第15話 絶望の左遷
【前回までのあらすじ】自力で脱出した五十嵐を救出すべく、特殊部隊は敵陣へと
果敢に突入する。無事に五十嵐を救出した彼らは、カラスの腕章をもつ精鋭部隊だった。
次に五十嵐が目覚めたとき、視界に映ったのは病院の白い天井だった。
一体、あの地獄から何日が経過したのだろうか。首を動かそうとするが、脊髄に鉛を流し込まれたように重い。周囲に人の気配はなかった。
静寂の病室で、五十嵐は天井の一点を見つめたまま、己の内面に問いかける。
(俺は…生きているのか。…みんな死んだのか…作戦は…データはどうなった…)
霧がかかった記憶の断片を、うつろな思いで繋ぎ合わせる。あの極限の戦場から自分を救ってくれたのは誰だったのか。
……そうだ、全身を漆黒の装備で固めた部隊だった。確か女性の声も聞こえた。彼女の体にロープで固定され、ヘリのウインチで強引に吊り上げられた……のだ。
全身はミイラのように包帯でぐるぐる巻きにされていた。感覚が麻痺した包帯の内側が、えげつない状態になっていることなど、想像するまでもなかった。
あの命懸けの脱出の瞬間、上空の風の中で五十嵐の鼻腔を突いた「女性隊員の洗練された香り」と「銃弾の火薬の匂い」。
他にも思い出すべき重要な情報はあるはずなのに、なぜかその『不思議な香気』だけが、狂おしいほど鮮明に脳裏に焼きついて離れない。
それ以外の記憶は、今はまだ暗い記憶の底だった。その時、回診の途中で通りかかった看護師と目が合った。
「あっ……!」
目覚めた五十嵐の視線に気づいた看護師が、慌ててベッドへと駆け寄ってくる。
「気が付きましたか? 私の声、聞こえますか?」
五十嵐は声を出そうとしたが、喉の粘膜が完全に張り付いて声にならない。ただ、小さく一度だけ頷いてみせた。
開いた窓からは、あの密林のまとわりつくような湿気とは正反対の、東京の乾いた風が虚しく流れ込んでいた。
退院までに要した期間は1ヶ月ほどだった。その間、病室には国家情報局の人間が絶え間なく訪れ、作戦失敗に関する執拗な査問と聴取が繰り返された。
「よく生き延びた」、「無事で何よりだ」といった、人間らしい労いの言葉はほとんどなかった。
淡々とした事実確認と、目的であったデータの処遇に関する冷たい詰問ばかりだ。五十嵐はその質問の裏側から、今回の救出作戦の「真のシナリオ」を推測し絶望した。
アセットの裏切りによって五十嵐が敵施設に拘束された時点で、本部は二つの選択肢を用意していた。
一つは、五十嵐が自力で脱出し、データを回収して戻るというシナリオ。
もう一つは、精鋭の特殊部隊を投入し、五十嵐が監禁されている施設へ隠密急襲を実行。五十嵐を救出すると同時に、目的のデータを部隊の手で確実に回収するというシナリオ。
当然、本部がメインシナリオとして描いていたのは後者だった。本格的な戦闘訓練を受けていない、スパイあがりの五十嵐が、あの要塞から自力で脱出することなど、ハナから不可能だと踏んでいたのだ。
しかし、状況は本部にとって最悪の展開を迎える。確率的にあり得ないと無視されていた、五十嵐の「自力での脱出」が成功してしまったのだ。
しかも、五十嵐がハチの巣を突いたかのように敵陣を大混乱に陥れたせいで、特殊部隊による本来の隠密潜入・データ回収の前提が完全に崩壊。
結果として特殊部隊は「単なる五十嵐の救出」のためだけに手札を切らざるを得なくなった。
それでも五十嵐がデータを回収して逃亡している可能性に賭けて作戦を続行したものの、五十嵐は命辛々、手ぶらで逃げ帰ってきた。
(余計な真似などせず、あのまま大人しく尋問室で待っていれば、特殊部隊が救出してデータごと回収できたものを……)
口にこそ出さないが、査問官たちの冷たい視線の奥には、明確に落胆と苛立ちが透けて見えた。彼らにとって五十嵐の命など、敵国の機密データに比べれば、値踏みするに値しないものだった。
そのことを理解した瞬間、五十嵐の胸の奥に広がったのは、底無しの絶望だった。
自分という存在は何なのか。命を削り、周囲に嘘をつき、自分という存在を消して…そこまでしてこの国に仕えなければならないのか。諜報員の生きる世界とは、かくも冷酷で人間性を剥奪された場所なのか。
夕日が差し込む病室の中、答えの出ない自問自答だけが、彼の頭の中で終わりなく渦巻いていた。
神経がすり減るような査問の日々を経て、身体の機能がおおむね回復した頃、五十嵐は久々にスーツへと袖を通し、国家情報局の本庁舎へと出向いた。
事前に総合支援局へ出庁日を伝えた際、折り返しで「人事部との面談」を指示されていた。
概ねの察しはついていた。あれだけの失態だ。名ばかりの退職勧告か、あるいは二度と陽の目を見ない窓際のデスクワークへ左遷。そんなところだろう。
午前9時。五十嵐が指定された会議室のドアを開けると、予想だにしない人物が待っていた。
「か……葛城局長」
国家情報局局長・葛城 誠一。全部門・全支局で働く約3万人の局員たちの頂点に君臨する国家情報局の絶対的トップだ。単なる人事面談の場に、なぜ葛城が独りで座っているのか。五十嵐の頭脳をもってしても、それは理解不能な状況だった。
【あとがき】紅梅の過去、五十嵐潤であった頃のエピソードもいよいよ大詰めです!次回もご期待ください!
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