第16話 紅梅元の誕生
【前回までのあらすじ】傷が回復し退院を迎えた五十嵐は、国家情報局へ出庁する。人事部から呼び出され、作戦失敗の責任による左遷を覚悟するが、案内された会議室で彼を待っていたのは国家情報局のトップ、局長・葛城誠一だった。
「か……葛城局長」
「五十嵐か。久しぶりだな。まあ、入局式典での訓示のときくらいしか、私の顔を
見る機会はなかったと思うがね」
葛城は静かな眼光の奥に穏やかな笑みを浮かべ、対面形式のデスクへと腰を下ろした。
「掛けたまえ」
促されるまま、五十嵐もデスクを挟んで対面へと座る。
「今回の任務、本当に大変だったな。君の活躍は、すべて報告書で読ませてもらったよ」
初めて耳にする純然たる労いの言葉だった。しかし、五十嵐はそれを単なる体の良い社交辞令だと受け取っていた。
「活躍」という言葉の裏に、どれほどの皮肉が込められているか分かったものではない。退職か、左遷か。さっさと本題を切り出してくれないか。
五十嵐は内心苛立ちを感じながらも、軽い会釈を入れ、葛城の次の言葉を待った。
「単刀直入に言おう。君の身元は今回の一件で他国の防諜機関に完全に割れた。つまり『焼けた』んだ。当然、これまでのような外交官やビジネスマンを装った通常の諜報活動に戻ることはできない。経歴上も君はすでに我が局を依願退職した扱いになっている」
葛城は極めて淡々と、五十嵐潤という人間が社会的に抹殺された事実を告げた。
「そこで君の今後の処遇だが、提示できる道は三つある。一つ目は、公式に我が局を離れ、完全な民間人として人生をやり直す道。もちろん一定の監視と厳重な守秘義務は残るが、一般社会の平穏へ戻ることは許可しよう。二つ目は、局内に残ってデスクワークに勤しむ道。配属先は総合支援局の経理課だ。そして……」
葛城の言葉がふっと途切れた。静かな会議室の空気が、一瞬にして重く変化する。そのわずかな沈黙は、局長というトップからの無言の推薦だった。
「三つ目は──『戦術諜報員』だ」
あまりに想定外の言葉に、五十嵐は思わず聞き返した。
「戦術諜報員……ですか?」
その存在を知らないわけではなかった。国家情報局の総合作戦局・諜報部の中でも数えるほどしか存在しない武力行使を辞さない諜報員の噂は耳にしたことがあった。
だが、まさか自分のような一介の諜報員の異動先として提示されるなど、思いもしなかった。そのとき、五十嵐の脳内で全ての意図がバチッと結びついた。
なぜ人事の担当ではなく局長自らがここにいるのか。そして、さきほどの意図的な沈黙の意味。
葛城は最初から、自分をその「修羅の道」へ引きずり込むつもりでこの場を設けたのだ。
五十嵐がその意図を正確に察知したことを、葛城もまた見逃さなかった。局長は淡々と言葉を重ねる。
「特殊部隊員に匹敵する高度な戦闘技術を身につけ、これまでの諜報活動とは比べものにならないハイリスクの作戦に従事してもらう。その活動において、日本政府は一切の関与を否定する。意味はわかるな? 戦術諜報員は現在、局内に十名程度。実力と死神に嫌われるほどの強運を兼ね備えた者だけが選抜される」
「……私が、選抜されたと?」
「ああ、そうだ。まがりなりにも君は、敵の拷問によって肉体も精神も限界を迎えていた極限状態の中で、敵の戦闘員2名を倒し、あの要塞を脱出してみせた。一般的な防衛訓練しか受けていない諜報員が、実践できる芸当じゃない」
葛城は言葉を切り、五十嵐の反応を確かめるように静かな視線を向けた。そして、なおも続ける。
「そして、何より『運』だ。あの地獄を生き抜いた運と経験こそが貴重なのだ。周囲の凡人どもは、あの作戦は重要なデータを失っただけの大失敗と言っているが、私は違う。作戦である以上、失敗はつきものだ。今回はデータを失ったが、我が局は君という『貴重な人材』を手に入れた。私はそう評価している」
葛城は現役時代、ヒューミント(対人心理戦)を得意とする優秀な諜報員だった。
五十嵐の胸中にある組織へのやり切れない絶望や屈辱など、すべて手に取るようにわかっている。だからこそ、そこを的確に突いてきたのだ。
五十嵐もそれはわかっていた。そして葛城の眼差しに宿る期待が本物であることも同時に伝わっていた。葛城はここで、あえて逃げ道を用意し五十嵐を揺さぶる。
「もちろん、選択は君の自由だ。退職を選ぼうが経理のデスクワークになろうが、不名誉なことではない。君のこれまでの国家への貢献と名誉は私が保証する。それに、あれほどの地獄を見たんだ。PTSD(精神的外傷)を発症する危険もある。今ここで決断しろとは言わない。ゆっくり考えたまえ」
葛城の説明がそこで途切れた。会議室に、重苦しい沈黙が流れる。
この過酷なキャリアを提示された者は、その圧倒的な重圧に呑まれ、熟考の末にデスクワークや退職を選ぶケースも少なくない。葛城は、五十嵐が多少の動揺や疑問の声を漏らすだろうと予測していた。
しかし、五十嵐の口から出たのは、疑問でも躊躇でもなく、シンプルなひとことだった。
「戦術諜報員への転属を希望します」
低く、静かな声だった。
これこそが、戦術諜報員としての適性を測る『最後の試験』でもあった。熟考や迷いを挟むような者に、命をかけた非公式の任務など到底任せられない。即答で退路を断てるか否か。
葛城の提示に応えられる合格ラインは、最初からそれしかなかったのだ。
だが同時に、葛城は五十嵐の瞳の奥を見定める必要があった。これが死線をくぐり抜けた者の確固たる覚悟なのか、それとも自暴自棄の破滅願望なのか。
「……本当にいいのか? 踏みとどまるなら、今が最後だぞ」
「はい」
五十嵐の瞳には、一片の迷いも曇りもなかった。
あの極限の地獄で味わった苦しみ…痛み…絶望…希望…幸福…そしてあの女性隊員の香気…。
それまでの外交官やビジネスマンを装った諜報活動では決して味わうことのできなかった強烈な「生」への渇望と実感。今でも思い出すと脳の興奮を感じる。
あの時の体験はトラウマにはならず、むしろ、至高の魅力となって五十嵐を虜にしていた。
葛城は五十嵐の瞳の奥に宿る「覚悟と狂気」をじっと凝視し、やがて、ふっと肩の力を抜いて満足げな笑みを浮かべた。
(ひょっとしたら手渡す機会はないかもしれない…)
そう思っていた新しい身分証を、葛城は胸ポケットから取り出し、机の上へと静かに置いた。
「ならば、『五十嵐 潤』の名はここに捨てていけ。今日からお前は『紅梅元』だ
【あとがき】自分で書いておいてアレですが、このシーンの葛城局長、最高にカッコいいんですよね!(笑)かくして『五十嵐 潤』は終わり、暗部に生きる男『紅梅 元』が誕生しました。少し長くなりましたが、紅梅の過去編は以上です。
次回からは、本編が再開します!マレーヤから命懸けで持ち帰った「データキューブ」その解読から始まる新たな展開をお届けします。どうぞご期待ください!
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★本作品はフィクションです。物語に登場する人物、団体、組織、地名、イベント、ならびに一切の国家・政府機関・外交関係の描写はすべて架空のものであり、実在のいかなる対象とも関係ありません。また、作中で扱われるいかなる思想、主張、政治的立場、歴史的解釈についても、特定の立場を支持・肯定・非難する意図は一切ありません。




