつね。どうも学生ノリが抜けきってねえボンボンだよ。まあ、言われた仕事自体はそれなりにこなしてるがな。……事前に聞いてた『天才ハッカー』っていう売り込みとは、だいぶ印象が違うけどよ」
真島は深く背もたれに体重を預けると、首をゴリゴリと鳴らした。
「……まあいいや。俺もちょっくら休みてえしな」
疲弊した身体を重そうに起こすと、真島はフロアの端に向かって声を張り上げた。
「おーい! 澤村、ここ代われ!」
キーボードを叩くフリをしていた澤村の指が、ピタリと止まる。
「……へ?」
「へ、じゃねえよ。このメイン端末、ちょっと席譲ってやるから代われ。……ただし、余計なマネはするなよ」
「…あっ…はいはーい!」
澤村は面倒くさそうな態度を装いながら、だぼついたパーカーの袖をまくり上げ、ぬらりと椅子から立ち上がった。
だが、その瞳の奥では、飢えていた猛獣のような輝きがギラリと解き放たれていた。
空になったエナジードリンクの缶をゴミ箱へ投げ捨て、真島が開けたばかりの「メイン解析デスク」へと足を進める。
すれ違いざま、紅梅は澤村の耳元で聞こえるか聞こえないかのかすかな声で呟いた。
「頼んだよ、天才君」
澤村は返事もせず、ただ口元を「ニヤリ」と緩めると、大人たちが10時間かけてもびくともしなかった、悪魔の前へと腰を下ろした。
メイン解析端末の前に腰を下ろすと、画面を埋め尽くす暗号の数式をじっと見つめた。
「……うわー、なんだこれ。こんなガチガチのロック、初めて見るわ」
冷め切っていたはずの彼の瞳に、子供が高級なおもちゃを見つけた時のような、純粋無垢な輝きが宿る。
「……さぞかしスゴいお宝が入ってるんだろうな」
言葉とは裏腹に、彼の両手はすでにキーボードの上を爆速で動いていた。
タタタタタタタンッ、と、まるで熟練のピアニストが狂想曲を奏でるような高速の打鍵音がフロアに響き渡る。
真島たちが10時間かけても解読の糸口すら掴めなかった多面体の動的格子暗号。
澤村はそれを解こうとするのではなく、アルゴリズムが1秒ごとに変化する周期の歪みを異常な直感で捉え始めていた。そして、わずか10分後。
「ピピっ!」
電子音とともに、巨大モニターの最上層を覆っていた赤色の障壁が、一瞬で色を変えた。中央のメインモニターに躍り出たのは、鮮やかな緑色の文字。
[ BLOCK-01: UNLOCKED ]
>>> SUCCESS <<<
一瞬、フロアが静寂に包まれる。だれもが呆気に取られていた。
「えッ……ちょっと、う…嘘でしょ!?」
隣で見守っていた秋月が、思わずメガネをズリ下げて絶句した。
「 私たちが10時間かけて解けなかった第1層を…しかもたった10分程度で…」
澤村は背もたれに深く体重を預け、鼻の下を指でこすりながら得意気に笑った。
「へへへ、ま、こんなとこでしょ。さぁ、次々」
分析局の待合室から見ていた紅梅も、さすがにこれには面食らった。
完璧なスパイとしての表情が破綻し、目を見開いたまま、中央メインモニターの緑色の表示に釘付けになっていた。
(……わずか10分程度で、あの複雑な暗号を解いたというのか……!?)
澤村は余韻に浸ることなく、すぐさま2つ目の暗号層へ挑んでいく。しかし、ここからは容易ではなかった。
タタタン、タタン、とキーボードを叩く指が一瞬止まり、澤村の額にうっすらと汗が滲む。
「……チッ。なんだこれ、解いても解いてもすぐに復元しやがる……」
澤村も2つ目のロックには露骨に苦戦し始めていた。計算の途中でアルゴリズムが自己修復を行い、何度突破を試みても元の暗号化状態に引き戻されるのだ。
その時、休憩室から戻ってきた真島が、フロアの異常な空気に足を止めた。
「……? 何かあったのか? おい、秋月……どうした、何があった?」
「チ、チーフ! 彼……1つ目のロックを解除しちゃいました!」
「な……なんだと!? ウソだろ!?」
真島の手にある休憩室から持ってきたコーヒーカップが滑り落ちそうになる。慌てて澤村のいるメインデスクへ駆け寄った、まさにその瞬間、2回目の奇跡が起きた。
澤村が強引に叩き込んだコードが、2つ目と3つ目の暗号格子のアルゴリズムの接合部に同時に噛み合ったのだ。
「ピピっ!ピピっ!」
メインモニター全体が激しい緑色のフラッシュに包まれる。
[ BLOCK-02: UNLOCKED ] >>> SUCCESS
[ BLOCK-03: UNLOCKED ] >>> SUCCESS
2つの巨大なロックシグナルが、完全に同じタイミングで「SUCCESS」へと切り替わった。
「!? なッ……!?」
「!オオオオオー!!!!」
真島も、秋月も、そしてフロアに残っていた分析官たちも驚きを隠せず、思わず声が出てしまう。
澤村は「ふぃー」と小さく息を吐き出すと、だぼついたパーカーの袖で汗をぬぐった。
「……いやー、しんどかった。2つ目と3つ目は、まったく同じタイミングで解除しないとダメな連動型のトラップが入ってたみたいだね。……へへ、なかなか手強かった」
澤村はキーボードから一度手を離し、指の関節をポリポリと鳴らした。その表情には、もはや圧倒的な自信と好奇心に満ち溢れていた。
「さて……残る最後もいきますか」
画面に残されたのは、血のように赤く光る文字列とドス黒い背景が映る最深部の動的格子暗号。その向こう側に、ラザクが命と引き換えに守り抜いた真実が眠っている。
【あとがき】若き天才・澤村の活躍!データキューブの第4の壁は突破できるのか。そして徐々に物語の核心に近づいていきます。次回もご期待ください。
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★本作品はフィクションです。物語に登場する人物、団体、組織、地名、イベント、ならびに一切の国家・政府機関・外交関係の描写はすべて架空のものであり、実在のいかなる対象とも関係ありません。また、作中で扱われるいかなる思想、主張、政治的立場、歴史的解釈についても、特定の立場を支持・肯定・非難する意図は一切ありません。




